「日本一の女ヤクザになったる」“ミナミのアコ”と呼ばれ、子分は20人以上…“壮絶すぎる幼少期”を経て、和田アキ子(76)が大御所になれた「納得の理由」〉から続く

 和田アキ子、76歳。今年3月に40年続いた長寿番組『アッコにおまかせ!』が終了し、キャリアの大きな曲がり角に立ったかのように見えた。

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 しかし、4月からスタートした街ブラ番組『アッコとジャンボ』が好評を博し、バラエティ番組での露出も増えている。TOKYO MXの入社1年目の社員が提案したYouTubeチャンネル『和田アキ子、AIスマホと親友になる。』が始動するなど、芸歴58年の大御所とは思えないフットワークで新しいチャレンジに取り組みはじめている。

 和田アキ子というタレントはどのように生まれたのだろうか。いったいどんなタレントなのだろうか。その長きにわたるキャリアを振り返りつつ考えてみたい。

「こんな体のデカい女は売れない」

 無事にデビューを果たした和田だったが、早々にいくつもの屈辱を味わうことになる。原因の一つが身長だった。

 成人男性の平均身長が160センチ台だった昭和の時代、174センチの和田はいかにも大きかった。デビュー以来、面と向かって「こんな体のデカい女は売れない」と言われ続け、カメラの前で並んだスター歌手や俳優から「そばにくるんじゃねぇよ。ちっちゃく見えるじゃねえか」と罵倒されるのも常だった。

 和田は思春期の頃から、自分の体の大きさについて悩んでいた。デートの際は背を丸め、スカートの中で膝を折り曲げながら歩いていたが、それでもからかいの声はやまなかったという。からかってきた相手は後で子分に探させて殴り倒した。そうやってケンカが強くなっていったらしい。

 デビュー後もヒールのある靴を履くことはできないから、スニーカーやローファーを履く。必然的に服装はパンツスタイルになるが、好きで着ていたわけではなかった。今でもステージでの勝負服はドレスであり、『アッコにおまかせ!』では一貫してスカート姿で通していた。


©時事通信社

思わず涙したディレクターの一言

 デビュー曲はまったく売れなかった。当時はグループ・サウンズが全盛で、前座に和田が登場すると「帰れ」「引っ込め」と野次が相次ぎ、そのたびに落ち込んでばかりいた。“ミナミのアコ”と恐れられた和田だったが、実はナイーブで落ち込みやすい性格だったのだ。

 そんな頃、新人を積極的に起用していた深夜番組『11PM』で歌うチャンスが来る。しかし、ここでも大きな屈辱を味わう。

 人気番組『11PM』に売り込んだのは、初代マネージャーの小林甫だった。スタジオに出かけた和田は、目の前にいるディレクターが何やら叫んでいるのを耳にする。

〈「おーい、小林、どこに連れてきているんだよ。歌は最高、スタイル抜群、顔ドンピシャ、っていう和田アキ子というのは」

「いや、まあまあまあ、これですよ、これ」

「これ? え? これ、ダメだよ。やばいだろう、おまえ」

和田アキ子『5年目のハイヒール』扶桑社)〉

 ディレクターの言葉を聞いた和田は、その場で涙をこぼしたが、それでも懸命に歌ってブレイクへの糸口を掴む。なお、熱心に売り込みをかけていたマネージャーの小林はその後、和田の最初の夫になった。

控室での陰湿ないじめ

 歌番組で共演する女性歌手たちからも陰湿ないじめを受けていた。控室では「あんたがいると着替えづらいのよ。出てってくんない」と言われることもあった。つまり、男扱いである。外に出ていけば自分が着替える場所がなくなるので、いつも困り果てていた。

 共演者たちに、靴に好き放題落書きされたこともある。そのような嫌がらせを受けるたびにトイレに駆け込んで大泣きした。相手を殴るのは簡単だが、それでは多くの人が困ってしまう。そもそも小柄な女性歌手など殴り殺してしまうかもしれない。和田は本気でそう思っていた。

 ギリギリの理性で我慢を重ねていた和田の味方になってくれたのは、同郷で2歳年上のいしだあゆみだけだった。和田はいしだを慕い、服装や香水など何から何まで真似したという。

美空ひばりとの意外な関係

 陰湿ないじめを受けていた和田だが、味方がいなかったわけではない。和田は大御所の懐に飛び込んでいくのが得意だった。

 特に可愛がられたのは森繁久彌である。1972年のドラマ『桃から生まれた桃太郎』で親子を演じて知り合うと、家に遊びに行く間柄になった。続けて共演した翌年のドラマ『あんたがたどこさ』では山岡久乃と知り合い、「お母ちゃん」と慕うようになった。

 美空ひばりとも仲が良かった。森昌子の結婚式の帰りにひばりの家に押しかけ、二人きりで午前4時まで飲んだこともある。すっぴんを見せ合ったり、お互いの胸をさわりあったりしたこともあったという(ひばりのほうが大きかったらしい)。淡谷のり子も和田の人間性を高く評価していた。

 こうした交友関係は、同世代のビートたけし、後輩の明石家さんま、笑福亭鶴瓶、所ジョージなどへと広がっていき、和田のその後の芸能人生を大いに彩っていく。

『うわさのチャンネル!!』豪快キャラでブレイク

 1973年、大きな飛躍のきっかけが訪れる。『金曜10時! うわさのチャンネル!!』への出演である。

 もともとは穴埋め番組だった。本来は渡辺プロ制作のバラエティ番組を放送する予定だったが、日本テレビと渡辺プロが揉めて枠が空いてしまったのだ。日テレのバラエティを統括する井原高忠の「(渡辺プロに)絶対に負けるな」「死ぬ気でやれ」という大号令のもと、型破りでエネルギッシュな番組が出来上がった。

 特に大柄な和田が共演者のせんだみつおやザ・デストロイヤー、ゲストのアイドルたちをハリセンでどつき回す様子が爆発的に受けた。コンプレックスだった身長がプラスに生きたのだ。山口百恵を10回以上プールに突き落としたこともある。逆に和田が苦手な犬をけしかけられて悲鳴をあげることもあり、これも大いに受けた。

 ついたあだ名が「ゴッド姉ちゃん」。当時、映画『ゴッドファーザー』の流行にあやかった名前だ。視聴率はうなぎのぼりで30%を突破した。

 下品、俗悪、ハレンチなど罵倒の限りを尽くされた番組だったが、和田は「あの番組がなかったら今の和田アキ子はなかった」と振り返っている(朝日新聞 2017年6月8日)。

“女性初のマルチタレント”として

 派手なバラエティもいける。ドラマで大御所相手に演じることもできる。トークも司会もできる。もちろん歌は本格派。

 かつて大橋巨泉や青島幸男がマルチタレントと呼ばれていたが、当時女性では皆無だった。「すべてをこなすのは、アキ子が初めてだろう」と小田信吾ホリプロ社長(当時)は高い評価を与えている(AERA編集部『現代の肖像』朝日ソノラマ)。

 テレビというメディアにもマッチしていた。映画にも何本か出演したが、輝いたのはテレビだった。

 筑紫哲也との対談では「テレビがこんだけ普及していなかったら、和田アキ子って存在してなかったと思う」「アッコはテレビのほうが向いてたの。映画だとつくり方があんまり繊細すぎる」とテレビの存在について何度も言及している(筑紫哲也ほか『茶の間の神様―筑紫哲也対論集』ちくま文庫)。

 和田をスカウトしたホリプロ社長の堀威夫は「昔の映画スターのように雲の上の人ではないタレントの存在の特徴を一言でいえば、それは『生の姿をさらしているスター』」と語っている(堀威夫『才能を育てる』講談社)。テレビの時代に生の姿をあけっぴろげにさらした初めての女性スターが和田アキ子だった。

月1回は救急搬送…「実はナイーブ」な素顔

 しかし、テレビで見せているのが本当の姿とは限らない。和田は「ゴッド姉ちゃん」のイメージに苦しんでいた。本当はナイーブで泣いてばかりいるのに、豪快で乱暴なイメージばかりが先行していたからだ。

 週刊誌に「若い芸能人をいじめている」と書かれると「うちはもう芸能界をやめる。誰もうちのことをわかってくれへん。うち死ぬ」と母に電話して涙を流した。このときは父から「自分の人生を粗末にしたらアカン」と留守電が入ったという。あれだけ憎悪していた父とは、この頃には和解していた。大人になって、かつての父の愛情を理解したらしい。(和田アキ子『みんな大好き』小学館)。

 本当の和田を知っている周囲の感想は、ほぼ一致していた。

 森繁久彌は「非常にデリケートな、いい女ですねぇ。泣き虫だということは人がいいんだ」と語る(『現代の肖像』)。共演が多かったせんだみつおも「実は驚くほど繊細な女性」と評していた(せんだみつお『タレント、父親、普通人 窓ぎわのコメディアンのホロリいい話』リヨン社)。山口百恵をプールに突き落とす前にも、心配して何度も確認をとっているところを目にしたという。

 胃けいれんが持病で、月に1回は救急車で運ばれていた。原因は極度の緊張とストレス。あがり症で、本番前は食事を受け付けないが、終わると安心して大酒を飲む。すると、胃に激痛が走って七転八倒することになる。

 和田が酒乱なのは確かだ。逸話は枚挙に暇がない。男子禁制・禁煙禁酒のホリプロの女子寮に男たちを連れてなだれ込み、堀ちえみや大沢逸美を叩き起こして酌をさせたこともある。懇意だったビートたけしに(物理的に)噛みついて、一時期疎遠になったこともあった。有吉弘行につけられたあだ名「リズムアンド暴力」はけっして大げさではない。

 せんだは和田の酒乱ぶりを冷静に観察していた。

〈「いろんなことに気がつく人だし、女らしい優しさもある。ただ、テレ性で、そういう自分を見せるのが恥ずかしいから、大声を出したり、豪快にお酒を飲んでみせ、男っぽい素振りをしているだけなのだ」(同前)〉

 和田は“和田アキ子”というイメージを守り続けたが、本当の自分とのギャップに苦しんでいた。前述の筑紫との対談では「家を一歩出たら、もう和田アッコですよ。いっちゃ悪いけど、素顔なんか見せたことないですもの」と語っている。

マネージャーと結婚→離婚→再婚するも…

 マネージャーの小林甫と結婚したが、すれ違いが続いて数ヶ月で離婚。人一倍さびしがりで、愛されたいと強く思っていた。どんなに忙しくても家のことは全部やった。しかし、和田が求める愛情が満たされることはなかった。離婚後はさらに酒の飲み方が荒れたという。

 78年に『うわさのチャンネル!!』を降板すると、ヒット曲から遠ざかり、79年には『NHK紅白歌合戦』にも落選した。折しも漫才ブームが吹き荒れ、歌番組は減少し、バラエティ番組からもお呼びがかからなくなった。この頃を和田アキ子の「氷河期」と表現する人もいる。

 81年、ドラマの撮影で知り合ったテレビカメラマンの飯塚浩司と再婚。しかし、さらなる大きな悲劇が和田を襲う。

〈「子供が産めなくなったら、やっぱり男だったって言われる!」結婚直後に子宮を全摘出…絶望した和田アキ子を救った「夫からのメッセージ」〉へ続く

(大山 くまお)