「母親を強姦」「子供は崖から突き落とした」だけじゃない…極貧家庭で育った32歳男はなぜ「8人も殺した」のか(昭和26年の事件)
一家に突如として襲いかかった悪夢。母親は暴行の末に命を奪われ、逃げることも許されなかった幼い子ども2人は、崖下へと投げ落とされた--。過酷な「極貧生活」の中で育った男を突き動かしたものは、抑えきれない歪んだ欲望と執着だったのか。
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戦後の混乱期の日本を震撼させた「日本最悪の殺人鬼」の正体に迫る。鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』より一部を抜粋・再編集してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)

写真はイメージ ©getty
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合計8人を殺害した凶悪犯
1951年(昭和26年)10月、千葉県安房郡小湊町(現:鴨川市)にある断崖、通称「おせんころがし」で母親が強姦され、子供2人とともに殺害された。
犯人の栗田源蔵は他にも5人、計8人を殺めた凶悪犯で、一審の裁判だけで2回の死刑判決を受けている。
栗田は1926年(大正15年)、秋田県雄勝郡新成村(現:羽後町)に12人兄弟の三男として生まれた。川漁師だった父親は病弱で寝たきりとなったため代わりに母親が家計を支える絵に描いたような「貧乏人の子だくさん」で、栗田は教育を受けるどころか、ろくに面倒もみてもらえないまま成長する。極貧家庭にもかかわらず、栗田家に12人も子供がいたのは、当時の「産めよ増やせよ」の国策が日本中に浸透していたからだ。
男が抱えていた「ある病」
栗田は幼いころから、後の人生に大きな影響をもたらす一つの病気を患っていた。夜尿症。1ヶ月に1度以上の頻度で睡眠中に無意識に布団に排尿してしまう、いわゆる「おねしょ」で、通常は5歳までに治るものだが、栗田の場合は小学校就学期になっても改善せず、学校では尿のアンモニア臭が原因でいじめに遭う。当時の田舎では衣服の洗濯や入浴が習慣化されていなかったようだ。
もともと大人しい性格だったことに加え、日々のいじめにストレスを溜め込み、学校をさぼるようになった結果、3年のときに中退。その後、農家に奉公へ出され草刈りや薪割りなどの労働に就いたものの、やはり夜尿症で嫌われ、さらに盗癖もあったことから追い出され、1年間に10回以上も奉公先を転々とした。ちなみに、後の本人の証言によれば、奉公に出てほどない9歳のころ、老人男性から「女と寝るときは叩いたり、絞めたりすると、とてもいいぞ」と言われ、その言葉が耳にこびりついていたという。
太平洋戦争末期の1945年6月、19歳のとき徴兵され、青森県弘前市の歩兵第31連隊に入隊するも、ここでもまた夜尿症が原因で、わずか2ヶ月で除隊処分に。自尊心がずたずたに傷つけられたまま敗戦を迎え、同年末に北海道へ渡り美唄炭鉱(美唄市)の炭鉱夫となる。美唄炭鉱は大正・昭和の時代にかけて、三菱や三井などの大手財閥による石炭の大規模採掘が盛んだった場所で、その労働は極めて過酷。栗田はこれを耐えきり、いつしか屈強な体に変貌すると同時に、多くの同僚がそうだったように性格も凶暴なものへと変わっていく。
炭鉱夫として働きながら近隣の農家から盗んだ米を高値で売るヤミ米ブローカーとして荒稼ぎしていた1946年8月、窃盗・物価統制令違反・食料管理法違反の容疑で逮捕され、1年6ヶ月の懲役判決を受ける。1年で仮出所したものの、すぐに傷害と殺人未遂容疑でまたも逮捕。その後も塀の中と外を行き来しながらヤミ米の販売は続け、やがてヤミ米ブローカー集団である「総武グループ」のリーダーとなる。そのころの異名は「ハヤブサの源」。もはや犯罪もものともしない、周囲から一目置かれる存在だった。
最初の殺人は「婚約相手」
最初に殺人を働くのは1948年2月、22歳のとき。総武グループには女性メンバーが所属しており、栗田はその中の1人である20歳のA子と交際、結婚の約束をしていた。
が、17歳のB子からも積極的にアプローチをかけられ、男女の関係に。A子とB子が友人同士だったこともあり、事態はドロドロの三角関係に発展。
結果、栗田は執拗に迫ってきたA子が邪魔になり、静岡県駿東郡原町(現・沼津市)の海岸で殺害する。
〈「やらせろよ」性欲にかられて子供まで殺害…“死刑を避けるため”に最後は涙を流した「32歳男の末路」(昭和26年の事件)〉へ続く
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
