【緊急レポート2021】<番外編ミャンマー> コロナ禍からクーデター禍の ミャンマーで奮闘を続ける日本語メディア
2006年に中国に移住し、蘇州、北京、広州、その後上海に約8年在住。情報誌の編集長を経て現在はフリーランスとして活躍する大橋史彦さん。上海在住当時から、ミャンマーの日本語メディアに関わっていた大橋さんが、クーデター後もミャンマーで活動を続ける「MYANMAR JAPAN」CEOの永杉豊さん、編集長の武田和人から聞いたミャンマーの現状をレポートします。
医療体制が脆弱なミャンマーでは、早くから新型コロナウイルスに対して厳しい措置をとってきた。外国人の入国を制限し、ヤンゴン市内では深夜0時から午前4時までの外出や5人以上の集会を禁止するなど、日本以上の強い規制により、感染拡大は徐々に収まってきていた。
一時は日本に避難していた駐在員も今年1月には多くが戻り、いよいよ経済が回復に向かおうという気運が高まっていた。そこに起きたのが新型コロナウイルス以上の“厄災”――クーデターだった。
コロナ禍からクーデター禍へ
1月26日、国軍のゾー・ミン・トゥン報道官がクーデターを起こす可能について、イエスともノートも言えないと発言すると、ミャンマーの在住日本人向け情報誌「MYANMAR JAPON(ミャンマージャポン)」は、翌日にそのニュースをメールで配信した。
とはいえ、その時点ではほとんどの人はまさかクーデターが起きるとは思っていなかった。しかし、『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社新書)を上梓するミャンマージャポンの永杉豊CEOは、嫌な予感がしていた。万一に備え、社員に現金を確保しておくよう指示したという。
杞憂は現実となった。デモ隊と国軍による激しい衝突は、報道の通りだ。ミャンマーではフェイスブックの利用者が多いが、永杉氏は国軍による虐殺の様子をフェイスブックで毎日のように目にし「同じ国民同士なのに、人間はなぜこんなに酷いことができるんだろう」と眠れない日々を過ごした。
国軍に抗議するために職場を放棄する「市民不服従運動(CDM)」により経済活動が麻痺した。コロナ禍を生き抜いてきた日系企業もなすすべがなく、多くの駐在員が引き上げた。一時はほとんどの企業が開店休業状態。広告が主な収益源であるミャンマージャポンも例外ではなく、ページ数はクーデター前から半減した。
メディアということのリスクもある。同社は独自取材に加え、現地メディア13社と提携を結び、情報を入手している。しかし、そのうちの8社が国軍によって免許を剥奪。4社は山奥などに機材を移し、地下に潜ることでなんとか情報発信を続けている。
そうしたメディアに対する厳しい監視があるにもかかわらず、ミャンマージャポンはなんとか現地での発行を続けている。いつ国軍に事務所に踏み込まれてもいいようにバックナンバーはすべて処分したという。
現在のヤンゴンは緊急事態宣言下の東京よりも安全!?
最大都市ヤンゴンでは、クーデター直後は飲食店が軒並み閉まり、経済活動どころか日常生活すらままならない状態が続いたが、現在は落ち着きを取り戻しつつある。
潮目が変わったのは、3月27日の国軍記念日だ。現地に留まるミャンマージャポンの武田和人編集長は「国軍記念日までは日本人の間でもかなりピリピリしていて、正直外に出たくありませんでした」と振り返るが、この日を過ぎると、大規模な衝突は少なくなっていった。
4月になると夜間外出禁止令が緩和され、閉鎖されていた公園が開放され、街には人が戻ってきた。店を開ける飲食店が増え、普通の生活を送れるようになってきたと武田氏は話す。
「CDMが激しかった時は、飲食店はほぼクローズでしたが、4月中旬以降は休業する場合に届出を求められました。国軍の圧力によって、オープンせざるをえないのです。サンチャウンなど一部の運動の厳しいエリアではまだ閉まったままですが、全体として6〜7割は開いている印象です。いまは外出禁止令さえ守れば、普通の生活を送れています」
日本人が経営する日本料理屋のなかには撤退を決めた店もあるが、営業を続けている店も少なくない。そうした店には、ヤンゴンに留まっている日本人が足を運ぶ。
東京では緊急事態宣言により多くの飲食店が営業時間の短縮を余儀なくされ、会食も満足にできない。ところがヤンゴンでは日本人同士が普通に会食をし、情報交換をしている。現在のヤンゴンは、東京よりも会食しやすい状況なのだ。
