【国際プロレス伝】浜口平吾から「アニマル浜口」へ。ついに野獣誕生
【第3回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
国際プロレスに入団した浜口平吾(はまぐち・へいご)は、わずか1ヵ月でプロレスラーとしてデビューを飾った。しかし、結果はまさかの反則負け。「何も覚えていない。空前絶後の珍事」と振り返る。しかし、本人いわく「ド素人に毛が生えただけの新人」は、その後、国際プロレスで着実に地歩を固めていく。
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現役時代のアニマル浜口「アニマル」の名付け親・吉原功(3)
すると、国際プロレス社長・吉原功(よしはら・いさお)からリングネームが贈られた。
”アニマル浜口“――。
浜口はデビュー翌年の1970年から、リングネーム『アニマル浜口』としてリングに上がった。ストロング小林、サンダー杉山、グレート草津、ラッシャー木村、マイティ井上などと同じく、いかにも強そうな、カタカナのニックネーム+名字からなる国際プロレス流のリングネームだ。
「うれしかったですね。それまで『ミスター浜口』とか、『浜口兵庫』というリングネームもありましたけど、社長から直々にリングネームをいただけるとは」
ナニワトレーニングセンター時代から浜口は”練習の虫”と言われ、国際プロレス入門後もとにかく練習に打ち込んできた。その量はプロレス界でも群を抜いていて、”アニマル”というリングネームは動物のように動き回るから、という説もある。
「たしかに、よく練習しましたね。バカがつくほど練習していましたから。『国際プロレスの道場をのぞくと、必ず浜口がいる』なんて言われて。吉原社長からは『なぜアニマルなのか?』という理由は聞いていませんが、僕は『野獣のように強く、勇猛であれ』という教えが込められている、と受け取っています。
『名は体を表す』といいますが、リングネームが”アニマル”になってから、僕はどんどん野獣になっていった。そして、今がある――。
あれは1997年、フランスのクレルモン=フェランで行なわれた女子レスリング世界選手権。京子が初めて世界チャンピオンになった大会でした。最重量75kg級の準決勝戦、京子の相手は中国の劉東風選手。それまで世界選手権に5度出場し、すべて優勝している強敵で、劉選手に勝たないと優勝はない。その事実上の決勝戦ともいえるマットに上がる京子に叫んだんです。『野獣になれ!』とね。
人間、ギリギリのところに来ると、その人の本質が出るといいます。それまで僕を培ってきたもの、アニマル浜口のすべてが出た言葉でした。
僕のゲキを聞いて、京子もギラギラと燃え上がる野獣の目で相手を睨みつけ、見事フォール勝ちしたんです。残るは決勝戦、僕はもう一度、京子に声をかけました。『山登りにたとえれば、今はまだ9合目だ。俺たちは優勝するためにやってきたんだ。劉選手を倒したとはいえ、ここで浮かれているわけにはいかない。頂上まであと少しだ。もう一度、死にもの狂いでがんばれ!』と。京子はふたたび野獣となり、アメリカのクリスティ・スタングレーン選手に4-0で勝って初優勝を飾りました。
すべては通じていました。吉原社長がつけてくれた”アニマル”というリングネームに込められた思い、その教えが僕を通じて、娘へと一直線に……」
話を少し戻そう。1966年10月、吉原が日本プロレスを退職して国際プロレスを設立した10月5日の時点で、日本にあるプロレス団体は、1963年に亡くなった力道山が創設した日本プロレスのみだった。15年間不敗を誇ったプロ柔道家・木村政彦率いる国際プロレス団(吉原の国際プロレスとは別団体)、同じく柔道出身で木村に次ぐナンバー2の山口利夫が設立した全日本プロレス協会(後の全日本プロレスとは別団体)は、すでに消滅。1週間後の10月12日、日本プロレス社長を解任された豊登(とよのぼり)がアントニオ猪木を誘って東京プロレスを立ち上げたが、これも1年持たずに分裂して崩壊した。吉原はジャイアント馬場を擁するトップ団体――日本プロレスに必死に対抗しようとしていた。
「社長は日本プロレスに挑んでいた……違うな。もっと大きいところで、日本のプロレス界を変えようとしていたんじゃないかな。
吉原社長というのは、実に頭のいい人でね。僕なんかでも、話しているだけでそれがわかる。頭脳明晰。ほかの人とは違う発想をされた。社長は国際プロレスを創設して、いろんなことを始めましたよ。
文書で選手と契約するようにしたのも日本のプロレス界初ですし、総当たりリーグ戦でのバッドマーク方式も導入した。リーグ戦なんですけど、負けたり引き分けたりすると最初の持ち点から減点されていって、最後にもっとも多く点数が残った選手が優勝というシステム。これだと消化試合がなくなり、好カードが増える。もともと、アマチュアレスリングにあったやり方です。
日本人のトップ同士が対戦するというのも、そうでしょう。それまでは、力道山先生と大物外国人選手が戦うというのがメインでしたから。
また、会場にBGMを流すとか、選手の入場テーマ曲を決めるとかも初めての試みです。ちなみに、僕のテーマ曲は日野皓正さんの『マタドール』などでした。
日本で金網デスマッチをやったのも、国際プロレスが初。ラッシャー木村さんはドクター・デスに日本初の金網デスマッチで勝って(1970年10月8日@大阪府立体育館)、それから”金網デスマッチの鬼”と言われました。グレート草津さんを”チェーン・デスマッチの鬼”に仕立てようとしていたという話もあったそうですし。
専用バスも画期的だったなぁ。あれは楽でしたよ。椅子を倒すと、ホントゆっくりできましたからね。もちろん、遠いところは飛行機や列車でしたけど。今はそこそこの団体ならどこも専用バスを持っていますが、あの当時は国際プロレスしかなくてね。社長は本当に僕たち選手のことを考え、大事にしてくれました。
社長はアイデアマンで、先見の明があったんでしょうね。そうか……、日本プロレスで営業をやっていたから、そのとき苦労して学んだこともあるんでしょうかね。でも、”営業マン”と言うと弁が立つというか、口がうまいというか、失礼ですけどそんなイメージがありますが、吉原社長はそんなことはまったくなかったなぁ」
(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」
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