がっかりさせられること、残念に思うことが他の人に比べて多いのか少ないのかよく分からないが、少なくともサッカーに関しては多いほうだと思う。世の中の反応が優し過ぎるように見えることがしばしばあるからだ。なぜもっと声を大にして叫ぼうとしないのか。その反応の鈍さにもよくがっかりさせられる。
 
 最近の一番の出来事は、森保監督のメンバー選考だ。ミャンマー戦に臨んだスタメンの顔ぶれを見て、さらにがっかりさせられることになった。弱小チーム相手にオールスターキャストを編成してどうする。その理由は何なのか。
 
 この感覚に僕はまるで付いていくことができない。支持する、支持しないで言えば、支持しないに回りたくなる。その針が一方に大きく振れた瞬間だった。
 
 ところが、世の中の様子はそれほどでもない。まったく聞こえてこないわけではないが反応が鈍い。こちらは元気なので、抱いた違和感について皆さんはそう思いませんかと、さらに大きな声で問いたくなる。
 
 いま行われているアジア2次予選は、グループ内のトップと下位とで、実力的に大きな開きがある。それは、世界各地で始まった2022年カタールW杯予選の中でも、一番といいたくなるほどの差だ。予選のエリアが広いアジアならではの現象になる。

 これまでの外国人監督の肩を持つわけではないが、たとえばザッケローニ、ハリルホジッチも、この概略は掴めていなかったと思われる。日本に来たばかりの外国人監督にとって、このアジアの特殊な情勢をいち早く理解することは至難の業に違いない。

 実際、彼らもこの段階から、ベストメンバーを編成して戦っている。こちらは、それを見てがっかりはしたけれど、それを持って支持する、支持しないの針が大きく振れることはなかった。恨むとすれば、的確に助言を与えることができていないように見える日本サッカー協会の方だった。

 だが、今回は森保監督だ。日本のアンダーカテゴリーの監督としてアジアを戦った経験も持ち合わせている。全体像が掴めているハズの監督だ。そのあたりの事情に詳しいから選ばれたという見方さえできる。にもかかわらず、ミャンマー戦にあのメンバーを送り込んでしまった。

 この感覚というか感性に、なによりがっかりさせられる。2022年W杯で日本がどれほどの成績を残せるのか。これは神のみぞ知るわけだが、結果はどうあれ、ミャンマー戦の戦いは汚点だ。続くモンゴル戦(10月10日)も、これと同じノリで臨んだとすれば、がっかりとか残念では済まなくなる。こうした愚が1回限りではなく、学習効果なくなぜ幾度も繰り返されるのか。日本の構造的な病巣を見る気がする。

 代表監督への信頼感は、成績を出したときより、優れた世界観の持ち主であることが判明した時の方が上昇する。サッカーは結果に運が影響する割合が3割を占める競技だ。勝利も監督の評価を上げる重要な要素になるが、それ以上に決め手になるのは、世界のスタンダードをどれほど備えているか、になる。

 世界観を養うためには、なにより歴史を学ぶ必要がある。過去に起きた事象、数多くのサンプルに采配のヒントは多く隠されている。ミャンマーやモンゴルのような弱小国と対戦する時の嗜みについても探ることはできる。世界の各地で起きた過去の戦いに答えは潜んでいる。

 こちらが最初に衝撃を受けたのは、1991年のコパアメリカ(チリ大会)だった。1991年は1990年イタリアW杯の1年後で、1994年アメリカW杯の3年前。そこでブラジル代表は準優勝に終わった。アルゼンチンに優勝を奪われ、その結果、監督のファルカンは更迭された。だが、彼はその時こう述べた。「4年サイクルで回る代表チームの1年目を意識して戦ったつもりだ」と。実際、彼はそこで多くの選手をテストしていた。マウロ・シウバ、カフー、ブランコ、リカルド・ローチャ、マルシオ・サントス、ライー、マジーニョなどなど、3年後のアメリカW杯で優勝したメンバーも数多く含まれていた。