前田のフライングニールキックをかわす藤波。二人の身体が見事にクロスしている

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前田と藤波が背負ったもの

 御年70にして現役を続けるプロレスラー、藤波辰爾の額に今も残る傷痕がある。

【写真を見る】前田日明、新日本プロレス入門当時の貴重な写真。若手時代の前田を鍛えた懐かしい顔

 1986年6月12日、前田日明との一騎打ちで負った傷である。先鋭的な格闘プロレス集団として知られたUWFが産声をあげて、今年は40周年となるメモリアル・イヤー。そのUWFを背負った前田と、新日本プロレスのサラブレッド、藤波のシングル戦が残したものとは何だったのか――。

 UWFは、新日本プロレスから分派して出来た団体である(1984年4月旗揚げ)。不満分子による社内クーデターの勃発などで、新日本プロレスに嫌気が差していたアントニオ猪木の受け皿として用意された団体だったが、結局、猪木は動かず。予定されていたテレビ中継の話もなくなり、UWFは苦しい運営を余儀なくされる。

前田のフライングニールキックをかわす藤波。二人の身体が見事にクロスしている

 メンバーは前田日明、藤原喜明、高田延彦、山崎一夫、木戸修(入団順)ら。元新日本プロレスで、腕に自信のある面々だったゆえ、闘いも虚飾を排した格闘スタイルとなった。しかし、わずか1年5カ月で崩壊。1986年1月3日より、上記の5人プラス若手勢が「提携」という形で、新日本プロレスに出戻った。

 最初は新日本勢とは絡まず、5人による、猪木への挑戦者決定リーグ戦がおこなわれた。藤原が勝ち抜き、猪木と一騎打ちも、自らがかけたアキレス腱固めを、「絞めるポイントが違うよ」と猪木に指摘され、完敗する。

 本格的に前田が新日本の主力と絡むようになったのは、2月28日開幕の次期シリーズからだった。これに先立つ2月15日、同シリーズ最終戦で猪木との一騎打ちが発表されていた前田は、開幕試合で韓国からの留学レスラー、力抜山を一蹴。3月1日の後楽園ホール大会で藤波と6人タッグで初激突することになった(前田、藤原、高田vs藤波、木村健悟、越中詩郎)。

 この一戦は、「3・1事変」と報じられるほど、伝説的な一戦となった。

新日本プロレス vs. UWFの団体対抗戦

「UWF応援は西側へ 新日本応援は東側へ」
 
 この日、会場に入ると、入口にそう書かれた掲示があった。後楽園ホールの当日限定の自由席である、西と東に分かれたバルコニー席を利用する観客への配慮だった。完全に団体対抗戦の様相を呈しており、試合は緊迫感に満ちたものになる。

 高田を蹴りでダウンさせた木村が、続けてロープに振ろうとすると、高田がロープにしがみつき離れない(つまり、ロープから帰ってこない)。強引に外してロープに振ってドロップキックをすると、高田がそれを当たる寸前でかわす。藤波にアキレス腱固めを仕掛けられた藤原は、ニヤニヤ笑う。「極まってないよ」と、自分が猪木にやられたことへのオマージュだ。そして、前田と藤波の絡みで衝撃の展開が起こる。高速連射の前田のミドルキックを両手でブロックしていた藤波だったが、これはオトリだった。前田が軌道を変え、ハイキックを見舞うと、それが顎を撃ち抜き、藤波が前のめりにダウン。前田が1本、2本と指を立てるのに合わせ、観客がダウンカウントを数える。「ワン、ツー」。最後は藤波が高田をジャーマンスープレックスで沈めたが、試合後、藤波がこれ以上ない本音を口にした。「ボクサーの10カウントダウンて、こんな感じなのかな……」内容的に藤波の完敗は明らかだった。
 
 そしてこの日より、UWF軍団の新日本勢への本格的な蹂躙が始まったのである。変幻自在の蹴りでなぎ倒し、関節技をバシバシ極める。実況の古舘伊知郎アナが叫ぶ。

「キックの千手観音! キックと関節技の、荒くれ二丁拳銃!」

「牙を剥いたカムバック・サーモン!! 史上最大のお礼参りを敢行して参りました!!」
 
 決まっていたはずの前田と猪木との一騎打ちは、猪木自身の申し出により、あっさり消滅。ゲーム制の強い、5 vs. 5の10人タッグによるイリミネーションマッチに変更されていた(3月26日)。4月29日には、唐突に前田とアンドレ・ザ・ジャイアントとの一騎打ちが組まれた。“アンドレによる、前田潰し”とも囁かれた一戦は、前田がアンドレのヒザの内側を横から蹴ってぐらつかせ、最後はアンドレが自ら戦意喪失気味に大の字になる、不可解な結末に(※無効試合の裁定)。

 この2日後にはUWF軍が新日本勢と5vs5の柔道方式の勝ち抜き戦を行った。大将格の藤波は、藤原、前田と連戦で相手をすることになり、最後は藤原戦からの流血が止まらず、試合続行不可となり、レフェリーストップ負け。見応えのある試合だったが、やはりプロレスの真髄はシングルマッチにあり、“純粋な勝負”とは言い切れなかった。
 
 そして、翌月、巡って来たのが、藤波と前田の一騎打ちだったのである。

文字通りの死闘

 試合は「IWGP王座決定リーグ戦」の公式戦として開催。選手を2手に分け、片側のブロックに藤波と前田が同舟したことで自動的に実現した顔合わせだったが、前田はこれ以上なく燃えていた。

「IWGP優勝云々には全然興味がない。俺はあくまで理想のプロレスを実現するために出場します。とはいえ、外国人相手の試合には期待してないし、一番楽しみにしているのは藤波さんとの公式戦なんです。藤波さんとの一騎打ちが、俺にとってのIWGPです」

 藤波の方にも、意識の変化が見られた。前田戦に先んじた、ディック・マードックとの公式戦で惜敗すると、「場外ドローに持ち込む手もあったけど、今大会は、そういう消化不良の試合はしないと決めてます。勝っても負けてもスッキリした試合が出来れば」(5月29日)。

 そして、実際の試合の数時間前、前田は報道陣相手に、一席ぶった。

「プロレスというのは、総合格闘技でなくてはならないと思ってるんです。蹴ればキックボクサーを上回り、投げれば柔道家を上回り、関節技ではサンピストを上回る……。だけど、近年のプロレスはエンターテイメントにどんどん寄り過ぎている。このままでは、10年先、20年先にどうなってるかわからない。誰かが今、やらなければいけない。(中略)(今日は)プロレスの総合格闘技としての奥深さを見せたい。シビアな戦いをすれば、プロレスには、とてつもなく広がりがあるんだということを示したい」

 試合は壮絶を極めた。決戦前、シュートボクサーのシーザー武士とヒザ内側への横蹴りを猛練習していた前田は、これを藤波にヒットさせる。あのアンドレを崩した蹴りだ。悶絶して後退し、ロープにもたれかかってしまう藤波に、吸い込まれるように次々にヒットする前田のキック。頭部を横から殴るように左から蹴り、右から蹴り、藤波の上体はメトロノームのように揺れた。この試合に関して、筆者は何度も二人に話を聞いているが、終始優勢に試合を進めた前田の振り返りには畏怖がにじむ。

「(蹴りで)藤波さん、首ごと持って行かれてるやん。あんなの、普通なら死んでるで……」

 その蹴撃に耐え、ダウンしたところで、本当に不死身なのかと思わせるほど何度も立ち上がった藤波は、しかし、謙遜を隠さない。

「あの試合ねえ。“藤波の受けは凄い”ってよく言われるけど、前田の蹴りが速すぎて、僕が避けられてないだけなんですけどね(笑)」

 笑顔に昭和レスラーの凄みが覗く。そして、猛反撃。ラリアット、弓矢固め、パイルドライバー、ジャーマンスープレックス……。あくまでプロレス技での反撃は、これまた当然の矜持か。22分過ぎ、分岐点が訪れる。コーナーにつまった藤波に、前田が縦回転のニールキックを見舞う。すると、一瞬にして、藤波の額が切れ、鮮血がほとばしった。シューズの踵部分がかすめ、鋭角的に額を切り裂いたのだ。試合はここからピークへ。前田のドラゴンスープレックスを藤波がカウント2で返すと、前田はブレーンバスターで追撃し、ニールキックへ。だが、藤波も死力でレッグラリアットを合わせ、両者ノックダウン。10カウントが数えられ、痛み分けとなった。

「無人島に港を作る」

 同年のプロレス大賞ベストバウトも受賞した同試合後の、それぞれのコメントは、以下である。

「“俺たちの時代”の第一歩になる闘いを出来たことを実感している。従来のプロレスの見方を変えられる試合に出来たんじゃないかな?」(藤波)

「非常に後味がいい。港もない無人島に漂着して、初めて言葉が通じたような気持ちです」(前田)

 前田の名言とされる、「無人島に、仲間がいた」の原点がこれである。そして、こう締めくくった。

「この試合を起点に、俺はこれから、無人島に港を作って行く気構えでやります!」

 実は10カウントダウンのあった「3・1事変」の翌日、前田は今後の業務提携に向け、新宿京王プラザホテルで、猪木、坂口、藤波と4者会談を持っていた。その時、藤波からこう声をかけられたという。

「UWFのスタイルを、君たちはこれからも守って行くべきだよ」

 藤波は試合直後には前田と握手をかわし、そのファイトを讃えたが、病院に直行。7針を縫う事態に(以降のシリーズは全休)。前田はその後、立派な港が間口を広げるUWFという島を興して藤波と袂を分かつことになったが、2人は、因縁など引きずることはなかった。それは6年後、『新日本プロレス創立20周年パーティ』にかけつけた前田が、藤波を見て、かけた一言に明らかだ。

「藤波さん。その額の傷……一体どうされたんですか?」(1992年3月13日)

 藤波vs前田がおこなわれたこの日の全試合終了後、観客席立ち上がる一人の男の姿があった。興奮が覚めやらない。男は7年後、新たな格闘技大会を立ち上げた。

「K-1グランプリ」

 藤波は自著でこう語っている。

〈このとき会場には、後にK-1を立ち上げて大ブームを起こす石井(和義)館長も客席にいたという。この試合にヒントを得て、『自分もこんな格闘技を立ち上げたい』と考えたそうだ〉(『藤波辰爾自伝 未完のレジェンド』より)

 理想を追い求め、人々に内在する闘志を純粋に刺激した2人のプロレスは、後世になった今も曇ることなく、輝き続けている。

瑞 佐富郎プロレス&格闘技ライター。主著に「アントニオ猪木」(新潮新書)等。プロレスラーのデビューの逸話を集めた新著「プロレスラー夜明け前」(スタンダーズ)が現在発売中。NHK「燃える闘魂 ラストスタンド」、及び、BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部