福井ミラクルエレファンツの投手コーチに就任した福沢卓宏氏

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1999年にドラフト2位で中日入団した福沢卓宏氏、イップスで4年で戦力外に

 巨人を自由契約となった村田修一内野手がBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団することが3月5日に発表され、注目を集めた。そして、その5日後。14年ぶりに“プロ野球”に復帰した一人の男がいる。村田と同じBCリーグ、福井ミラクルエレファンツの投手コーチに就任した福沢卓宏氏。NPBとは違うが、独立リーグもれっきとしたプロ球団だ。

「プロでの実績がない中で、誘っていただけたことを光栄にいます。自分の人生で経験してきたこと、何が必要かを少しでも伝えることができればと思っていますね」

 福沢氏は1999年に兵庫・滝川第二高からドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。140キロ中盤のストレートと、高速スライダーを武器に同年の甲子園には春夏連続で出場。夏は初戦で後にチームメートになる朝倉健太(現中日投手コーチ)擁する東邦高に勝利するなど、ベスト8入りし注目を集めた。

 中日ではルーキーイヤーに1軍で4試合に登板し、将来のエース候補として期待された。翌年の春季キャンプも1軍でスタートしたが、そこから歯車が狂いだす。周囲の期待が大きなプレッシャーとなった。古傷だった右肩、右肘にも負担がかかり、納得するボールが投げられない。しかし、“痛い痒い”は言えなかった。

「あの頃は毎日、投げることが嫌でしたね。今日もブルペンで投げないといけないって。今考えたら、無理する年齢でもなかったし、治療してしっかり休んでいたらと思うけど、当時はそうはいかなかったですから」

21歳の若さで職を失うが…「心のどこかで安心している自分も」

 ブルペン捕手、首脳陣の顔色を伺いながらボールを投げ続けた結果、ある日、突然ボールが投げられなくなった。イップスだった。投手として投げられないほど辛いことはない。何度投げてもボールはホームプレートの5メートル手前でワンバウンド。「これはダメだなと。もう練習できない、そこから投げることから逃げてしまった」。精神的にも追い込まれ、結果を残せないままプロ4年目のオフに戦力外通告を受けた。

 高校を卒業してわずか4年。21歳の若さでクビとなったが「心のどこかで安心している自分もいましたね。もう投げなくていいって」と振り返る。「でも自分は甘かったし、わがままだった。イップスになって投手としては終わり。それぐらい追い込まれていたのかな」。

 トライアウトにも参加したが獲得する球団は現れず、その後は地元の兵庫・尼崎に戻ることになった。右も左も分からないまま社会に投げ出された青年は辛い現実を知ることになる。当時は今よりもNPBが選手のセカンドキャリアについて活発に動いていなかった時代。高卒の21歳の青年には働く場所はなく、元プロ野球選手の肩書だけが一人歩きした。

「まず、働くためにどうしたらいいかもわからない。若かったし、変なプライドもあった。もうそこからはその日暮らしですよ」

「一番、精神的に楽だったのは土木関係の仕事をしている時かな。(プロ野球選手の)看板で人を見ない人だったし。普通に接してくれました」

 バーテンダー、土木作業員、解体業…1日1日を生きていくため、泥にまみれ、汗にまみれた。引退してから3年間は寝床すら定まらない毎日だったという。だが、そんな状況になっても野球だけは続けていた。休みの日になれば、仲間と草野球を行い、純粋に野球を楽しむ日々を過ごした。

福沢氏が若い選手たちに伝えたい思いとは…

 退団してから3年後の2007年。草野球界で名を上げていた福沢氏に福井県のクラブチーム「福井ミリオンドリームズ」から入団の打診が届いた。断る理由はなく福井に移住し、再び硬式ボールを手にした。主将にも就任し、野手兼投手として仲間と共に都市対抗を目指して白球を追いかけた。そして、福井で11年目を迎えた今年上旬に、BCリーグ・福井から投手コーチのオファーが届くことになる。

 今では結婚し、2人の子供にも恵まれ、家族を養う立場に立った。“空白の14年”は波乱万丈の人生だったともいえる。一度は道を踏み外したが、様々な経験を積み、再びプロのユニホームを着ることになった。失敗して初めて自分を見つめ直すこともできる。NPB入りを目標として、独立リーグに入団する選手たちに福沢氏が伝えたいこととは――。

「甲子園に出たい、プロ野球選手になりたいという思いはあったけど、何となくやってきて、たまたまうまくいった。プロでも1年目で1軍に上がって、抑えていけるやろと。技術の部分より、心の部分。考えが甘かった」

「反面教師じゃないけど、自分の経験を伝えることはできる。自分は気付くのが遅かった。そういった部分を伝えることができれば。やるのは自分、しっかり考えて、逆算する能力を持ってほしいですね」(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)