(写真:イラストスター/PIXTA)

いま世界的に、これまでの西洋中心の歴史認識の見直しが進められている。特に、豊富な資源、生産力とともにテクノロジーも急成長中のアフリカ大陸は、多くの企業や産業が進出しており、アフリカ史・アフリカ事情について最新のアップグレードを行うことで、ビジネスシーンにおいても異文化理解・コミュニケーションを深めるための貴重な知識となる。書籍『黒人の歴史 30万年の物語』より一部抜粋して紹介する。

人種は人間が発明した 「人種」概念の誕生(1684年)

物語の背景

場所 ヨーロッパ、アメリカ

前史
紀元前5〜4世紀 古代ギリシアの医師ヒポクラテスが、地理的要因は人の見かけや気質に影響を与えると書いた。

98年 古代ローマの文筆家タキトゥスが、ゲルマン人には「異民族と性的に交わった痕跡がない」と記した。

後史
1956年 ノアの息子ハムは呪われて黒い肌で生まれ、奴隷になったとする「ハムの呪い」を、米国の牧師マーティン・ルーサー・キングが「神への冒瀆」と切り捨てる。

1970年代半ば アメリカの法学者らが「批判的人種理論」を掲げ、白人の優越という西洋社会の観念に異議を唱える。


民族の違いに関する記述は古代ギリシアやローマの時代からあるが、現在のような「人種」概念が発達したのは過去4世紀ほどのことだ。英語の人種(race)という語はイタリア語のrazza(共通の祖先をもつ人々)に由来する。英語で使われ始めたのは16世紀の前半、いわゆる「科学革命」で動植物の分類が盛んになった時期だ。その目的は自然界への理解を深めることにあった。

その分類を人間にも適用したのが、フランスの医者で旅行家でもあったフランソワ・ベルニエだ。1684年の論考「各地に居住する種または人種の違いによる世界の新たな分類」で、彼は居住地域と身体的特徴にもとづいて人類を4つの「人種」に分けた。そのうち3人種については、肌の色の違いは(昔からの経験知にもとづいて)日光を浴びる程度の差によると考えた。しかしサハラ砂漠以南のアフリカ人の「黒さ」は生得的なものとした。

ただしベルニエは、人種による上下関係を提唱したわけではない。むしろ、自分の分類は自分が旅先で出会った人々の観察にもとづくものにすぎないと弁明している(ただしその観察は主観的で、かなり差別的ではある)。

その後、ベルニエに刺激されて多くの旅行者や学者が見かけや文化の違いにもとづく「人間の分類」に手を染めるようになった。そうなると、当然のことながら人類の起源や、「人種」による知能や文化、道徳性などの違いが論じられることになる。

人類の起源についていえば、18世紀のヨーロッパには2つの考え方があった。人類の起源は1つとする単一起源説と、いや1つではないとする複数起源説だ。

起源は同じでも異質

キリスト教徒やユダヤ教徒(そしてイスラム教徒)は、たいてい単一起源説だった。共通の聖典である旧約聖書に、アダムとイブが最初の人類と書いてあるからだ。それでもアフリカや南北アメリカを植民地化していく過程で、ヨーロッパ人の間には自分たちのほうがアフリカ人やアメリカ先住民より優れているという信念が生まれた。

1735年、スウェーデンの植物学者カール・リンネ(医者でもあった)は『自然の体系』を著し、すべての動植物の系統的な分類を試みた。そして(「動物」という項目の下で)人間を大陸別に4つ(ヨーロッパとアジア、アメリカ、アフリカ)のタイプに分け、それぞれ肌の色が異なるとした。

同書の第10版(1758年)で、リンネは人間の分類基準に外見や気性、そして「人々がいかに統治されているか」をつけ加えた。たとえば「ヨーロッパ人」は筋肉質で賢く、「豊かな黄色い髪と青い目」をもち、法律によって統治されている。対してアフリカ人は「怠惰」で「ずるく」、「ものぐさ」で「怠け者」であり、恣意的に統治されている──要するにヨーロッパ人より劣っているということだ。

この俗説に反論を試みたのがドイツの人類学・博物学者ヨハン・ブルメンバッハ(医者でもあった)。1787年の論文で黒人の生理的・精神的能力を検証し、「精神的な機能や能力」に関し、黒人は「他の人種に劣っていない」と論じた。さらに西アフリカ出身の作家(女性詩人フィリス・ホイートリーなど)の作品を集め、可能であれば書簡を交換して、彼らの知的能力がヨーロッパの一流知識人と対等であるとの確信を得た。

ただしブルメンバッハは人間を5つの人種(コーカサス人、モンゴル人、マレー人、エチオピア〔アフリカ〕人、アメリカ人)に分けた上で、最初の人類はコーカサス人(白人)だと論じている。

「科学的」人種論

対して複数起源説を唱える人々は、すべての人の起源が同じはずはないと考え、起源が異なるからこそ人種間には知性や道徳性などの面で優劣があると論じる。要するに生まれつきの違いということで、18〜19世紀の南北アメリカでは、この主張が社会的な序列や植民地支配、そしてアフリカ人の奴隷化を正当化するために使われた。

イギリスの著名な哲学者デビッド・ヒュームも複数起源説をとり、人種間に序列をつけていた。1753年の「諸国民の特性について」と題する論考の脚注に、ヒュームはこう書いた。「ニグロ(黒人)」は「生来、白人より劣って」おり、そもそも「白以外の色」の民族に文明があった試しはない、と。この注釈は後に、奴隷制擁護の議論でしばしば引用された。

アメリカでは、医師で解剖学者のサムエル・モートン(1799〜1851年)が何百もの頭蓋骨を検視した結果として、脳の容量はコーカサス人(白人)が最大で、黒人は最低だと報告した。こうした「科学的人種論」(人種による区別には客観的な「証拠」があるとする議論)は、モートンの同時代人で外科医だったジョサイア・ノットを喜ばせた。ノット自身も黒人を奴隷として「活用」していたからだ。

この種の議論に異を唱えたのは、ドイツ生まれのアメリカ人で人類学者のフランツ・ボアズだ。彼は自身の研究を通じて、先住民族の才能に気づいていた。そして頭蓋のサイズは知性と無関係で、むしろ栄養や健康状態で決まることを明らかにした。1899年からコロンビア大学の教授を務めたボアズは多くの優秀な人類学者を育てたが、「科学的人種論」の勢いはアメリカでもドイツでも止まらなかった。その行き着いた先がナチス・ドイツである。

最も悪意に満ち、欧米社会の人種観に最も深刻な影響を与えたのは1853年に出た『人種不平等論』だ。著者はフランスの外交官でもあったジョゼフ=アルチュール・ド・ゴビノー。白色人種はその卓越した知性ゆえに最上位であり、黒人の知性は「非常に狭い範囲」にしか及ばないので最下位だと論じた。さらに「混血」は人種の純粋性を汚し、文明の衰退につながるという悪魔的な主張を掲げた。これを知ったアメリカのジョサイア・ノットはさっそく同書を英語に訳させ、1856年に出版して奴隷制擁護の論陣を張った。

ヨーロッパでは、金髪で目の青いアーリア人こそ理想の人種だというゴビノーの主張が途方もない悲劇を招いた。ナチスのアドルフ・ヒトラーはこれを根拠に、ユダヤ人やロマ(ジプシー)の「根絶」を正当化したのだった。

それでも差別は消えず


ナチス流の「優生学」とホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の悲惨な結果を目の当たりにして、ついに「科学的人種論」は否定された。1950年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)が、あの大戦を招いた「偽りの神話」や「迷信」を非難し、人種による差別は「非科学的で間違い」だと宣言した。

それから何度かの修正を経て、ユネスコは1978年に新たな「人種と人種的偏見に関する宣言」を出した。そこでは世界中のすべての人が「知的、技術的、社会的、経済的、文化的、政治的な発展の最高レベルに到達する能力を等しく有している」と明記された。また到達レベルの違いは地理的、歴史的、政治的、経済的、社会的、文化的な要因によると説明されている。

つまり、人種による差異は生物学的なものではなく、外的な要因による。そういう知見が学術的に確立されても、「人種」や人間の多様性をめぐる疑問や議論は絶えない。人種にまつわる差別や偏見は簡単に消えるものではなく、現代社会にも根深く残っている。

(ネマータ・ブライデン(編集顧問))