「年収の壁」を超えて生き生きと働きたい(写真はイメージ)

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パートで働く人らが一定の収入を超えると逆に手取りが減るため、時間を抑えて働く「年収の壁」問題。

目からウロコの「解決策」があった。30年前に政府がやっていたように、賃金の上昇に応じて「年収の壁」を上にスライドすればよいという研究リポートが発表された。

実にシンプル。なぜ、いま政府は同じことをやろうとしないのか。また、それで問題は解決できるのか。研究者に聞いた。

「年収の壁」を130万円から182万円にアップ

このリポートは、伊藤忠総研研究員の中浜萌さんがまとめた「『年収の壁』で就業調整する非正規労働者は445万人、賃金上昇に応じた引き上げで労働力は2.1%拡大」(2023年10月23日付)だ。

リポートによると、さまざまな「年収の壁」【図表1】を意識して就業調整する非正規労働者は2022年時点で445万人もいる。40〜50歳代の既婚女性や親の扶養に入っている若年層で多い。

このうち社会保険上の壁である「130万円の壁」については、実は1993年までは賃金の上昇に応じて、10万円ずつ引き上げられてきたが、それ以降は30年間改定されないまま横ばい状態が続いている。

この間、パートタイム労働者の時間あたり賃金は1.4倍になっており、賃金上昇に応じて「年収の壁」を引き上げたとすれば、壁は「182万円」まで上昇していたことになる【図表2】。

現在、労働力不足が深刻になっているが、かつてのように賃金上昇に応じて「壁」を引き上げていれば、445万人の1日当たりの労働時間は、現在の4時間から6.1時間まで増加する。その規模は全労働者による労働投入量の2.1%に相当する。つまり、労働力不足が解消するというのだ。

なぜ、政府はこんなにシンプルな解決策を講じようとしないのか、と中浜さんは指摘するのだった。

バブル崩壊後のデフレで、賃金が下がった影響

J-CASTニュースBiz編集部は、リポートをまとめた伊藤忠総研の中浜萌さんに話を聞いた。

――リポートでは、「130万円の壁」については、1993年以前は賃金の上昇に応じて改定されていたのに、1993年以降、改定されないままになっている、と指摘しています。

確かに、パートタイム労働者が1.4倍も賃金が上がっているなら、「年収の壁」を1.4倍である「130万円」から「182万円」にアップすれば、かなり改善されるのに、1993年以降、横ばいのままなのが不思議です。なぜ、厚生労働省(旧厚生省)は引き上げないのでしょうか。

中浜萌さん 1993年以降なぜ引き上げなくなったのか、はっきりとした要因は分かりません。というのも、厚生労働省は引き上げをやめた理由を示していないからです。

もともと、社会保険上の壁である「130万円」の水準は、法律に基づくものではありませんでした。1977年に制度が開始された時は、旧厚生省保険局長から都道府県知事に宛てた「通知」に過ぎませんでした。当時は、所得税の控除額と連動しており、社会保険料の壁は「70万円」となっていました。その後、税制の変更に応じて引き上げられ、1981年には「80万円」、1984年には「90万円」となりました。

1987年からは、税制への連動を廃止し、賃金に応じて改定される手法に変更となりました。そして、1987年に「100万円」、1989年に「110万円」、1992年に「120万円」、1993年に「130万円」引き上げられたのです。

――1977年から1993年までの16年間で60万円も上がっているのですね。それが1993年から今年(2023年)までの30年間、まったく上がらないというのは、どう考えても納得できません。

中浜さん バブルが崩壊して日本経済がデフレに入ったことによって、賃金の上昇がストップした影響が大きいと思います。それまでは右肩上がりだった賃金上昇は下落することもありました。これまでのように、「年収の壁」を賃金に応じて調整していたとしたら、「年収の壁」を引き下げなくてはならなかったはずです。

その後、2010年代半ばから人手不足が深刻になり、パートタイム労働者を中心に賃金が上がり始めました。直近では、コロナ禍からの景気回復で人手不足がさらに加速し、賃金も一段と上昇しています。

ところが、デフレ状態が20数年間以上続いたため、130万円の「年収の壁」はすっかり引き上げられなくなっていたのです。そして、「年収の壁」によって、パートタイム労働者が労働調整をする問題が一層深刻になったのだと思います。

「年収の壁」アップできない政府のジレンマ

――しかし、現在は政府、経済界、労働界をあげて、「賃金と物価上昇の好循環を目指す」というスローガンで一致しています。「年収の壁」を「130万円」から「182万円」に上げればいいではないですか。非常にシンプルな解決策に思えますが。

中浜さん 過去はそうしていたのですから、今もそうするべきだと思います。しかし、「年収の壁」を引き上げてしまうと、政府が目指している「社会保険の適用拡大」や「社会保険の充実」の方針と反してしまうのではないでしょうか。また、少子高齢化や人口減少によって社会保険料を支払う人が減ってしまっている中で、社会保険料の財源を確保したいとの考えもあるように思います。

しかし、賃金が上昇している中で、「130万円の壁」をそのままにしてしまうと、パートタイム労働者はもっと就業調整をしてしまい、人手不足がさらに深刻になるでしょう。社会保険の適用拡大や充実か、人手不足の解消か、どちらを優先するかだと思います。

そこで、政府は、10月から「年収の壁・支援強化パッケージ」を開始しました。ただ、これは3年程度のもので、内容も企業への助成金を支払うなど、一時的な政策です。

――「年収の壁」を「130万円」から「182万円」に引き上げれば、そうした問題も全部解決できるのでしょうか。

中浜さん リポートで書きましたが、「年収の壁」を意識して就業調整をしている450万人が労働時間を現在の1日4時間から6.1時間に増やせば、労働力が2.1%拡大できて、少なくても労働力不足が経済成長を制約する事態は防げます。

また、労働時間の増加によって個人所得が年間約62.6万円増えます。これによって、消費は全体で年間約1兆8000億円増える計算になり、GDP(国内総生産)の押し上げに寄与することでしょう。

もともと賃金の上昇に応じて引き上げてきたのですから、シンプルに考えて「年収の壁」を上げるのが良いと思います。

専業主婦優遇の「3号」撤廃は、少子化対策に逆行

――「年収の壁」問題では、会社員や公務員の配偶者(主に妻)に扶養される「第3号被保険者」制度について、廃止すべきだという論議が盛んになっています。自営業者などの配偶者には認められず、不公平だという意見がありますが、どう思いますか。

中浜さん 確かに共働き世帯が増えている中で、専業主婦優遇で不平等だという批判がありますが、第3号被保険者制度を撤廃するという意見は極論だと思います。

私自身、6歳と4歳の子の母親で、3年ほど育児に専念したことがあります。子どもが小さいうちは、どうしても子育てに時間と労力がかかります。正社員としてフルタイムで働くことができず、やむを得ず配偶者の扶養に入る人もいるのではないでしょうか。そういった人たちに配慮した制度だと思っています。

欧米ではシッターやお手伝いを雇うケースが多いように思いますが、日本ではまだそのような環境も整っておらず、それらを雇える収入の確保も難しいです。

仮に、3号被保険者制度を廃止した場合、保険料負担をどうするのかも問題です。もし、収入がほとんどない専業主婦も自分たちで支払わなければならないとなると、家計への負担が増加し、子どもを持つことを諦めてしまう人もいるのではないでしょうか。少子化対策も大事な問題です。3号被保険者制度を撤廃するのであれば、育児や介護へのサポート制度も同時に拡充しなければならないと思います。

(J-CASTニュースBiz編集部 福田和郎)

中浜萌さんプロフィール

伊藤忠総研副主任研究員。
2009年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、日本銀行に入行。統計の作成、日本国内経済(物価・市況)の調査・分析に従事。2021年に伊藤忠総研入社。担当分野は、日本の消費・物価動向、商品市況など。