斉藤ナミ「6月のSNSには、梅仕事をする人が大量発生。私は〈丁寧な暮らし〉に憧れるているのか?炊飯器も電子レンジもやめてみたが…」
noteが主催する「創作大賞2023」で幻冬舎賞を受賞した斉藤ナミさん。SNSを中心にコミカルな文体で人気を集めています。「愛されたい」が私のすべて。自己愛まみれの奮闘記、『褒めてくれてもいいんですよ?』を上梓した斉藤さんによる連載「嫉妬マニア」第30回は「自家製シロップや、手作りの味噌、手作りのジャムなどの丁寧に暮らしている人に対して感じる謎の敗北感や嫉妬について」です
* * * * * * *
前回「「玉の輿」の語源となった徳川三代将軍・家光の側室「お玉」。いつの時代も嫉妬の構造は変わらない」はこちら
自家製、手作りに感じる謎の敗北感や嫉妬
今年もこの時期がやってきた。毎年6月は、SNSに梅仕事をする人が大量発生する。竹のザルの上にずらりと並んだたくさんの梅や、大きなガラス瓶に氷砂糖と交互に綺麗に詰められた梅とともに「今年も梅仕事しました」の報告。
それらの画面をスクロールしながら、市販の梅酒を飲んでいる私はこう思う。
丁寧な暮らしをしている人が、羨ましい。
自家製シロップや、手作りの味噌、手作りのジャムなどの写真を載せている人を見ると、丁寧に暮らしている……! と感じつつ、謎の敗北感や嫉妬を覚えてしまう。
文明の力に頼って楽してばかりの暮らしより、季節や気候に合わせ、時間と手間をかけて、自分の手作業で生活を営むほうが、本物の人生で、人間として上であるように思えてしまう。
「丁寧な暮らし」という言葉が流行り出したのはいつからだろうか? 私も子供の頃は、毎年祖母の梅仕事やジャム作りを手伝っていたが、そんな言葉はなかった気がする。あの頃なら、私だって丁寧な暮らしをしていたのに……悔しい!
10年前に家を建てたばかりの頃は、特に「丁寧な暮らし」をしたい欲がすごかった。庭に畑を作り、バジルやトマト、レモンを育てようと思った。フレッシュなカプレーゼや、レモンのジャムを作りたかった。
土を触るのは、意外と気持ちよくて好きだった。しかも、家の生ゴミを処理機で再利用して肥料を作るという意識の高さ!
……だったが、隣の怖いおばさんに「カラスがすごいからやめろ」と怒られ、モチベーションはダダ下がり。レモンの木は一つも実をつけずに枯れた。生ゴミ処理機、10万円もしたのに……。
素敵なうつわで生活空間全体が整っていく?
映画やテレビドラマにもすぐ影響されるので、「かもめ食堂」や「天狗の台所」などを見て感化され、丁寧に暮らしたい欲は何度も再燃する。
長谷川あかりさんの料理本や、菅野由希子さんの美しいうつわの本などを眺めては、「私もこんな風に器や料理にこだわりたい」と熱をおび、作家もののうつわをちょこちょこ買っては集めている。こだわりの調味料もひととおり棚には揃っている。
素敵なうつわは、中身の料理やそれを置く空間のハードルも自然と引き上げる気がする。プラスチックの容器や派手なパッケージといった生活感は似合わないし、木のテーブルやリネンのクロス、自然光の入る窓辺といった空間づくりへと波及し、結果的に生活空間全体が整っていきそうだ。
圧倒的に「丁寧な暮らし」な感じがする!
しかし、素敵なうつわは食洗機や電子レンジが使えないことが多く、手洗いで優しく扱い、しっかりと乾燥させるなど、物理的な手間が必要だ。
いざ日々の食事となると「割れたらショックだし、お手入れも時間がかかる。結局ニトリが気楽で使いやすい。こいつが割れたら本番に良いうつわを使うんだ!」といつものお皿を並べてしまう。調味料は1、2度使ったまま、気づけば賞味期限が切れている。
こんな中途半端な妥協ばかりしているから、私はいつまで経っても丁寧に暮らせないのだ。

(写真:AdobePhotoStock)
心のこもった丁寧で贅沢な朝食
一度、便利なものがあることがダメなんだと思い込み、家にある便利なものをどんどん処分したことがあった。
顆粒だし、サランラップ、ジップロックから始まり、炊飯器、電子レンジまで。(炊飯器とレンジはさすがに捨てられず、土間にしまった)
土鍋でご飯を炊き、煮干しと鰹節から出汁をとる生活をしてみた。
手間だけど、土鍋からお米のいい香りが部屋中に充満してうっとりした。心を込めて、時間をかけてようやくできたお味噌汁の味は、とても上品で、体に染みた。
ラップも炊飯器もレンジもないから、余ったご飯はお櫃に入れて冷蔵庫で保存し、翌朝はせいろで蒸して再加熱した。
なんと! 土鍋で炊いたご飯をせいろで蒸し直すなんて、私、いま、めちゃくちゃ丁寧に暮らしてる……!
温め直したご飯と出汁からとったお味噌汁の、心のこもった丁寧で贅沢な朝食をテーブルに並べた。子どもたち、さあ召し上がれ!
「ママー。僕、グラノーラ!」「俺、食パンがいい」
おい。お味噌汁、何時から作ってると思ってんだ……。
がっかりしながら、電子レンジと炊飯器をキッチンへ戻した。
子どもたちに見事に振られ、文明の利器が早々に土間から出戻ってきたキッチンを眺めながら、私は猛烈な虚無感に襲われていた。あんなに時間と手間をかけたのに、誰からも褒められなかったのだ。
あーあ、せめてSNSで、自慢しよ……。
私は何のためにやってんだ? これ。
誰かに褒められたかった
気がついてしまった。私が欲しかったのは、「丁寧な暮らし」そのものではなかったということに。
自分が土鍋のご飯を食べ、出汁からとったお味噌汁を飲みたいわけではない。
私は、誰かに褒められたかったのだ。「丁寧な暮らしをしている私って素敵でしょ?」と、周りにアピールしたかったのである。だって顆粒だしのお味噌汁で十分美味しいし。30分も出汁をとるのに早起きしたくない。お米はいつだってホカホカが便利じゃん。
もし純粋に出汁の香りや手作りの工程そのものを愛しているのなら、家族が食べようが食べまいが、私は一人もくもくと鰹節を削っているはずである。
本当に丁寧な暮らしをしている人たちは、他者からの称賛のためではなく、ただ自分の心地よさのためだけに実践している。誰の目にも触れずに、自分だけで完結する喜びが、そこにはあるのだ。
私の嫉妬の正体は、出汁からとった味噌汁そのものへの羨ましさではなく、他者の目に振り回されず「自分がやりたいからやる」という自己完結できる強さへの敗北感だった。だからこそ、彼らの生活がひときわ本物っぽく見えてしまう。
はあ……自分には、できない。
すべてを他人の評価基準でしか動けない自分がひどく陳腐に思えて、いい加減うんざりする。また他人の目かよ。
仕事や育児が落ち着いたら…
でも、あの土を触っている時間だけは、誰にも見せなくても嫌いじゃなかったな、と思い出す。
それに、こだわりの調味料や、作家ものの美しいうつわへの憧れも、すべてが見栄やフェイクだったわけではない。
素敵なうつわを手にすると、ただ嬉しい。「こんな料理が似合いそう」「あんな食器と合わせよう」と、素敵な食卓がパァーっと頭に描かれて、確かに私はうっとりするのだ。
それらの出番のないうつわたちは「本当は他者の目など気にせず、こういう世界だけで自己完結して生きたい」という、捨てきれない純粋な美意識への執着の象徴として、今も戸棚の奥の方で出番を待ち侘びている。
いつか必ず使う。いや、週末には使おう……!
今使ってるニトリのお皿たちが割れたら、その時こそ必ずスタメンに……!
美しいライフスタイルの本を開くたび、私はそこに、強烈な憧れと、それができない自分への絶望を同時に突きつけられている。
「もう少し仕事や育児が落ち着いたら、本当に私は、手作りジャムを作って、土鍋でご飯を炊いて、鰹節を削ってお味噌汁を作って、季節ごとにテーブルを完璧にセッティングして、丁寧な暮らしをするんだ」と、懲りずに自分に言い聞かせている。

