「1年目で年収1000万円」の「キャバクラの黒服」で才能が爆発…元AKB48劇場支配人が明かす「指名が絶えない嬢」と「売れるアイドル」の共通点

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2005年、秋元康氏のプロデュースにより「会いに行けるアイドル」をコンセプトとして誕生したAKB48。大規模な握手会、選抜総選挙など画期的な手法で一時代を築いたこの国民的アイドルグループの黎明期から最前線で戦い続けた男がいた。元AKB48劇場支配人・戸賀崎智信氏が初めて明かす、激動と奮闘の記録。

親から勘当され、すべてを失った戸賀崎氏は「1年目で年収1000万円」という求人情報に惹かれ、池袋のショーキャバクラで働き始める。

前編記事『悠仁さまの「筑附」を卒業後、親から勘当→池袋のキャバクラの黒服に…元AKB48劇場支配人が告白する「激動の半生」』より続く

最初の宿は“ハッテン場”

池袋西一番街のショーキャバクラ「ClubTARO」で働く新たな生活が始まった。

ちなみに、当初の住環境は最悪だった。アパートも契約できないような状況だったので、しばらくは池袋にあった24時間営業のサウナを寝床にしながら店に通うつもりだったのだが、僕は3日で音を上げた。都内でも有数のハッテン場だったらしく、男性たちから僕への視線が異様に熱かったのだ。

その後店に泣きついて入居させたもらった社員寮もすさまじくボロかった。あてがわれたワンルームは真冬なのに窓ガラスが割れていて、強烈なすきま風が遠慮なしに吹き込んでくる。初任給をもらうまで毛布を買う金すらなく、3枚のバスタオルで震えながらしのぐほかなかった。

けれど、働き始めてすぐ、僕はこの仕事をとても気に入ってしまった。評価されるのは学歴のある人間ではなく、数字を作れる人間。そこでは明確なルールが徹底されていたのだ。

“数字”がすべてのクリアな世界

そもそもClubTAROはショーキャバの老舗だ。運営元のプラザエンタープライズはこうした店舗を20店舗ほど運営していて、なかでも50〜60席のキャパシティを持っていた池袋の店は大型店に分類される。しかもかなりの繁盛店で、毎晩のように満席だった。

ここでのボーイの仕事は、一言でいえば女の子のマネジメントだ。最初の3カ月間はウェイターという立場で灰皿交換などを行う。その間は、女の子とは一言も口をきいてはいけない。挨拶すらNGだ。

簡単な昇格試験に合格すると、今度はサブマネージャーの役職が与えられる。ここで初めて担当の女の子を持ち、自らの給料も彼女らの売上によって決まるようになる。担当の売上が増えればさらにマネージャー、店長と昇格していくが、ノルマを2カ月連続で達成できないと降格。誰も文句を言えないクリアな世界だった。

僕の能力はここで花開いた、と言ってもいい。池袋店ですぐに結果を出すとすぐにマネージャーに昇格し、入店から数ヶ月で六本木の新店舗に異動。入社9カ月という異例の早さで店長までのぼり詰めた。このとき23歳だった。

センスの領域だった「つけ回し」

僕は昔から「つまり」を考える癖があった。仕組みを理解するのが得意なのだ。マネージャーとして圧倒的な成績を出すために必要なのはなにか。それは、売上を見込める女の子をできるだけ多く抱えることだ。一方、女の子は自ら担当マネージャーを選ぶ権利が与えられていて、自分の売上を伸ばしてくれそうな人間を指名する。

そこで僕が積極的に選んだのが、「つけ回し」というポジションだった。簡単に言えば、どのテーブルにどの女の子をつけるかという戦略を考える仕事だ。当然女の子としては自らの出番を決める立場の人間に価値を感じる。つまり、ツケ回しというポジションを押さえれば、売上額の大きな女の子からのマネージャー指名が入る可能性が高まり、マネージャーとして成果も上げやすくなるというわけだ。

この仕組みに気づいているマネージャーは当然ほかにもいる。だが、そう簡単にはつけ回しは務まらない。女の子をどのくらいの時間、どの組み合わせでお客につけるかによって、客単価は驚くほど変わる。あえてまったく別のタイプの女の子を途中で挟んでお客を焦らす、新たなお気に入りになりそうな子をあてがう……各テーブルの雰囲気を見極めながら戦略を練らねばならず、もはやこれはセンスの領域に近かった。

僕にはそれがあったようだ。暗記は嫌いだと言いながら、昔から物覚えがものすごく良かった。例えば、どのお客さんが何時に店に入って、女の子がどの順番で何人ついて、お客さんがどのタイミングで自分のボトルを注文したかなど、店の中で起こった1週間のあらゆる出来事をこと細かに覚えていた。だから僕はつけ回しとしてなにをすべきか、手に取るようにわかったのだ。

指名が絶えないキャバクラ嬢の条件

一方で、ショーキャバの世界に身を置くうちに、指名が絶えない女の子の共通点も見えてきた。これはAKB48のようなアイドルでもまったく同じで、単に器量が良いだけでは支持は得られない。認められたい、褒められたい、モテたい。どのお客も、いわば承認欲求を満たすために店を訪れる。その彼らが望むものをきちん提供してあげられる子だけが上のステージに進んでいくのだ。

観察力や思考の柔軟性だけでなく、嘘をつかない、挨拶をするといった誠実さや社会性も欠かせない。信頼に足る人間であるか否かは、「この子を応援したい」という気持ちに必ず関係してくる。

当たり前だが、いくらお客であろうと“商品”を傷つける行為は御法度だ。それでも女の子に入れ込み過ぎてしまうケースは決して珍しくない。女の子への行儀の悪さをボーイに注意されて喧嘩を始める人間もいれば、さらにエスカレートして女の子と刃傷沙汰を起こす人間もいる。自己承認欲求が肥大化し、自分のことしか考えなくなってしまうのだろう。

ただ、女の子への好意を逆手に取って、「そんなことしたら嫌われちゃいますよ?これまで使った時間とお金、全部無駄じゃないですか」と言うと案外効く。実はAKB48劇場の支配人時代にも、熱くなり過ぎたファンにはこの手法をよく使っていた。

ちなみに、マネージャーが店の女の子に手を出すのも厳禁。どんなに結果を出している人間だろうが、バレたらすぐに降格だ。それでもルールを守れない人間というのはけっこういるもので、ある日突然ウェイターに落ちてしまうマネージャーをこの目で何人も見てきた。

30歳でキャバクラから足を洗う

僕自身、人のことをとやかく言えるような立場だったのかというと疑問だ。六本木店の店長時代はまさしく天狗だった。店の営業時間中でも平気で飲み歩き、麻雀を打ちまくる。当時は彼女も3人くらいいたはずで、2日ごとに別の女の子の家に泊まるといっためちゃくちゃな生活を送っていた。そしたら2年もしないうちに店の売上が落ちてしまい、僕はマネージャーに降格になった。

確かにショーキャバでは多くを学び、また刺激にも満ちあふれていた。それでも一生続けたいとはどうしても思えなかった。僕は結局、30歳でこの世界から足を洗う。

もともとある人間との約束があったことも大きい。知り合いから紹介された彼は、商工ファンドで驚異的な結果を出し続ける社員として有名だった。いつしか仲良くなり、「30歳になったら一緒になにかやりましょうよ」とずっと声をかけてくれていた。それが前編の冒頭に登場した、芝くんだ。

僕らはとりあえず西麻布で指紋認証制のガールズバーを始めた。そして知り合いから北海道のモデルを売り出してほしいと言われ、芸能事務所の運営にも手を出し始める。そこで僕は芸能ビジネスの不条理を知った。新参者はキャスティング会社に「この子をお願いします」と頭を下げるしかない。その時点で圧倒的に不利なのだ。しかも、なにを基準にしてタレントを選んでいるのかさえもよく分からなかった。

そんな現実に悶々としていたときに掴んだのが、秋元先生とショークラブを運営するという大きなチャンスだった。

露出のチャンスをもらえないならば、自分たちで劇場を持ってしまえばいい。そして生のステージでアイドルをイチから養成する。多くのファンがつけば、メディアや大手事務所も無視できなくなるだろう。なにより、僕がショーキャバの世界で10年間培ってきた経験が絶対に活きると思った。

つづきは戸賀崎氏の次回の寄稿をお待ちください。

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