純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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「みんなに好かれているなんて、立派ですよね」「そうかな? 悪人たちに嫌われている方がまともだよ」(『論語』子路篇)

それにしても、たまにつけたテレビの中のおべんちゃらぶりには、辟易する。お仲間うちで、さしておもしろくもないことでも、そして、スポーツ選手からアーティストまで、だれに対しても、とにかく美辞麗句、巧言令色のてんこ盛り。かと思えば、どこぞの国の政治家を、悪魔と罵り、愚昧と侮り、みんなで揃って悪口三昧。そして、状況が変われば、手のひら返しで、突き落としたり、褒めちぎったり。まことに人として浅ましい限り。

自分がテレビの番組に関わっていたときには、キャスティングでも論点でも、バランスが第一だった。物事にも人物にも、かならず長所と短所がある。それを多面的に明らかして視聴者に伝えてこそ、報道の使命。どちらかに偏るようなら、それは企画の失敗のはずなのだが。もちろん、報道番組と娯楽番組の違いはあるだろう。だが、中身の無い連中があちこち出かけて、飯を喰って、それを見てスタジオでバカ騒ぎして「盛り上がっている」だなんて、むしろ薄ら寒くないか? まるでオーバールックホテルのボールルーム、亡霊たちの狂宴だ。

人を褒めれば人に好かれるし、やたら悪口を言うのは品が無い。だが、客観的な批評は悪口ではなく、知性と見識の問題だ。むしろ必要以上になんでも絶賛するのは、心付けにたかる太鼓持ちのように、人間として卑屈もいいところ。実際、連中は、現代の太鼓持ち。自分を失ってしまっている熱狂的カルトの視聴者に媚びてさえいれば、番組としてそこそこの視聴率が取れる。出演者にしても、あらかじめ決まっている番組の方向性に沿って、いちいちディレクターに言われなくても、阿吽の呼吸で、こぞって人を褒め称え、そのライバルを貶める。そうすれば、また番組に呼んでもらえて、数十万円がふところに入る。ディレクターも、出演者も、こんなちょろい商売はあるまい。

最近、人の顔が気になる。善人顔、悪人顔。美男美女かは関係が無い。心の性根は顔に出る。正しいことに打ち込んでいれば、年を取るほど、すてきなシワができる。その一方、まだ捕まっていないだけの詐欺師、強姦魔、浮気者。いくらいま立派に活躍していても、いくらいつもきれい事を言っていても、裏表がある者は、顔に影がある。目が淀んでいる。まして、周囲の人々の顔色次第で、息の続く限り褒めたり貶したりしている連中は、力無い空っぽの目をしている。

人に知られずとも善行に味方すれば、自分もまた善に近づく。逆に、人がまだ知らないにしても、悪業に手を貸す、いや、それを見て見ぬフリをするだけでも、自分もまた悪に染まる。そして、そのツケは、いつかかならず自分が払うことになる。反論もせず、腐った連中の腐った話に調子を合わせ、黙って聞いて、連中を図に乗らせるだけでも、やつらに与するようなもの。

せめて口をつぐみ、できればもうその場を去ろう。同調圧力に負け、ヘラヘラと人と周囲にこびへつらって、終わりの無いむなしい空談に人生を費やし、気づけば何も残っていないなんて、後悔しても手遅れだ。きみを生かしてくれる真の友人たちは、もっとほかのところにいる。


純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン