2度の墓じまいを経験したという、万葉集研究で知られる上野誠さん(撮影:本社・奥西義和)

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万葉集研究で知られる上野誠さんは、2度の墓じまい経験者。形を変えていった「上野家累代之墓」の歴史から見えたのは、いつの世も変わらぬ死者を思う気持ちだった(構成:篠藤ゆり 撮影:本社・奥西義和)

【写真】上野さんの祖父が建てた二階建ての「上野家累代之墓」

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母は年中墓の草むしり

福岡県朝倉市にある上野家の墓じまいをしたのは1992年、私が32歳のときです。理由は、祖父が建てたお墓を維持できなくなったから。

祖父がつくったお墓は、二階建ての大きなものでした。一階部分は後方に鉄の扉がついた納骨堂で、内部は総タイル貼り。5、6人が立ったままで入ることができる広さです。

その納骨堂の上が、墓標の立ついわゆるお墓。石段を上って、立派な石の門をくぐると、10人くらいは入れる前庭があり、左右には大理石の石灯籠が鎮座しています。

奥の石塔に彫られた「上野家累代之墓」の書は、菩提寺の宗門の管長の筆によるもの。米三十俵と高額の揮毫料を納めてお願いしたと聞いています。

お墓には、高価な石を使っていました。ですから、壊れたところを修繕しようと思っても、お金持ちでもないわれわれ子孫が払えるようなレベルではありません。しかもこれだけ広いと草取りも大変。

意を決して、母に進言すると

父の没後、母が墓守の役目を務めていました。それで年がら年中草むしりに追われていたのです。兄も母も、福岡市で暮らしていたため、車で1時間ほどかかる朝倉市に行くだけで大変でした。

私も当時、勤めていた大学のある奈良市に妻と子どもの3人で住んでいたため、盆、暮れ、春と秋のお彼岸と、年に4回もお参りするのは負担が大きい。また、よく蛇が出たので、閉口しましたよ。

父が亡くなってしばらくしてから、兄と私は意を決して、「墓じまいをして福岡市郊外の霊園に新しいお墓を買おう」と母に進言。母は反対するだろうと思いきや、意外にもすんなりと、「もう、うちにはこげな大きな墓は無理ばい。分不相応たい」と、あっさり同意してくれたのです。母も前々から、巨大なお墓をなんとかできないかと悩んでいたのでしょう。

正確な金額は覚えていませんが、墓じまいの費用は数百万円単位だったはずです。墓石は粉砕し、産業廃棄物として捨てなくてはならず、かなりの額がかかりました。お寺さんにも、それ相応のお金を納める必要がありますし、もちろん新しいお墓の購入費用もかかる。

こうして上野家の大きなお墓は、近代的な霊園の小さなものへと引っ越したわけです。

祖父の時代は

そもそも、なぜ祖父はそんな大きなお墓を建てたのか。ひとことで言うと、成功の証です。聞いたところによると、家業の呉服商を継いだ祖父は、洋品店に転業。福岡だけではなく大分や長崎、佐賀などの呉服店にも転業を説いてまわり、一括して洋服の仕入れをすることで商いを大きくしていきました。いわば仲卸業です。

洋装化が進みつつあった時代背景もあってこれが成功し、屋号を「上野デパート」に改称。地域で一番の大きな店となりました。

当時、経済力のある家では、争うように大きな墓を建てるのが流行となっていたのです。祖母が言うには、結婚や養子縁組の際は相手の家の墓を見に行き、経済力を確かめるのが当時の習わしだったとか。

祖父は、中国の霊廟文化の影響で巨大な墓が多い長崎に視察に行き、それを参考に1930年にくだんの墓を建立したと言います。

祖父が建てる前には、実は「家の墓」と呼べるようなものはありませんでした。江戸時代までは、きちんとした墓石を設けるのは、大名家くらいのもの。庶民は土葬で、目印として丸い自然石を置き、その前に竹筒を挿して花を供えるのが一般的だったのです。

栄華は露と消えて

私が研究のために調査をしていた80年代には、まだ日本全国に親族を土葬にした経験者がいました。

家族がひとつの墓に入り、次世代がその墓を受け継ぐという〈家族継承墓〉が可能になったのは、火葬が普及してから。鉄道網や道路網が発達して石材の運搬がしやすくなったこと、石の加工技術が進んだことなども関係しているでしょう。

日本の「先祖供養」の考え方と、そうした条件が合わさって、皆がこぞって家族継承墓を建てるようになったわけです。そしてある時期から、成功者たちは墓の豪華さを競うようになりました。

祖父もその例にもれず大きな墓を建てたはいいものの、興隆を極めた祖父のビジネスは、60年代に入ると徐々に下り坂に。スーパーマーケットで衣料品が扱われるようになったことで取引先が次々に廃業し、祖父は事業を縮小せざるをえませんでした。

その間、個人資産を売却していき、亡くなったときには栄華は露と消えていた。祖父の死後、父は廃業を選択し、残っていた資産を売却して従業員への退職金を払い終えると、残ったのは福岡の1店舗のみ。それが、私が生まれ育った家になります。かくして、仏壇と巨大な墓だけが残った次第です。

<後編につづく>