だから37歳であっさりと社長を退任した…MIXI創業者が「人生の決断」を前に向き合った"意外な相談相手"

■上場企業の会長が「公園でチラシ配り」
桜の花が舞い散る駒沢オリンピック公園。花見客のなかに幼い子を連れた親を見かけると、頭を下げながら歩み寄って、1枚のチラシを差し出す。スマートフォンアプリ「家族アルバム みてね」(以下「みてね」)の紹介だ。
いいアプリができたと自信はあった。実際に使ってもらえば、わかってもらえるはず。しかし期待したほど反応はよくなかった。チラシを渡しても、なかなかじっくり話を聞いてもらうまでにはいかない。
受け取ったほうも、まさかミクシィの取締役会長(当時)が自ら宣伝活動に汗をかいていると思わなかっただろう。「みてね」が正式リリースされた2015年4月のことだ。いまでは世界で3000万人以上が登録し、国内ではママやパパの65%(2024年12月時点)が利用する人気アプリがスタートしたのは、笠原健治さんにとって30代最後の年だった。
■37歳で社長を退任し、現場に戻ったワケ
代表取締役社長から代表権のない会長に退いたのは2年前(2013年6月)、37歳のときだった。“パソコン時代”のSNSとして一世を風靡した「mixi」の人気は衰え、業績不振から株価は下がっていた。2013年4〜6月(2014年3月期第1四半期)の連結決算では上場後初の四半期赤字となった。
「2010年頃から同時多発的に試練の波が押し寄せました。携帯電話がガラケーからスマホに切り替わり、SNSがスマホ中心になる。ツイッター(現・X)、フェイスブック、インスタグラムなどが日本に上陸してくる。mixiは新しいサービスに押されてジリ貧になり、新規事業が大きな経営課題になりました」(笠原氏)
事態を打破すべく、笠原さんは自ら新規事業を立ち上げる決意を固め、社長を退任してビジネスの現場に戻った。その後、自らの原体験から「みてね」の事業を発案。アプリ開発やユーザーテストを繰り返し、2年近くかけてようやく正式リリースにこぎ着けたところでのチラシ配り。有名経営者に似つかわしくない、泥くさいプロモーション活動だった。
■「ネット第3世代の旗手」として、時の人に
ミクシィが東証マザーズに株式上場したのは2006年9月、笠原氏が30歳のときだった。
2004年にサービス開始したSNS「mixi」は、当時のインターネット空間を塗り替える勢いで広がった。友人や知人とネット上でつながり、日記を書き、コミュニティーで交流する。現実の人間関係が反映されるコミュニケーション空間は、匿名掲示板とは異なる熱気を生み出していた。大学生を中心に友人、サークル仲間、元恋人まで、みんなmixiでつながっていた時代だ。
2005年に利用者100万人を突破。ユーザー招待制のしくみも話題を呼び、上場前には500万人を超えていた。
株式市場の反応も凄まじかった。公募価格155万円に対して、買い注文が殺到して初日は値がつかず、翌日に295万円の初値を記録。時価総額は約2200億円に達し、新興3市場で第6位の規模となった。笠原さんは「ネット第3世代の旗手」としてメディアに連日登場し、“時の人”となる。

ただ、当時のSNSはまだ目新しい存在だった。
■SNSが「社会に認められた」瞬間だった
「ちょっと怪しいぞ、出会い系じゃないのか……という見方も一部にはありました」と笠原さんは苦笑する。
ミクシィの株式上場は、SNSという新しいサービスが社会的に認められたことにもなる。
「自分たちのビジネスが社会的に認められた瞬間でもあったので、非常にうれしかったですし、身が引き締まる思いでした。広告の収益を安定的に伸ばすきっかけにもなり、上場会社となって優秀な人たちがたくさん入社してくれるようになりました」
mixiのコンセプト「コミュニケーションのインフラを目指す」も広く知られるようになった。翌2007年にmixiの会員数は1000万人を突破し、月間ページビューは109億を超える。日本最大のSNSへ成長していった。
もちろん、利用者数が爆発的に増えれば、それだけ大きな責任も伴う。
「重圧はありつつも、コミュニケーションのインフラをつくるという目標に向かって進んでいる手応えがありました」
30歳の笠原氏は、日本のインターネット文化の中心に立っていた。
■若き起業家→上場企業の経営者へ
株式上場はmixiの利用者層をさらに広げ、中高年も利用する国民的SNSへと発展していった。「mixiやってる?」はビジネスの場でも聞かれるようになる。
利用者数は増加の一途をたどり、2008年には1400万人を超えた。売上高も2007年3月期に前年比177%増の約52億円、翌2008年3月期には100億円を突破した。2012年に約2700万人のピークに達するまで登録者数は増え、mixiは日本最大級のインターネットサービスへ成長していった。
当然のように「打倒mixi」を掲げる競合サービスが次々と現れた。ヤフーやグーグルがSNS参入を打ち出し、海外で爆発的な人気があった米国発のMySpace(マイスペース)が日本に上陸した。
しかし、招待制による強固な人間関係のネットワーク、iモード公式サイト化をはじめとするモバイル戦略が功を奏して、mixiはこれらの“黒船”を退けた。
「2000年代は、次々とライバルが参入するといった単発で寄せる波はなんとか乗り越えられていました」
急成長に伴って組織も拡大した。2008年には従業員数が200人を超え、笠原さんの立場は若き起業家から上場企業をマネジメントする経営者へと変化していった。
「マネジメントはおもしろいと思う一方、ビジネスの最前線で市場と対峙し、どんなサービスがウケるんだろうと考えることへの興味は尽きませんでした。20代の頃から、新規事業を立ち上げる醍醐味は何度も経験しましたから」

■「0→1というより、10まで育てたい」
笠原さんは1997年、東京大学経済学部在学中に21歳でIT系求人情報サイト「Find Job!(ファインドジョブ)」を立ち上げた。1999年には、ミクシィの前身となるイー・マーキュリーを設立。オークションサービス「イーハンマー」、ニュースリリース配信サービス「@Press(アットプレス)」などでゼロから事業を立ち上げる感覚を身につけてきた。
仕事へのこだわりは、育った家庭環境の影響もあるようだ。笠原さんの父は、情報理論や暗号理論を専門とする工学博士で京都工芸繊維大学と大阪学院大学の名誉教授。母はピアニストで、京都市立芸術大学で教えていた。
「両親はどちらも仕事好きのタイプで、仕事とプライベートの境はあまりない人たちでした。食卓でも父は仕事のことを話していたし、母も昼夜を問わずピアノを弾いていました。いまだに変わりません。何ごともとことん突き詰めるところは、両親の背中を見て育ったせいかもしれません」
起業家には2つのタイプがある。0→1の発想に優れていることは共通だが、一方は3ぐらいまで育てると誰かにバトンタッチして次のビジネスに着手するタイプ。もう一方は、手塩にかけてじっくり事業を育てるタイプ。笠原さんはどうやら後者のようだ。
「事業アイデアが山ほど出てくるタイプではないので、自分自身が納得できるところまで育つのを見届けたいという思いはあります。0→1というより、10ぐらいまで育って盤石な基盤ができたと確信できるまで育てたいですね」
■「日本最大級のSNS」盛衰の本当の理由
mixiの登録者数は2012年の約2700万人でピークアウトし、下降傾向に入った。スマホを主戦場とするツイッターやフェイスブックといったSNSが急拡大したからだ。
SNSの盛衰には、人間関係の変化も影響すると笠原さんは説明する。
「mixiの初期ユーザーにとっては、サービス開始から7〜8年が経過していました。大学生だった人たちは就職して、付き合いの範囲が変化する。マイミクが“古い人間関係”と感じた人たちもいたでしょう」
新しいSNSに、新しい人間関係が構築されていく面はたしかにある。しかも同時多発的に押し寄せた変化の波は、グローバル企業の資金力と大量のエンジニアが投入されていた。ミクシィとは桁違いだ。
2013年、笠原さんは37歳で社長を退任する。日本最大級のSNSを育てた創業経営者としては、あまりに早い決断に見えた。

■「やりたいこと、やるべきこと、やれること」が重なった
「自分がやりたいこと、やるべきこと、やれること――新規事業を生み出すことにはこの3つが重なっていたので、ここに注力しようと決めました。社内ニーズとも一致するだろうと。ただ、社長のまま新規事業に取り組むつもりはありませんでした。本来は取締役も外したほうがフェアなのかもしれません」
取締役が新規事業の責任者を兼務すると、全体最適に反する場面が生じかねない。「予算を確保したい」「目標未達でも事業を継続したい」といった主観が、経営判断を歪めるケースだ。
肩書に執着するより、新規事業の実現に専念したいという思いが強かった。
「自分たちが考えたサービスが世の中に出て、ユーザーから『便利だ』とか『楽しい』とか言ってもらえるのはすごくうれしい。何ものにも代えがたい瞬間です」
学生時代から経験してきた新規事業の醍醐味。根っからのプロデューサーが語るビジネスの魅力は、ユーザーのよろこびを感じられるおもしろさだ。
■きっかけは「長女の誕生」だった
笠原さんが「みてね」を発想したのは、2013年に長女が誕生したことがきっかけだった。
子どもの写真や動画を自分で驚くほどたくさん撮るようになり、遠方に住む両親とも共有したくなる。はじめは既存のクラウドサービスを利用したが、使いづらくてしかたがなかった。大量の写真や動画を前に、どれをアップロードしようかと考えだすと、どれも捨てがたい。選別作業がだんだん苦痛になり、「もっと便利でいいツールはあっていいはずだ」という思いが募った。
だったら、自分たちで開発して提供すればいい――事業化に結びついた発想だ。
笠原さんの仕事は、企画や戦略立案だけにとどまらない。チラシ配りに加え、リリースから1〜2年間は、自らカスタマーサポート(CS)としてユーザーからの問い合わせに対応した。
「当初はエンジニアやデザイナーのほかにスタッフが少なかったので、自分でやるしかありませんでした。でも、ユーザーがどこに不満を持ち、何が足りていないのかをリアルに把握できた。いい経験になったと思います」

■迷ったときは「内なる声」に向き合う
問い合わせた側は、ミクシィの会長から回答が届いたと知ったら、さぞ驚いただろう。ビジネスの最前線に平然と出られるのは笠原さんの強み。世界に通じるサービスまで押し上げた原動力だといっていい。
「どちらかといえばプレーヤー向きだと自覚したのは、経営をはじめ多くのことを経験した結果です。自分はこっちだとわかれば、その道に進むのは自然なこと。マネジャータイプ、プレーヤータイプはたしかにあるので、どちらも経験すれば自然とわかってくるのではないでしょうか」
他人を輝かせることによろこびを感じるならマネジャー、事業そのものが好きで手を動かしたいならプレーヤー――笠原さんの周りでも、はっきりタイプが分かれるという。経験がないことを嫌うのでなく、あえて苦手なこともやってみる時期が30代には必要だという。
「AI時代には自分自身の“内なる声”が最大の武器になると考えています。AIを使えば、誰でもそこそこのアウトプットができる。だからこそ、なぜ自分なのか、なぜやるのかを突き詰める。夢とか希望とか、やりたいこととか。個性やストーリーが最終的な差別化になる。自分の内なる声を大事に育て、具現化していけばいいと思います」
■mixi全盛期のユーザー数を超えた
駒沢公園でチラシを配ってから11年がたつ。「みてね」の世界ユーザー数は2026年に3000万人を突破した。175の国と地域、7言語で展開され、利用者の約4割が海外だ。
「じわっと右肩上がりで伸びてきたのが『みてね』の特徴でした」
赤字続きだった収益もようやく損益分岐点に達し、黒字化が視野に入ってきた。今後10年以内にユーザー数1億超を目指すと、笠原さんは長期目標を掲げる。
2015年に「みてね」で写真や動画を撮影された0歳児たちは、いま小学5年生になっている。その子たちがやがて親になり、自分の子どもを「みてね」で共有する日が来るかもしれない――笠原さんはそんな未来を思い描く。
「子どもの写真や動画と、自分が子どもだった頃の写真や動画を見比べられたらいいなと思っていて。親と子の時間をリアルに実感しながら子育てができたら、最高に幸せじゃないかと」
■「生涯プロデューサー」としての挑戦
世代を超えて愛情が循環するしくみをつくることは、「人類にとって大切な文化遺産になり得る」とさえ笠原さんはいう。その思いはビジネスにとどまらない。
2020年、笠原さんは個人資産10億円を拠出して「みてね基金」を設立した。子どもの虐待、貧困、教育といった社会課題に取り組む非営利団体への助成が目的だ。資金はその後16億円に達し、2025年には一般財団法人化された。「世界中の家族の心のインフラをつくる」というミッションは、アプリの外にまで広がっている。
いまも笠原さんは現場にいる。現在はMIXI取締役ファウンダー・上級執行役員の立場だ。泥臭い現場仕事を選んだ笠原さんは、「生涯プロデューサー」と自らを呼ぶ。mixiで人と人をつなぎ、「みてね」で家族の記憶をつないできた。
「チャンスがあればまた次の新規事業も立ち上げていきたい。いつの時代もマーケットを見ながら、どこにチャンスがあるか考えていきたいと思っています」
笠原さんはこれからも人と人の間にある「つながり」を見つけ、新しい事業を生みだすのだろう。

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笠原 健治(かさはら・けんじ)
MIXI 取締役ファウンダー 上級執行役員
1975年大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業。1997年11月に求人情報サイト「Find Job!」の運営を開始し、1999年6月にイー・マーキュリーを設立、代表取締役に就任。2004年2月にSNS「mixi」の運営を開始。2006年2月にミクシィへ社名変更し、同年9月に東京証券取引所マザーズ市場に株式を上場。2013年6月に取締役会長、2021年6月に取締役ファウンダーに就任。2022年4月より現職。
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(MIXI 取締役ファウンダー 上級執行役員 笠原 健治、ライター 伊田 欣司)
