【第2回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 大阪でボディビルの魅力に目覚めた浜口平吾(はまぐち・へいご)――のちのアニマル浜口は、トレーニングで通っているナニワトレーニングセンターで人生の分岐点に立つ。国際プロレスを立ち上げた、吉原功(よしはら・いさお)との出会いだ。それをキッカケにアニマル浜口は、憧れの「プロレスラー」への道を歩み始めた。


◆「アニマル」の名付け親・吉原功(2)

 思いもよらぬ縁によって開かれた、プロレスラーへの道――。しかし、せっかく地道に働き始めた息子が突然、海のものとも山のものともわからない世界......しかも、身体を張った戦いの場に飛び込むと言い出したら、ほとんどの母親は止めるだろう。やめさせようとするのが、親なら当たり前だ。

 浜口も、母親を説得するのに1年を要した。その間も身体を鍛え続け、1969年7月にはボディビル兵庫県大会で準優勝。"準ミスター兵庫"に選ばれた彼には、秋に行なわれるボディビル日本選手権の出場権が与えられていた。しかし、22歳となる8月には国際プロレスへの入門が決まったために出場を辞退。ナニワトレーニングセンターの荻原稔会長に付き添われて新幹線で上京し、プロレスラーとしての第一歩を踏み出した。

「浜口は身体が十分にできあがっているから、ある程度の技を身につけさせればデビューさせられる」

 そう見込んだ吉原は自ら、文字どおり手取り足取り、レスリングを叩き込んだ。

「社長に呼ばれてリングに上がると、パパッとバックに回られて、足を極(き)められて、手を取られて、簡単にマットに組み伏せられた。最初は大人と子どもみたいなもんでしたよ」

 吉原は早稲田大学レスリング部出身。1952年のヘルシンキオリンピックで石井庄八(フリースタイル・バンタム級)に戦後日本初の金メダルを獲らせ、1964年の東京オリンピックでは金メダル5個を量産させるなどして"日本レスリングの父"と呼ばれた八田一朗が創設したレスリング部で鍛えられた。レスリング出身の日本人プロレスラー第1号だ。

 また吉原は、力道山が大相撲の関脇からプロレスに転向したことから相撲出身者で固められていた日本プロレスに、初めて本格的なレスリングの技術を導入した男でもある。現役時代は短く、日本プロレスでも引退後は取締役営業部長を務めるなどフロントとして働き、もちろん国際プロレスでは選手としてリングに上がったことはなかったが、浜口が入門したときはまだ39歳。技術力の高さは、プロレス界随一だったろう。

「社長はとにかく練習が好きでね。時間があれば僕たちと一緒にやって、汗をかいていましたよ。ヒンズースクワットから始まって、ウエイトトレーニングを延々とやらされました。僕は相撲はやったことがありましたが、レスリングの経験も柔道の経験もないから、すべてイチから教えていただきましたけど、同時にプロフェッショナルとしてどう戦うか、お客さんにどう見せるか、どうアピールするかということも叩き込まれました。社長はそういうことを実によく考えていてね」

 アニマル浜口の必殺技といえば、エアプレーン・スピン。相手を両肩に担ぎ上げ、ブンブン振り回す豪快な技を伝授したのも、吉原だ。

「最初の海外遠征から帰ってきてからだったか、いつから使い出したのか、よく覚えていないんですけど......あるとき、吉原社長から『この技をやれ!』と言われたんです。何の説明もなかったですけど、社長がそう言うんだから、素直に『ありがとうございます』と。疑問なんてなかったです。僕たちレスラーのことを常に一番に考えて、ひとりひとり実によく見てくれていた社長の言うことを聞いていれば間違いない、という信頼関係がありました。

 技を練習し、試合で使っていくなかで、『お前はそんなに大きくないけど、力が強いから』という社長の考えはわかってきましたよ。体格に恵まれず、身長は178cm。プロレスラーとしては小さいほうで、そのうえ器用に変幻自在になんて、どんなにがんばってもできない。エネルギッシュに動き回って、とにかく大きく見せないとお客さんの目を惹きませんからね。

 エアプレーン・スピン......、あれを完全に自分のモノにするには3年かかりましたよ。難しいのは、やっぱりタイミング。相手をロープに投げて、戻ってきたところをキャッチして担ぎ上げ、グルグル回してポ〜ンと落とす。どんなに重い相手でも股に入って、ガチッと首根っこを持つ。肩を持つと持ち上がらない。肩の上でバランスを取らないといけないし、相手にもたれられたらダメ。

 それと、お互い汗をビッショリかいているでしょ。滑るんだけど、それでもタイミングよく持ち上げて、マットの1点を見て回す。そうしないと、自分のほうが目が回ってしまうから。あの体勢からバックフリップで投げたりもしましたけど、プロレスの技というのはすべて、"タイミング"と"正確さ"と"破壊力"、それと"見栄え"――。それらがすべてそろっていないとダメ」

 そのほか、全力で駆け抜けて滑り込むようにひじを落とし、決まった後に「気合ダァ!」と叫ぶ気合エルボー、相手をロープに飛ばして跳ね返った直後に決めるカウンターのドロップキック、ジャンプして相手の顔に飛びつくように決めるジャンピング・ネックブリーカーなど、浜口が得意とした技はどれも、4つの要素を100%備えていた。

「ネックブリーカーは、"本家"と言われていたジャイアント馬場さんにもほめられましてね。後年、ジャパンプロレスにいたころですけど。そうそう、馬場さんと言えば、話はちょっとそれますけど、僕をほめてくれたことがありました。ジャパンプロレスと全日本プロレスの5vs.5対抗戦で、僕が敵のエースのジャンボ鶴田選手と対戦したときです。

 試合が始まると、『しょせん、アニマル浜口は格下。全日のエース・ジャンボ鶴田の敵ではありません』とアナウンサーが言ったんです。全日ファンのためのような放送でしたから仕方がない。ジャンボはヒーローでしたから。ところが、解説をしていた馬場さんが、『とんでもない。体格は違うが、浜口はそんな選手じゃない』とアナウンサーの言葉をさえぎるように言ってくれたんです。

 今、考えると不思議ですけど、試合中でもその言葉がハッキリと聞こえてね。ありがたかったですよ。尊敬する馬場さんが認めてくれて。自分だけじゃなく、国際プロレスでやってきたこと、吉原社長が教えてくれたことが正しかった。ライバルの全日に勝ったような気がしました。試合では鶴田選手に負けてしまいましたけど、いつも以上に燃えて、持っているものをすべて出し尽くしました」

 吉原の狙いどおり、浜口は入門からわずか1ヵ月で国際プロレスのリングにデビューを果たした。1969年9月20日、岡山県高梁(たかはし)市民体育館。対戦相手は、本郷清吉。結果は、浜口の反則負けだった。

「何をどうしていいのかわからず、ただただ無我夢中でやって、何も覚えていないんですよ。いったいどうして反則負けなんてことになったのか......。本郷さんと言えば、熊本では"番長"と恐れられていて、僕の前にグレート草津さんの付き人をしていた人です。その先輩を相手に、まだド素人に毛が生えただけみたいな新人の分際で、何をやったんだか。おそらく、日本マット史上、いや、広く世界を見渡してもほかに例などない空前絶後の珍事、前代未聞でしょうね。

 それでも僕なりに、『こんなに早くデビューさせてもらったんだから、社長の期待に応えなくては』というのがあったんでしょう。気負っていました。ちょっとばかり思い上がっていたのかも。

 普通ならそれで、『アイツは鼻っ柱が強すぎる。扱いづらい』となったでしょうが、社長は違っていました。度量が大きいというか、そんな僕のガッツを買ってくれて、それからもチャンスをどんどん与えてくれて......。社長には、本当によくかわいがっていただきました」

(つづく)
【連載】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya