「先生、あとで読んでください」不倫に苦しんだ24歳女性が診察室に残したメモを精神科医がシュレッダーにかけたワケ
15歳年上の既婚上司との不倫に悩んだ挙句、心療内科を訪れた24歳の女性。診察を重ねるなかで彼女は失恋の痛手を乗り越え、元気を取り戻していく。しかし診察最終日、女性が精神科医に手渡した一枚のメモが思わぬ展開を呼ぶことに……。
【画像】『精神科医おどおど日記--閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます (日記シリーズ)』
『精神科医おどおど日記--閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます (日記シリーズ)』より一部抜粋、再構成してお届けする。
※病院名・登場人物名はすべて仮名とし、患者のエピソードについてはさまざまな症例を組み合わせ、また一部に脚色を加え、人物の特定が不可能となるように配慮しています
涙が止まらない24歳女性の悩み
24歳の森本陽菜さんは「眠れず、わけもなく涙が出てくる」という主訴で「こころのクリニック三王子」を訪れた。
髪は茶色のロングで、ゴムで束ねている。黒縁のメガネをかけ、少し緩めのパンツにTシャツという装い。眉は整えて描かれているが、化粧はしておらず、まぶたは少し腫れていた。
「今日はどうしましたか」と尋ねた途端、森本さんは涙をこぼした。黙ってティッシュボックスを差し出し、落ち着くのを待つ。
しばらくして、伏し目がちのまま、ぽつぽつと語り出した。
「こうやって急に泣けてきたり、情緒が不安定で相談に来ました。家にいても不安で落ち着かなくなったり、全然眠れなくて食欲もないんです。3キロ瘦せてしまって」
話を聞くと、どうやら心の不調のきっかけは、交際相手との関係にあるようだ。
相手は15歳上の会社の上司。入社当初から相談に乗ってくれ、いつの間にか心の拠り所となった。
「家庭がある人だからダメってわかってたんですけど、会社の1み会のあと送ってもらったらそのままホテルに誘われて……。そこからは止められなくて」
こうして上司と部下の関係に不倫という新芽が吹き、1年の月日とともに理性では抑えきれないほどの高さまで育った。
「半年くらい前から、奥さんと別れて私と再婚したいって言ってくれてたんです。『来年、娘が中学生になるからそれまで待ってほしい』って」
私には、若い彼女に責任を追及されないままフリーセックスを楽しむための時間稼ぎにしか思えない。が、もちろんそんなことは口にせず、神妙にうなずく。
「最初のころ、すごく優しかったんですよ。このネックレスは誕生日プレゼントにもらったんです」
首につけているゴールドのネックレスを愛おしそうに見つめる。微笑んでいる口元のようなデザインが、一層彼女を不憫に見せる。
「でも最近は会ってもホテルに行ってするだけになってきて……。終わったあと、彼のシワ一つないシャツを見て思うんですよね。奥さんがアイロンしてくれてるんだな、この人には帰る居場所があるんだなって」
自業自得でしょうよ。内心そう思いながらも「それはつらいですね」と眉を寄せて全力で神妙な面持ち。
「『奥さんといつ別れてくれるの?』って聞いたらはぐらかされて。そのうちLINEも既読スルーになっちゃって、先週急に部署異動の辞令が出たんです。なんか会社全体で私が邪魔モノ扱いされてるみたいで……」
上司にとってはちょうどいい頃合いだったのだろう。彼女の言い分だと「邪魔になった部下を他部署に飛ばした」という構図だが、一個人の意向で人事が決まるとも思えず、話半分に聞いておく。
初診時の聞き取りにはある程度、時間を割く。とはいえ、このあとには再診を中心に20名ほどの診察待ちがあるため、いつまででも話していられるわけではない。
1時間ほどで森本さんとの話を終える。
彼女には気分の落ち込み、不安、食欲不振、不眠の症状があったが、原因は明らかに交際相手との不和だ。
本当は薬を出したくなかったが、本人の強い希望により、少量の睡眠薬だけ処方し、2週間後の受診予約とした。
「先生、これあとで呼んでくださいね」
次の診察日、別人が現れたのかと思った。
ブローされた髪をなびかせ、化粧ノリも良く、目元は明るく印象的。短めのスカートから美脚がのぞき、診察室にふわりと広がった甘い匂いに頭がクラクラする。
そういえば首元のネックレスがない。
「すっかり元気になりました。夜も先生の薬のおかげでよく眠れてます」
表情も晴れ晴れしている。たった2週間でここまで変わるものか。
「もう不倫はやめました。あのあと、『もう別れようと思うから最後に話したい』って呼び出したんです。そしたら『妻とは別れられない。申し訳ない』って謝られました。話を聞いたら、異動はこの件とは関係なかったみたいです」
不倫で人事異動させるヤバイ会社じゃなくてよかった、と胸を撫で下ろす。
「なんか吹っ切れて、なんでこんなおじさんを相手にしてたんだろう、って思えてきて、『なかったことにしましょう』って自分から言いました。そしたらなんて言ったと思います?」
自分だったら別れの直前で手放すのが惜しくなるかも……。
「真剣だったことは信じてほしい、なんて言ってきて、『最後の思い出にホテル行こう』だって。めっちゃムカついて、奥さんにバラしてやろうかと思いました。LINEは速攻ブロックです」
そう言って、心底可笑しそうに笑う。森本さんは自分の状況をしっかり客観視できている。これならもう大丈夫そうだ。
「でも体調が良くなったのは、先生がじっくり話を聞いてくれたおかげです。心療内科には前に何度か行ったことがあったけど、こんなにちゃんと話を聞いてくれたのは先生が初めてでした」
「いえいえ、たいへんでしたね」
不調の原因が消え去った森本さんには睡眠薬も不要だ。診察は5分で終了。通院の必要もなく、終診にすることとした。
「良くなったのは本当に先生のおかげです。ありがとうございました」
そう言って立ち上がった彼女が二つ折りのメモを診察室の机に置く。
「先生、これあとで呼んでくださいね」
心臓がキュッとなったが、待たせているほかの患者がいるため、とりあえずメモを引き出しにしまって診療を続けた。
最後の患者の診察が終わり、クリニックが静まり返った中で、おもむろに森本さんからのメモを取り出す。
〔優しい先生のおかげで立ち直れそうです。お礼をさせてほしいので、お時間あるとき連絡ください〕
手紙の最後にはLINEIDと携帯番号が記載されてある。
私の胸は一気に高鳴り、すでに反応し始めた下半身をスタッフに悟られないよう白衣でそっと隠しながらLINE登録をした――なんてことは、まるでない。
“陰キャの非モテ”としては、女性からのアプローチは願ってもないことだ。
実際、精神科や心療内科のクリニックには若い女性患者が多く、非モテの私みたいなタイプでさえ森本さんのようなケースはたまにある。しかし、患者となれば話は別だ。
まず、一度、患者として対応した女性を恋愛対象として見ることができない。通院中ならなおのこと、特別な感情を抱いてしまったら冷静な判断を下せる自信がない。
次に、患者が向ける好意が本当に恋愛感情なのかという疑いがある。
精神科には「転移」という概念がある。患者が過去に自分の生活の中で重要な人に向けた感情と同じ思いを治療者に向けることをいう。
たとえば、両親に褒められずに育った自己肯定感の低い女性が、丁寧に話を聞き、些細なことを褒めてくれる精神科医に、過去の両親の姿を重ね合わせる。「もっと褒めてほしい」「この人の特別になりたい」という思いが高まって恋愛感情を抱くようになるような場合だ。
彼女のメモを、患者情報の記載がある書類とともにシュレッダーにかける。私のモテ期はわずか数秒で細切れの紙吹雪へと姿を変えた。
文/駒木 爽
『精神科医おどおど日記--閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます (日記シリーズ)』(三五館シンシャ/フォレスト出版)
駒木 爽

2026/5/21
1,540円(税込)
208ページ
ISBN: 978-4866809526
私は、関東地方Ⅹ県にある精神科救急病院で10年以上勤務している精神科医だ。
かつて外科医だったころ、精神科は死からもっとも遠い診療科だと考えていた。
いくら心を病んだとしても、それが直接心肺機能を止めることはないからだ。
しかし、それは思い違いだった。
20~30代の死因の1位は自殺だ。その大半が、自殺直前に精神科を受診すれば何かしらの診断が下る精神状態だとされる。つまり、精神科は若者の死をもっとも身近で経験する診療科なのだ。
実際に十数年に及ぶ精神科勤務の中で何名もの患者の自死に接してきた。
私の勤める精神科病院は、重症患者の入院施設を併設する。わかりやすくいえば閉鎖病棟だ。
朝から晩まで奇声をあげ続ける統合失調症の人、数十年にわたって入院し意思疎通が困難になった認知症の人、アルコール依存症、双極性障害、うつ病……ここにいるのは、いずれも重症の患者ばかりだ。
本書では、彼ら彼女らとのやりとりを中心に、精神科のきれいごとでは済まないリアルを描く。
医療現場の問題は正論だけで片付けられないし、精神疾患に無力感を突き付けられることも多い。
そこには最近流行っている精神科マンガでは語られることのない、生々しい現実がある。

