国民的RPG『ドラゴンクエスト』はいかにして誕生したのか。その裏には、現代の常識では考えられないような“奇跡的な出会い”と“ムチャクチャな戦略”が隠されていた。

【画像】高校生プログラマーに初月400万円の印税をもたらした伝説のゲームがコチラ

 ボードゲーム会社を経営する渡辺範明氏の著書『国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか?』(イースト・プレス)の一部を抜粋し、往時のエニックスの様相を紹介する。

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新卒がいきなりゲームプロデューサー?

 僕自身の経歴も、エニックスはもともと企画会社である(=社員は企画者&ビジネスマンであってクリエイターではない)というビジネススタイルの影響の一例といっていいでしょう。僕は大学在学時、新卒者募集のメニューにあった「プロデューサー採用」というコースに応募し、なんとか採用されてエニックスに入りました(実際には4年生で留年してしまったので、2年連続で就職活動をすることになり、しかも1年目は落ちていますが……)。つまり、職種としては入社当初から「ゲームプロデューサー」だったわけで、これも業界的には異例中の異例といえます。

 もちろん実務上は、入社当初は先輩プロデューサーの下についてアシスタント業務からはじめるわけですが、そのアシスタント業務=修業期間からの卒業も異常に早く、「ひとりでの担当プロジェクトができたら、その時点で君たちはプロデューサーだからね」という考え方でした。実際、僕がその意味でプロデューサーになったのは、入社してから1年以内のことだったと思います。

 普通はゲーム業界でプロデューサーというと(他の業界でもそうだと思いますが)、まず現場のスタッフとして企画、プログラム、アート、サウンドなど何らかの技術を磨き、一定のキャリアを経たうえでそのセクションのチームリーダー、いわば中間管理職となります。その中間管理職から一部の人が抜擢され、開発チーム全体を仕切るディレクターとなったり、ビジネスやマネジメントのスキルが高い人がプロデューサーになったりしていく……という流れが一般的です。

 新卒1年目の、去年まで学生だった若造がいきなりプロデューサーを任される、というのは狂気すら感じさせる非常識なシステムですが、その源流には企画会社としてのエニックスの思想「社員はゲーム開発における編集者である」という考え方が宿っているわけです。

堀井雄二と中村光一

 さて、そんな社風から発想されたゲーム・ホビープログラムコンテスト(編集部注:賞金総額300万円で始まったゲームのコンテスト)は1982年から1984年の間に3回にわたって開催されました。

 なんといっても特筆すべきはその初回です。後にドラクエ開発の中核を担う2人の天才を輩出したからです。

 そのひとりは、ドラクエシリーズの総合ディレクター(映画などでいえば語義どおりの「監督」にあたるポジション)であり、シナリオライターとしても唯一無二の「堀井節」を発揮することになる堀井雄二さん。


写真はイメージ ©︎mapo/イメージマート

 堀井さんはこのコンテストに『ラブマッチテニス』というテニスゲームを応募して入選しましたが、実は同時に、「週刊少年ジャンプ」(「ジャンプ」)に出入りする若手ライターとして、このコンテストのレポート記事を任されていました。周囲の関係者にも内緒でこっそり自分の作品を応募し、いざ入選してから「実はこれ、僕の作品なんです」と明かして「ジャンプ」誌面上でも自分の受賞記事を自分で書くという今の感覚でいうとムチャクチャなやり方ですが、堀井さんらしい茶目っ気が伝わるエピソードです。

 もうひとりは初期ドラクエシリーズのメインプログラマーであり、後にゲームメーカーの株式会社チュンソフトを創業する中村光一(*1)さん。

*1 現スパイクチュンソフト取締役会長。1980年代前半からプログラミング雑誌『I/O』などにアーケード(業務用)ゲームの移植を投稿しており、早くから天才プログラマーとして知られていた。

 中村さんはこの時点でなんと高校3年生だったのですが、自作ゲーム『ドアドア』を応募し、優秀プログラミング賞を受賞しました。『ドアドア』はコンテスト後、すぐにエニックスから商品化されて1万6000本の大ヒットとなり(当時のPCゲームは数千本売れればヒット作でした)、中村青年には最初の1カ月だけでも400万円以上の印税が振り込まれました。

 コンテストの優勝こそ、すでに有名プログラマーだった森田和郎さんのウォーシミュレーションゲーム『森田のバトルフィールド』に譲りましたが、その若さと作品のヒットをもって、まさにこのコンテストが生み出した次世代のスターと呼ぶにふさわしい存在が中村光一さんだったといえるでしょう。

『ポートピア連続殺人事件』の発売

 エニックスが自社から販売できるゲームソフトを求めて開催したゲーム・ホビープログラムコンテストは、結果的に20本以上の新作ゲームをエニックスにもたらし、そのなかには『ドアドア』をはじめとするいくつかのヒット作にも恵まれましたが、むしろそのクリエイターたちとの出会いの方が、はるかに大きな鉱脈だったといえるでしょう。

 ドラクエシリーズの初代プロデューサー千田幸信(*2)さんは、この出会いを活かし、堀井雄二と中村光一という次世代スター2人にタッグを組ませて新作ファミコンソフトを発売しました。それが、1983年の『ポートピア連続殺人事件』です。

*2 岩手県出身。福嶋康博が立ち上げた東芝のオフコン販売代理店(MCB)に入社し、一度は退職。その縁からエニックス設立に参画して取締役となった。ちなみに漫画家の吉田戦車は親戚である。

 この『ポートピア連続殺人事件』は、堀井さんがもともとパソコン用ソフトとして制作済みだったものを中村さんのプログラミングでファミコン用に移植したもので、完全新作ではありません。

 しかし、このゲームの発売にも、「後にファミコンでRPGを出したい」という堀井さん、中村さん、千田さんの戦略がありました。ゲーム・ホビープログラムコンテストの開催はアメリカでの『ウルティマ』『ウィザードリィ』発売の翌年であり、それぞれにパソコンフリークでもあった堀井さんと中村さんは、出会った時点ですでにこの新しいゲームジャンルに魅了されており「RPGの魅力を日本でも広めたい!」ということで意気投合したようです。その2人をバックアップするかたちで、エニックス千田プロデューサーがプロジェクト化に踏み切りました。

RPGへの準備

 ところが当時、ファミコンの主な顧客であった子供たちは、ほぼ『マリオブラザーズ』のようなアクションゲームか、『ゼビウス(*3)』のようなシューティングゲームしか遊んだことがありませんでした。

*3 1983年から稼働したアーケードゲーム。空中と地上の撃ち分けや美しいグラフィック、SF的な世界観が大ブームに。ファンの同人誌『ゼビウス1000万点への解法』はゲーム攻略本の原点である。

 そういった「動的」なゲームだけが認知されている状況で、RPGのようにまったくアクション性のない「静的」なゲームの面白さを理解してもらうのは難しい時代でした。

 RPGとはいわば、文章を読んで謎を解き、物語を前進させていくアドベンチャーゲームの要素と、攻撃力や防御力といったパラメータのやりとりで戦闘を表現するシミュレーションゲームの要素が組み合わさったジャンルです。

 この馴染みの薄い2つの要素を同時に押し付けてしまうと、子供たちに面白さが伝わらないのではないか? という懸念がありました。そのため、まずは画面上の文字を読み、情報を整理しながら「コマンド(行動の選択肢)」を選んでお話を進めていくというゲーム形式に慣れてもらいたいという狙いもあって、ファミコン版『ポートピア連続殺人事件』を発売したわけです。これは一見まわり道のようで、非常にクレバーな戦略でした。

すぎやまこういちからのハガキ

 彼らがそのクレバーなまわり道をしていたころ、他にも奇跡的な出会いが続きました。コンテストでも活躍した森田和郎さんがエニックスから発売した将棋ゲーム『森田和郎の将棋』の商品アンケートハガキで「すぎやまこういち(*4)」という差出人名の一通が届いたのです。

*4 東京都出身。フジテレビ在籍時には「ザ・ヒットパレード」等を担当しつつCMも作曲。退社後にはザ・タイガースの楽曲やアニメ・特撮の音楽を手がけ、活動範囲はケタ外れ。2021年に90歳で没。

 すぎやまこういちさんは、この時点ですでにザ・ピーナッツ、ザ・タイガースといった有名ミュージシャンを何組も世に送り出し、「亜麻色の髪の乙女」などヒット曲を多数かかえた有名作曲家でした。まさかそんな大御所がPCゲームのアンケートハガキを? とエニックス社員たちも困惑したようですが、結果的にこのハガキはまぎれもなく当人が送ったものであり、すぎやまさんは大のゲーム好きだったということが判明したのです。

 今では大御所有名人でゲーム好きな方は加山雄三さん、鈴木史朗(*5)さんをはじめ何人もいらっしゃいますが、当時の感覚としては非常に珍しいことでした。千田プロデューサーはこの縁を活かしたいと考え、すぎやまこういちさんにドラクエの音楽を依頼することになります。まだ出来立てホヤホヤの新興メディアであり、世間からは低く見られがちだったテレビゲームの音楽をすぎやまこういちさんが担当したことは、その後、テレビゲームの文化的地位を向上させていくひとつの要因にもなりました。

*5 1938年生のフリーアナウンサー。筋金入りのゲーマーで、テレビで『バイオハザード4』(当時69歳)をプレイした際に「手榴弾で一応ぶっ殺しときます」といいつつ高スコアを叩き出していた。

異端の編集者、鳥嶋和彦

 これに加えて大きく関わるのが、当時の「ジャンプ」における鳥山明さんの担当編集者であり、『Dr.スランプ』に登場する悪役キャラ「Dr.マシリト」のモデルとしても知られる鳥嶋和彦さんです。

 ライターとしての堀井さんにジャンプの読者ページやゲームの紹介ページを依頼していたのも鳥嶋さんであり、一種の「マンガ至上主義」に貫かれていた当時のジャンプ編集部のなかで、「マンガよりゲームの方が好き」といってはばからなかった鳥嶋さんの存在は非常に異端でした。

 堀井さんとのつながりから『ドラクエ』の企画を聞きつけた鳥嶋さんは「本気でRPGをメジャーに売っていくつもりなら、最初からジャンプと組んで企画を進めよう」と持ち掛けました。これによって、『ドラクエ』は発売前からその開発過程を「ジャンプ」誌上でレポートされ、さらにキャラクターデザインとパッケージイラストを鳥山明さんが担当することが可能になったわけです。

 当時すでに『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』で立て続けにヒットを飛ばし、誰もが知る国民的マンガ家であった鳥山明さんをこのように他社のプロジェクトに関わらせることは、普通であれば担当編集者がもっとも嫌がってもおかしくないことです。それをむしろ積極的に進めていった鳥嶋さんの先見の明が、鳥山明さんにもうひとつの代表作「ドラゴンクエスト」をもたらしたといえるでしょう。

 このように、ドラクエは、その製作段階から不思議なほど外部のクリエイターとの縁に恵まれていました。

マニアのホビーから国民的エンタメへ

 初代『ドラクエ』が発売された1986年のファミコン市場はまさにバブル的な盛り上がりの渦中にありました。現在の成熟したパッケージゲーム市場と比べたら、出せば売れるイケイケの状態だったといえます。

 しかし、そのタイミングの良さを前提としても、ほとんどの人が名前も知らない海外の遊びを「パソコンマニアのホビー」から「老若男女が遊ぶ国民的エンタメ」にまで広げるミッションは並大抵ではありません。

 堀井さん、鳥嶋さんら初代『ドラクエ』企画メンバーは、「ジャンプ」の誌面、特に読者ページを通じ、当時の子供たちの興味や空気をリアルタイムに感じていました。

 そんななか、RPGという新しいゲームジャンルに大きな可能性を感じつつも、「これをいきなり子供たちに理解させるのは難しい」という感覚が共有できていたことはさすがの現場感です。ゲームクリエイターはえてして「ゲームが面白ければ売れる」と考えてしまいがちですが、単なる「ゲームの面白さ」だけでは絶対に届かない、その壁を越えなくてはいけないのです。

 そこでRPGという遊びを理解してもらうために、まずはその入門としてアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』を発売し、さらに「ジャンプ」誌上でも開発段階から「今こういうゲームを作っているぞ」という記事を展開していきます。「このゲームの主人公はキミ自身だ!」「だから主人公の名前も自由に付けられるぞ!」など、今ではまったく説明不要な「RPGの作法」を、時間をかけて丁寧に読者に説明していき、その知識と興味のレベルが高まったところで、満を持して『ドラクエ』を発売したのです。

 このように初代『ドラクエ』は単に「パソコンで盛り上がっていたRPGを初めてファミコンで出したから売れた」というものではなく、敏腕ライター堀井雄二さんのわかりやすく伝えるコミュニケーション能力、若き天才プログラマー中村光一さんの技術力とチャレンジ精神、作曲家すぎやまこういちさんのゲーム愛と新しい分野への好奇心、「ジャンプ」における異端の編集者鳥嶋和彦さんの先見の明と推進力、そしてマンガ家鳥山明さんのポップなデザインセンスが組み合わさり、それらがエニックスと集英社によって周到に「プロデュース」された結果の「売れるべくして売れた」作品といっても過言ではないでしょう。

 こうして発売された初代『ドラクエ』は「ジャンプ」読者の子供たちから徐々に人気の輪が広がっていき、最終的には150万本の大ヒットとなりました。今に連なる「国産RPG」のメジャー市場を築いた、まさに記念碑的作品の誕生です。

初代『FF』の販売本数は『ドラクエ』の3分の1以下だった…それでも“最強のライバル関係”が生まれた意外なきっかけ〉へ続く

(渡辺 範明/Webオリジナル(外部転載))