歴史の舞台から消えた「モンゴル抑留」の真相は何か。ジャーナリストの井手裕彦さんは「日本政府がソ連政府とだけ懸命な交渉を行っていた間に、モンゴルで命を落とした抑留者がいたことを私は自分の調査から知った。私の情報提供を受け、厚労省は2018年6月に初めて職員をモンゴルに派遣したが、それまで現地で一切調査していなかった」という――。

※本稿は、井手裕彦『モンゴル抑留』(角川新書)の一部を再編集したものです。

ナホトカにあった日本人シベリア抑留者用のラーゲリ(画像=1億人の昭和史 4「空襲・敗戦・引揚」毎日新聞社、1975年9月、p.221/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■「シベリア抑留」という言葉の陰で

言葉が持つ力は、時として罪作りな働きをする。

第2次世界大戦後、ソ連全土やモンゴルに日本兵ら57万5000人(日本政府推計)が抑留された悲劇を総称する「シベリア抑留」はその典型だろう。「モンゴル抑留」をあまりに強い言葉の陰に覆い隠し、歴史の舞台から消し去ったからだ。

本稿では、ソ連最優先の国の戦後処理の方針の中で、モンゴル抑留者がいかに後回しにされてきたのか、経緯をたどる。

「シベリア抑留」とは、ソ連がつけた正式な呼称ではない。日本人が戦後、生み出した造語である。ロシア帝国時代から政治犯を流刑にする伝統を持つソ連は、地理的にはウラル山脈の東側を指すシベリア地域に収容所を限定する柔な国であるわけがない。

収容所は、確かにハバロフスク地方やイルクーツク州などシベリア地域が多くを占めていた。とはいえ、モスクワ周辺や今、戦闘が続くウクライナ、中央アジア、北極圏にも広がっていた。そして、本書で取り上げるモンゴルにも、である。

だから収容地域で言えば「ユーラシア抑留」と呼ぶのが正確である。それを「シベリア抑留」と言い始めたのは、1979年、発足した抑留者の団体「全国抑留者補償協議会」だと前述の抑留研究者、富田武は紹介している。当時、この団体では抑留者の労働に対する補償を日本政府に求める運動を繰り広げていた。

「シベリア抑留」というキャッチフレーズは極寒、飢餓の中での重労働というイメージを広げるのに役立つ。新聞やテレビは飛びつき、中学校や高校の歴史の教科書に「シベリア抑留」が掲載されるまでになったのである。

■疎外感の中で亡くなったモンゴル抑留者

日本政府を相手取った抑留者への補償請求訴訟は最高裁で敗訴するものの、判決で重労働の深刻さが認められ、立法的な救済措置が必要だとされた。そして2010年、抑留期間に応じて25万円から150万円の特別給付金を国が支給する「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が成立。6万8847人に計192億9855万円が支給された。

「シベリア抑留」という言葉が普及するまで使われていたのは、この法律の名称になった「戦後強制抑留」である。政府内では今でも「戦後強制抑留」を使うが、役所言葉の臭いが抜けない「戦後強制抑留」では世間の理解はこれほど進んだだろうか。

「シベリア抑留」は一方で、シベリア以外での抑留を人々の認識から消し去る副作用を生んだ。モスクワ周辺や中央アジアといったソ連領内は「ソ連での抑留」としてとらえられるのでまだいい。国が違っていた「モンゴル抑留」は、より副作用の被害が大きかった。

私が取材したモンゴル抑留者の一人は、「家では話しにくいからね」と駅前の喫茶店を面談場所に指定した。当時97歳だったが、モンゴルでの2年間を目前のことのように語る。

「最初の1年はコロコロ、死んじゃったね。遺体が10人ほどになると、大八車に入れて埋葬場所まで運ぶ。やせ細っているから、重ねたら10人でも乗せられたね」

2時間40分にわたった面談の最後、自嘲気味に語った言葉が忘れられない。

「モンゴルに抑留されたと言っても誰もわからないからね。抑留仲間以外ではソ連に抑留されたと話していたよ」

このインタビューは7年前のこと。この人はもうこの世にいない。

別に会った遺族で、モンゴルで父親を亡くした娘は寂しそうに本音を吐露した。

「父のことを子どもたちに話しても『モンゴルに抑留されたって、どういうこと』って最初から耳に入らなくてねえ」

モンゴル抑留者や遺族は疎外感の中で生き、そして亡くなっていったのである。

■ソ連一本槍だった戦後処理

もちろん私は、モンゴル抑留が国民から忘れ去られた原因を「シベリア抑留」の言葉の影響力だけに押しつける気はない。国にもっと重い責任があり、戦後処理のうえでの具体的な弊害まで生んできたからだ。

抑留問題は戦後の混乱の中、未帰還者問題という形で始まる。満洲や朝鮮半島北部、樺太、千島列島にいた日本兵らがソ連軍の捕虜となり、日本に帰ってこない。終戦後4年以上が過ぎた1950年1月現在で日本政府がまとめた未帰還者は34万585人にのぼる。

独立が回復していない中、日本政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)や国連に、ソ連が日本人を解放するよう働きかけた。ソ連政府との直接交渉にも乗り出す。1955年6月から始まった日ソ国交正常化交渉で、ソ連領内に残された抑留者の早期送還を求めた。

難航した交渉の末、時の首相、鳩山一郎が訪ソして1956年10月19日、日ソ共同宣言に調印。北方領土問題を棚上げにし、長期抑留者の帰還にこぎつけた。

当時の内閣総理大臣:鳩山一郎(在任期間1954年-1956年)(画像=Unknown author/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

しかし、こうした交渉にモンゴルに残留させられていた抑留者は出てこない。当時、モンゴルは社会主義体制で「モンゴル人民共和国」が国名だったが、そのモンゴル政府に日本政府が抑留者の送還をめぐって直接交渉したこともない。

旧厚生省が作成した「ソ連中国地域等の未帰還者集計表」(1954年5月1日現在)では「ソ連外蒙古」として未帰還者の人数をひとくくりにしている。ソ連政府に交渉すれば、モンゴル領内の未帰還者の問題も解決するだろうと見込んでいたのだ。

今も、国の遺骨収容数の統計(地域別戦没者遺骨収容概見図)では「旧ソ連邦(モンゴルを含む)」とし、モンゴルは「ソ連全体の内数」という処理が続く。抑留資料を紹介したホームページでも「ロシア連邦政府等提供資料」とモンゴル政府提供分は「等」として扱っている。

■「外蒙古」という蔑称が映す政府の無関心

ちなみに「外蒙古」とは、清朝が首都の北京からの距離に応じて、モンゴル民族の居住地域を「内蒙古」「外蒙古」と分割して統治していた時の呼称である。「外蒙古」は現在のモンゴル国、「内蒙古」は中華人民共和国内モンゴル自治区で、第2次世界大戦時は日本の傀儡政権だった蒙古自治邦政府が統治していた。

中国語で「蒙」には「おろか」という意味があり、モンゴル国民は自国を「外蒙古」と呼ばれるのを嫌う。だが、当時の国の文書は「外蒙古」ばかりだ。相手が蔑称と受け取る地名を使用している点からも、日本政府がまともに取り合ってこなかった経緯が見える。

写真=iStock.com/Oleksii Liskonih
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oleksii Liskonih

戦後、モンゴルでは一般の日本人抑留者は2年間で帰還を許された。だが、ソ連よりはるかに人数は少なかったものの、残留させられていた抑留者は確かにいたのである。

その一人、内モンゴル地区の女子中学校副校長だった小山義士の妻、かの江は小学生だった長女、和子と長男、敬之の連名で1954年1月から4回、北京のモンゴル大使館を通じてモンゴル首相、ツェデンバルに夫の早期帰国を求めた嘆願書を送っていた。

「どうか、私達留守家族の心の内をお察しくださいまして、一刻も早く、全員帰国出来ます様、お願い致します」

悲痛な訴えが書かれた嘆願書は「外交文書」としてモンゴル外務省中央公文書館に保管されている。発見したモンゴル人研究者が教えてくれた。モンゴル政府は、かの江が嘆願書を送り続けていた間に小山を中国に「戦犯」として引き渡したうえで、「もうモンゴルにはいない」と回答を送っている。結果は夫の帰国にすぐにつながらなかったのであるが、抑留国のトップに夫の解放を直談判した妻を私はほかに知らない。

自らは生き延びて帰還していた抑留者も動く。終戦時は満洲国軍の軍医少尉で、抑留中に12か所の収容所・病院を転属させられた春日行雄は帰還者にモンゴル首相宛てに嘆願ハガキを出すことを呼びかけ、モンゴルに残された抑留者の釈放運動を始めた。

1953年12月3日付毎日新聞朝刊の投書欄に春日の投書が掲載されている。

「この際、ソ連だけを相手に交渉するのは片手落ちではなかろうか」

そう言って、モンゴル政府を相手にした解放交渉を提起している。

■国家に見捨てられた抑留者たち

日本政府がソ連政府とだけ懸命な交渉を行っていた間に、モンゴルで命を落とした抑留者がいたことを私は自分の調査から知った。

1950年2月6日の参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会で、帰還者の一人で証人として出席した戦車第35連隊長の長命稔がこう証言している。

「一言申し上げたいのは外蒙古にまだ残っておる人間が6人おると思います。これは刑を受けて刑務所につながれておる人、終戦当時内蒙古におりました国境に近い旗公署(旗公署は行政機関の呼称)の職員と特務機関の派出員だと記憶しております」

長命の証言から1年8か月後、6人のうちの1人が獄中で病死した。証言を受けて、日本政府が国家としてモンゴル政府に帰還を強く求めていたら救われたのではないか……。まさに母国に「見捨てられた抑留者」だったのである。

かの江の嘆願書や春日の釈放運動の呼びかけを知った時、私はその行動力に胸を打たれた。一方で、必死な行動は、国があてにならないことの裏返しである。

当然のことだが、個人の嘆願だけでモンゴルという国家が動くわけではない。モンゴル抑留者の一人は、生前の春日が政府に対して義憤に駆られていたことを私に明かした。

「春日さんはねえ。『いつも国は冷たい、頼りにならない』と怒っていましたよ」

時を経て、動きが鈍い国に代わってモンゴル政府にぶつかっている私は、かの江や春日の気持ちが身にしみてわかる。

■抑留者の消息がやっと入ってきたと思ったら

終戦後、時間がたっていても抑留先で亡くなった人は戦争犠牲者である。遺族に「戦死」として伝えるのは国の責務だ。ところが、ソ連やモンゴルにとって「西側の国」とみなされていた日本には抑留者の消息は入ってこない。

そこで当時の日本政府は、帰還船の引揚港だった舞鶴港(京都)や函館港(北海道)に上陸した帰還者から聞き取りを進める。複数の確かな証言が集まると本籍地の都道府県に連絡し、都道府県が遺族に死亡通知を出した。

京都府舞鶴で船から降りるのを待つ、シベリア抑留の日本兵(画像=Unknown author/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

とはいえ、この帰還者の証言ありきの方法は限界がある。抑留者たちはモンゴルで日中、作業現場に駆り出されている。すべての死亡者の最期に立ち会うのは難しい。死亡者の身元を一人残らず特定するには、抑留国から死亡記録の提供を受けることが必須だった。

転機となったのは、1991年のことである。強固だったはずのソ連邦の共産主義体制に陰りが見えると、ようやくソ連、モンゴル両国の政府から抑留中に亡くなった日本人の死亡者名簿が提供されたのだ。日本政府は国内に残る記録と照合して死亡者の身元を特定し、「抑留死」と認定して遺族に通知する作業に取り組んだ。

だが、この身元特定作業でもソ連一辺倒の国の姿勢が変わることはなかった。

モンゴルから外相のゴムボスレンが日本を訪れ、外相の中山太郎に1597人の抑留死亡者の名簿を手渡したのは1991年3月26日。ソ連の大統領、ゴルバチョフが延べ3万8647人の抑留死亡者名簿を持参して来日する3週間余り前のことだった。

もっと前に死亡者名簿を日本に渡せば、ソ連から「勝手なことをやるな」と反発を受ける。かといって、ゴルバチョフ来日後の提供であれば二番煎じになって資料提供のインパクトは薄れる。絶妙のタイミングだったと言える。

■実際の死亡者より少ない1597人の死亡者名簿

外務省での外相会談の席上、死亡者名簿を手渡したゴムボスレンはこう語ったと、翌日の読売新聞朝刊は伝えている。

「1940年代に作成したもので不正確だが、(日本)政府の努力で正確にしてほしい」

同じ記事の末尾に日本側の反応が以下のようにある。

「今回、渡された名簿は、厚生省所有の名簿より人数が少なく、同省は他に名簿があるかどうか、同国政府に要請する方針」

厚生省所有の名簿とは、帰還者の聞き取りや国内で行った調査をもとに国がモンゴルで死亡したと判断した抑留者1684人を1966年7月にまとめた「外蒙古死没者名簿」である。

この名簿は国が把握できた死亡者だけを掲載したものだ。名簿に掲載できなかった死亡者を含めると、モンゴル抑留の死亡者は1700人台半ばにのぼると推定される。

だからゴムボスレンが持参した1597人の名簿は実際の死亡者数より少ない。そのうえ、ゴムボスレンが「不正確だ」と認めたように日本人の氏名とは思えない読み方のものが含まれていた。氏名は収容所でモンゴル人の担当者が聞き取ったものだったからだ。

だが、その後、日本政府は死亡者名簿を正確にするよう努めたり、ほかに名簿があるか、調査を要請したり、記事にあった死亡者の身元特定を進めるための努力は全くしていない。結果的にゴムボスレン持参名簿は棚ざらしにされる。

■後回しのうえに怠慢

なぜ、ほったらかしにされたのか。日本政府は名簿を受け取った順序を逆転し、ゴルバチョフ持参名簿から身元特定に取りかかったからだ。ソ連地域の死亡者について1991年度末までに8905人、92年度末までに1万3394人の計2万2299人の身元を特定し、連絡先が把握できた遺族に通知していることからもソ連地域優先が見てとれる。

後回しになったモンゴル地域の死亡者の身元特定作業はソ連地域から遅れること2年、94年度末までかかって、1597人のうち1427人を特定した。

さらに提供死亡者名簿の精査から、名簿にはなかった死亡者についての現地調査という段階に入ると、ソ連とモンゴルの死亡者特定に対する格差は一層ひどくなる。

まずソ連の方から見てみる。こちらも死亡者のロシア語の氏名が日本人の通常の読みとかけ離れたものが含まれていたゴルバチョフ持参名簿だけでは特定に限界がある。2000年代に入ると、死亡者の特定数は年一桁に落ち込む。

しかし、2010年度以降、1572人、848人、921人、1202人と跳ね上がった。2015年度以降、256人、287人、307人とペースは鈍化したものの、年100人前後は維持。2026年1月現在の身元特定者数は3万9648人に。つまり、1万7349人を積み上げたことになる。

これは、モスクワの日本大使館に厚労省の専門事務官を常駐させた効果で、現地の公文書館で抑留者の新たな個人記録や死亡記録を発掘したからである。

写真=iStock.com/GM-Studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GM-Studio

■国家の責務としての「戦後」は終わらない

一方、モンゴル地域の死亡者の身元特定は1998年度、99年度、2019年度に各1人あっただけである。この3人とも国の調査による特定ではない。個別の遺族から問い合わせがあって身元が判明した「他力頼み」だった。

私の情報提供を受け、厚労省は2018年6月に初めて職員をモンゴルに派遣したが、それまで現地で一切調査していない。新たな資料を見つけていないのだから身元特定は当然進まない。

調査は死亡者の数が大きいソ連地域に偏っていたのは明らかだ。モンゴル地域では当初、ゴムボスレン持参名簿を翻訳して表に内容を書き写す際、欄を間違え、別人を記載するミスもあった。30年以上たってミスに気づき、2025年に身元特定したが、その間、誰も表をチェックしなかったのか、と首をかしげてしまう。

厚労省は2018年度以降、毎年のように職員をモンゴルに派遣して新たな資料の入手に当たるようになる。その結果、2020年度からは身元特定者が増え、2026年1月現在の身元特定者数は1539人に達した。だが、資料の入手先をモンゴル国立中央公文書館以外に広げていないため、手詰まりが見えてきている。

1700人台半ばの死亡者総数から直近の身元特定者数1541人を差し引くと、身元の特定に至っていない死亡者は約200人にのぼる。モンゴル政府から記録が提供されていないか、提供されていても情報が不十分か、どちらかの理由なのだが、身元未特定の死亡者がゼロにならない限り、遺族にとって、いや国家の責務としての「戦後」は終わらない。

■国の不作為による「冷たすぎる仕打ち」

この間、チャンスがなかったわけではない。2003年12月、来日したモンゴル大統領、バガバンディと当時の首相、小泉純一郎が交わした共同声明に抑留資料の提供が盛り込まれ、翌2004年8月、抑留者1万330人分の個人記録が提供された。ところが、大半は身元特定には関係ない生還者の記録で、肝心な死亡者の個人記録はほとんどなかった。

井手裕彦『モンゴル抑留』(角川新書)

どこでどう食い違いがあったのか。今となってはわからないが、首脳の共同声明にまで盛り込まれたのに、日本側の意図がモンゴル政府に通じていなかったのは確かだ。

さらに問題は、この後の対応である。日本政府から死亡者の個人記録を提供してほしいという要請はモンゴル政府にされていない。死亡者の個人記録には、生年や死亡日、所属部隊などの情報が記載されており、ソ連地域の身元特定数を増やす大きな一因となった。

それを厚労省は知っているのにモンゴルには何も手をつけていない。約200人の身元未特定者が残っているのは、国の不作為による「冷たすぎる仕打ち」だったとしか思えない。

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井手 裕彦(いで・ひろひこ)
ジャーナリスト
1955年、福岡県生まれ。京都大学文学部卒業後、78年、読売新聞大阪本社入社。社会部記者、論説委員、編集局次長など経て2020年退社。在職中からシベリア抑留の実態解明に傾注し、ロシア、モンゴルで新たな資料を発掘。日本政府に情報提供するとともに遺族に記録を無償で届けている。在職中は公益通報者保護法の検討会委員など政府審議会委員なども歴任した。退社後は北海道に在住。著書『命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って』(集広舎)は135万字という大著で23年度のシベリア抑留・記録文化賞を受賞。
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(ジャーナリスト 井手 裕彦)