本記事はRokt松田誠氏による寄稿です。

<目次>NRF APAC 2025 レポート Vol.1 Retail Unlimited 日本とAPAC

小売業界に携わる者であれば、「NRF」という言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。NRFとは「National Retail Federation(全米小売業協会)」の略称であり、米国最大にして世界有数の小売業界団体である。そしてそのNRFが毎年1月にニューヨークで開催するのが「NRF Retail's Big Show」というリテール業界における世界最大級のカンファレンスであり、業界の未来を占う場としても知られている。そのNRFが、成長著しいアジア・パシフィック市場に向けたイベントとして昨年より開催されているのが「NRF 2025: Retail's Big Show APAC(以下、NRF APAC)」である。ニューヨークと同様に、最新のテクノロジーや業界動向、顧客インサイトを共有する場であると同時に、ECの普及度や流通インフラの整備状況、人口構成、経済発展の段階といった点で極めて多様な特徴を持つアジア市場における最前線の事例が共有される、重要なイベントだ。2025年6月、シンガポールで開催されたNRF APAC 2025は、その存在意義を改めて世界に示した。来場者は1万人以上、参加企業は1900以上、開催セッションは60を超え、展示企業は300社以上、もはやニューヨークのサテライト版ではなく、完全に独立した巨大イベントとして今年2回目を迎えた。本稿では、NRF APAC 2025に実際に参加して得られた数多くのインサイトのなかから、小売業界関係者はもちろん、マーケティングやデジタル戦略、AI活用、次世代消費者理解といったテーマに関心を持つあらゆるビジネスパーソンにとって実務に活かせる内容を中心にレポートしていく。
Retail Unlimited(リテールの無限の可能性)
イベントの開幕を飾ったのは、主催者であるコムエキスポジウムAPAC代表のリフ・クウェイル氏によるオープニングスピーチだった。今回のNRF APACのテーマは「Retail Unlimited」。APAC地域のリテールが持つ無限の可能性を表すテーマとなった。

コムエキスポジウムAPAC代表 リフ・クウェイル氏

クウェイル氏が「Unlimited(無限)」と表現した背景には、大きく2つの意味が込められていた。1つめは、小売のあり方そのものが変化し、「さまざまな境界線が失われつつある」(Boundaries are breaking down)という構造的変化への着目である。たとえば、「リテールとブランドの境界」が曖昧になっている。これはNRF NY 2025でも語られていたが、リテーラーはプライベートブランドを拡充することでブランドが担っていたバリューチェーンの上流をめざし、反対にブランドはD2C戦略により、直販によってリテーラーが担っていたバリューチェーンの下流に進出してきており、リテール企業とブランド企業という分別が難しくなってきている。また、「フィジカルとデジタルの境界」も溶け始めている。顧客はもはや「オンラインだけ」「オフラインだけ」で購買行動を完結させない。店舗で見てアプリで買い、ソーシャルで知って店頭で試す。日常的にチャネルを横断するハイブリッド消費が前提となった。さらには、「ブランドと消費者の境界」も消えつつある。SNSの普及により、消費者はブランドの受け手であるだけでなく、共創者であり、ときに販売者にもなる。ファンが商品の情報を拡散し、ブランドのストーリーを発信する消費者の存在は、従来の想定以上にブランド体験の中心にある。これらの「境界の消失」が意味するのは、小売業界がこれまでの常識や構造が根底から揺さぶられる激変の時代に突入したということだ。ゲームはリセットされ、既存のルールが通用しない新たなフェーズへと移行しつつある。それは新たな競争に対する挑戦となるが、同時に無限のオポチュニティを意味する。クウェイル氏が「Unlimited」と表現したもうひとつの理由は、APAC市場そのものが持つ地理的・経済的・文化的な多様性と拡大する消費力にある。スピーチでは以下のようなデータが挙げられた:アジア太平洋地域は35億人の人口を抱え、世界人口の55%を占める2030年には、世界の中間層の3分の2がこの地域に集中する見込み日本、シンガポール、韓国といった成熟した市場から、ベトナム、インドネシア、フィリピンのような高成長市場まで幅広く、家族経営の地場企業から、財閥企業まで、リテール業界のプレイヤー構成が極めて多様またオープニングキーノートに続いて行われたセッションでは、KPMG Internationalでグローバルコンシューマー&リテール部門責任者であるイサベル・アレン氏が登壇。アジア市場の持つ強力なポテンシャルについて語った。東南アジアにおいてはEC市場が過去5年間、年平均20%以上で成長。韓国では世界で初めてEC化率が50%を超えた。さらに、スーパ―アプリ、ライブコマース、SNS連動型購買など、APAC発のリテールトレンドが世界の市場や消費者行動に強い影響を与える存在となりつつあることが示された。

KPMG International イサベル・アレン氏

境界が消失し、多様性が交錯するAPAC地域のリテールは、世界のリテール業界に新たな価値と視点をもたらす市場として、確実に存在感を高めつつあることが明らかになった。
日本とAPAC
本レポートではNRF APACで語られた内容を紹介していくが、その前にAPACと日本の関係性についてひとつの視点を持っておく必要がある。日本のリテーラーがほかのAPAC諸国の市場を見る際に、日本より遅れている、あるいは文化が違いすぎて参考にならない、よって学ぶべきことは少ない、と考える人もいるかもしれない。しかし現実として、東南アジアの多くの国では、日本よりもモバイルファースト、SNSネイティブ、EC化率が高く、デジタル先進国として学ぶべき部分が多い少子高齢化、Z世代の台頭、ジェンダーやライフスタイルの多様化など、日本と類似する社会的・文化的課題を共有する国も多いという視点がある。APAC市場は異なるからこそ視野が広がり、似ているからこそ応用できる、すなわち両面から学ぶ価値が詰まっている。その多様性と共通性を体感できるNRF APACは、日本のリテールにとって貴重な学びの場である。本レポートでは、NRF APAC 2025で展開された多彩なセッションのなかから、特に注目されたトピックを取り上げていく。主なテーマは以下の4つである。ハイブリッド時代の顧客体験Z世代のリテール戦略リテールを革新するAI普及が加速するリテールメディアそれぞれのセッションで語られた実例やインサイトを通じて、日本市場にとっても参考になる戦略や具体的な取り組みを紹介していく。
松田 誠(まつだ・まこと)Rokt合同会社 日本マイクロソフトでOffice 365を始めとした各種ソフトウェア・サービスのビジネスをリード。ケルヒャーでコンシューマービジネスの責任者を担当した後、2019年にRokt合同会社に入社。ビジネスデベロップメントとして日本市場におけるRoktビジネスの立ち上げと拡大に従事している。
写真:Rokt提供