「この事実は誰も知らなかったはず」 人知れず苦しんだ2度目のW杯、悔し涙の先に見た光景
連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:玉田圭司(名古屋グランパスコーチ)第3回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。
その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。元日本代表FW玉田圭司は2010年、南アフリカの地で自身2度目のW杯のピッチに立った。だが、その裏では大会前から苦しい“闘い”が続いたことで、悔しさが残る結果に。だが、その経験が選手としてさらに成長する糧となり、帰国後のJリーグで大きな成果を手にすることになった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の3回目)
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玉田圭司は30歳で2度目のW杯に臨んだ。
2010年の南アフリカW杯。ケガに苦しめられていたため、本大会に間に合ったことは奇跡に近かった。
長く悩まされていた左足首痛は痛み止めの注射とアイシングでごまかせていたものの、大会2か月前のセルビア代表戦で左太腿を打撲。さらにメンバー発表直前のJリーグの試合では内転筋の肉離れを負った。担当医から全治に1か月以上かかる見込みを直接伝えられたが、もっと早く治せるという根拠のない確信があった。
「先生には長くかかる可能性があるということを伏せておいてもらうように頼みました。早く治してみせますから、と無理を言って。この事実は、ほかに誰も知らなかったはずです」
メンバーに選ばれると大会前のオフを返上して、超音波などあらゆる治療を施して代表合宿がスタートしてわずか1週間でチームに本格合流し、イングランド代表との強化試合で途中出場を果たしている。左足首の慢性的な痛みも不思議と消えていた。
W杯に対する想い――。
4年前のドイツW杯ではブラジル代表との一戦でゴールを挙げたとはいえ、1勝もできなかった。岡田武史監督体制下では継続的に招集され、スタメンを張ってアジア最終予選突破にも貢献。南アフリカの地で自分の成長を示し、チームを引き上げていこうと意欲を燃やしていた。その執念が、ケガをも吹き飛ばした。
だが1トップには岡崎慎司が入るようになり、最終的には本来2列目の本田圭佑が担うことになる。コンディションが上がっていくのを実感しつつも自分の序列が下がったことを受け入れるしかなかった。
大会直前になって堅守にベースを置く戦術にシフトチェンジし、メンバーも入れ替わった。そのなかで勝利したグループステージ初戦のカメルーン代表戦でも出番は回ってこなかった。
「30歳になっていたし、ワールドカップも一度経験しているとなると、自分はどうやるべきか、チームのなかでどう振る舞わなければいけないかは、考えなければなりませんでした。その意味では4年前のドイツとは違っていました。勝つことに徹したサッカーをすることによってチームとして結果を得られたし、世界との差が縮まったなとは感じました」
ベンチでは声を出してサポート役に回って中村俊輔、楢崎正剛、川口能活らとともに経験者、年長者としての行動を心掛けた。
同時に並々ならぬ意欲をピッチで表現できない苦しみもあった。来たチャンスを、しっかりつかまないといけない――。後半途中から出場した2戦目のオランダ代表戦ではゴールを奪えず、ラウンド16のパラグアイ代表戦では延長後半開始のタイミングで指揮官から「点を獲ってこい」と送り出された。
見せ場はやってきた。自らの突破でチャンスをつくり、ペナルティーエリア内に侵入して岡崎慎司からのパスを受けた。シュートコースを消されたことでフリーになっていた中村憲剛にパスを送ったが、うまく合わずに流れてしまった。無理にシュートを打つ選択肢より、ゴールへの確率を考えてのこと。成功には至らなかったが、チームファーストの判断を優先する彼の姿があった。
PK戦で敗れると、玉田は一点を見据えて体を小刻みに震わせるようにして涙を流していた。
「何もできずに終わってしまったなという思いがあって、悔しさだけが残りました。自分は一体この南アフリカに何をするためにやって来たんだと、そう思うとつらかったですよ」
悔し涙から嬉し涙へ、「人間的にも成長できた」J1初制覇
南アフリカでのうっ憤を晴らすように帰国後、名古屋グランパスで爆発する。リーグ再開2試合目の清水エスパルス戦で2ゴールを挙げると、9月のエスパルス戦でもハットトリックをマーク。首位を走るチームをけん引していく。
玉田の一撃がグランパスにリーグ初制覇をもたらす。
11月20日、湘南ベルマーレとのアウェーマッチ。優勝の重圧からか、全体的に硬さのあるプレーが目立った。そんなチームを救うべく、左からのクロスにヘディングで飛び込んだのがエースであった。優勝の瞬間、交代してベンチの前で戦況を見守っていた彼の目から涙が溢れ出た。ピッチに足を踏み入れた途端、しゃがみこんでタオルを目に当てて人目構わず泣いた。
「夏場から、チームのみんなが自信を持ってプレーするようになっていました。自分もそれに乗せられた感じです。優勝に向かって独走していたけど、一つ負けてしまえばズルズル行くんじゃないかという不安もあった。ワールドカップは心残りだったとしても、結果的にいい方向に行きました。人間的にもすごく成長できたと感じています」
当時のグランパスは玉田、楢崎、田中マルクス闘莉王、ジョシュア・ケネディら多士済々のメンバーが揃っていた。残り3試合を残しての優勝であり、2位ガンバ大阪に勝ち点10差をつけての独走であった。
チームを束ねたのが、クラブのレジェンドでありユーゴスラビア代表としてW杯でも活躍した“ピクシー”ことドラガン・ストイコビッチ監督。敬愛したジーコ監督と共通している部分があった。
「偉大な選手というのは同じですよね。ちょっとした一言でも、受け取るほうとしては違う。認められた、褒められたとなると、そりゃあ嬉しいですよ。あの時のグランパスは個性派揃いでしたから、ピクシーだからまとめられたんだと思います。
自分のキャリアのなかでリーグタイトルは1回しか取れていません。今振り返ってもトップに立つってことは簡単じゃないよなって思います。チームとして結果を出せたというのは大きな経験でした」
悔し涙から嬉し涙へ。
玉田圭司にとって2010年は忘れられない1年となった。(文中敬称略/第4回へ続く)
■玉田圭司 / Keiji Tamada
1980年4月11日生まれ、千葉県出身。習志野高から99年に柏レイソルに加入し、1年目からプロデビューを果たす。2002年の2ndステージからレギュラーの座を掴んで3得点を挙げると、翌02年には28試合出場11得点と一気にブレイク。06年には名古屋グランパスに移籍し、10年のリーグ初優勝に貢献した。その後はセレッソ大阪、名古屋復帰を経て、19年にV・ファーレン長崎へ。21年に現役引退を発表した。日本代表にはジーコ監督時代の04年にデビューし、同年のアジアカップでチーム最多の3得点を挙げ、優勝に貢献。06年のドイツW杯にも出場し、第3戦のブラジル戦でゴールを決めている。引退後は指導者に転身し、昌平高のコーチを経て監督に就任。同校をインターハイ優勝に導き、25年からは古巣・名古屋のコーチに就任した。(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)

