「早く死んでくれればいいのに」家族が手を焼く認知症、統合失調症、鬱病の症状が出た母親の"想定外の病名"【2023編集部セレクション】
■妹のヘルプ
宮畑修さん(仮名・50代・既婚)が66歳の母親介護のSOSを出すと、関西在住の妹は、「仕事を辞めて信州に来て、母親の面倒を見てもいい」と言ってくれたが、引き継ぎなどですぐには来られない。そこで妹は、母親の上の妹にあたる叔母に連絡し、自分が信州に行くまでの2週間余り、代わりに母親の面倒を見てくれるよう依頼してくれた。
やがて宮畑さんと娘は単身赴任先の東京へ帰り、再び妻ひとりに。
2010年1月中旬。宮畑さんは信州へ戻り、叔母を迎えに行った。それから約10日間、叔母は信州に滞在し、母親の話し相手や世話をしてくれた。しかし叔母は日を追うごとに疲れがにじみ出てきて、約10日後に宮畑さんの妹と交替する頃には、疲労困憊の状態だった。
仕事を辞め、関西のアパートを引き払って来てくれた妹は、母親の身の回りのことや散歩、入浴などを引き受けてくれた。
■病名がつかない
妹が来てから数日経過した1月末、妹も母親の症状に首をかしげていた。
「自分でご飯は食べられて、掃除も手伝える。自分の足でしっかり歩き、庭で犬と遊ぶ。入浴も自分でできる。パジャマも自分で着られる。本当に認知症なの?」
母親が年末に受けた検査結果は、すべて異常なしや年齢相当だった。しかし、それでも精神科の医師は、「症状から考えると、認知症でしょう」と告げ、「認知症8割、統合失調症・うつ病2割です。このままいくと、基本的生活能力が落ちていきます。介護保険を十分に利用しながら生活しましょう」とアドバイスされる。
続いて、「薬を使うと、不安・妄想は減るが、元気はなくなる。だが薬を使わないと、不安や妄想が強くなり、わがままや元気、活発さは増える。認知機能の低下は、どちらにしても進んでいく」と説明。
宮畑さんたちは本やネットなどで精神疾患について調べてみたが、母親には該当するものが多すぎてお手上げ状態。「おおむねうつ病か何かで、認知症も少しあるのではないか」と思っていた宮畑さんたちは、間違っていなかったようだ。
精神科の担当医は、「普通の認知症は、朝のほうが状態が良くて、夜になるとだんだんと不安になる」と言ったが、母親の場合は全く逆だった。だが、「認知症は本当に百人百様で、決まった形はない」とも言われ、もう少し様子を見ることに。
しかし、信州の精神科に通い続けて少しも回復の兆しはない。しびれを切らした宮畑さんは、東京で評判の高い認知症専門医に母親をみせることにした。するとその専門医だけがはっきり言った。
「これは認知症ではありません。精神科に行ったほうが良い」。宮畑さんはすぐにその医師に精神科を紹介してもらい、1カ月に1回、信州から東京まで通うことにした。
■過去10年分のカルテ
2010年4月。宮畑さんは67歳になった母親を東京の精神科に通わせながら、関西在住時代に母親がかかっていた病院から過去10年分のカルテを取り寄せていた。宮畑さんは長年母親と疎遠にしていたため、母親の通院先も病歴もどんな薬を飲んできたのかも詳しくわからないことに唇をかんだ。
5月。母親の約10年間のカルテが届き、宮畑さんは妻と妹と確認したところ、母親は、
・甲状腺機能低下症
・自律神経失調症
・不眠症
を患っていたことがわかった。このうち甲状腺機能低下症は、母親が40代の頃発症して以降、ずっと通院・服薬していることを宮畑さんも知っていた。
その後、「抑うつ神経症」の診断がつき、薬が増えている。甲状腺機能低下症が原因でホルモンバランスを崩し、うつや不眠を起こしたのかもしれない。
カルテを確認した結果、約10年間の治療で、母親が悪くなった要因は、
・同棲していた男性の介護疲れ
・処方された薬の誤用
ではないかという結論に至った。
カルテと東京の精神科医の話から判断するに、母親がおかしくなったきっかけは、「一緒に暮らしていた男性のがん判明」のようだった。
「母は、自分の母親を約20年間自宅で介護しており、一人では手に負えなくなったため、2人の妹と共に介護し、それでも在宅は難しい状態になったので、施設に入れたという経験をしています。そのため、再び自分が介護する立場になることを覚悟し、先が見えない精神的なストレスを過大に抱えていたところに高熱を出し、入院したのがとどめになったのでしょう」
宮畑さんたちは東京の精神科医に相談し、少しずつ減薬を進めた。すると徐々に母親は快活さを取り戻し、わがままが減っていった。
■3歩進んで2歩下がる
減薬によって回復の兆しが見えた母親だが、3歩進んで2歩下がるような状態。宮畑さんがいれば宮畑さんに、また妹がいれば妹に、妻がいれば妻に絡みつくようにして10分とそばから離れようとしない。口を開けば文句が多く、突然ぽつりと「死にたい」と口にするため、宮畑さんたちまで陰鬱(いんうつ)とした気持ちと重い空気に包まれるようになっていった。
「母の人相からケモノ臭が消えましたし、暴言を吐かなくなって、穏やかな時間が増えました。でも、3歩進んでも2歩下がってしまうと、一緒に住んでいる家族は絶望感を味わい、諦めに似た気持ちが芽生えてしまいます」
この頃に宮畑さんの妻がまとめた記録がある。
その中で、[特に気になること]には、
・口数が非常に少ない。(あまり言葉を発しない。質問しても返答に時間がかかる)
・不安を訴える(怖い・寒い・暗い)。一人でいられる時間は約10分程度
・何をしたら良いのかわからないのだが、用事(掃除など)を頼むと文句が出る。
・自分のわがままが通る人の前では突然、重病人に変身する。それがうまくいかないと、かんしゃくを起こし独り言がはじまる。
・食事に対してわがままが多い(ミキサー食に近いものを要求するが、実際にはかめる。辛い・甘い・固い・食べられないとよく発言する)
・文句を言う割に食べる
・日付が分からない、漢字が書けない、洋服の着方が分からなくなるなど、認知症の症状は急速に進行しているが、単なる認知症とは思えない
・被害妄想が非常に強く、マイナス思考
とあった。
■家出なのか徘徊なのか
同じ頃、母親はデイサービスに通い始めていた。調子が良い日と悪い日を繰り返しながら、それでも良い日のほうが増えてきたように感じていた5月上旬。突然母親が荷造りをし、家出を繰り返すように。
「私の家はここだけど、みんなに迷惑かけてるから出て行った方がいい」「こんな姿(紙おむつ)になって、情けない」
そう言って荷造りをする。
その度に妻や妹が、「どこにも行かないで」「迷惑じゃないよ」「紙おむつやめてもいいよ」となだめ、荷造りした荷物を片付けるが、それでも母親は家出を繰り返した。
さらに、義母は幻聴が聞こえるようなことを言い出した。
「みんなが、おかしな人や、かわいそうな人やって言うんや。あの人は変な人なんやって、言うんや」
「誰が?」と問うと、「わからへん。後ろの方から。でも言うんや」。
2010年6月。母親が度々デイサービスを脱走。その度に職員たちは母親を探しててんてこ舞い。やがて母親は、デイサービスから受け入れを拒否されるようになってしまう。さらに母親は、妻にはわがままを言うが、宮畑さんの前では猫をかぶるように。
宮畑さんの妻は、介護疲れのせいか情緒不安定になることが出てきたため、宮畑さんと相談し、母親をショートステイに預け、その間に宮畑さんはしばらく妻を東京の家に行かせ、自分が信州で母親の介護をすることを決断。
妻と母親を離れさせてから数週間が経った6月末頃、妻は声が出なくなってしまった。心療内科にかかると、おそらくストレスによる失語症だと言われたが、2週間ほどで妻は声を取り戻した。
そして妻は信州に戻り、母親との同居を再開。ところが8月下旬のある晩。あろうことか母親は、「あんたとは合わないんや。ここはお兄ちゃんの家なんやから出ていったら?」と妻に言い放つ。
絶句して立ち尽くす妻を前に母親は、「じゃあ、私が居候やいうことか?」と迫る。
9月になると、8月にいったん戦線離脱していた妹が、妻のピンチを察して再び手伝いに来てくれた。
しかし2011年1月下旬。ついに妻がギブアップを宣言。宮畑さんたちは話し合った結果、母親は宮畑さんの東京の家で暮らすことになった。妹も東京に移動し、時々ショートステイを利用しながら、きょうだい2人で介護する。
2011年2月。認知症専門医を受診。ひととおり母親と話をした専門医は、「認知の低下は認められず、認知症ではないと思います。近くに良い精神科があるので紹介しましょうか?」と言った。宮畑さんはすぐにお願いした。
東京で仕事をしながら、妹と2人で母親を介護する生活に限界を感じていた宮畑さんは、新しい精神科に通いながら、介護施設の見学を妻と母親との3人で始めた。
4月。信州にある認知症専門のグループホームに入所。宮畑さんはいつグループホームの退所を迫られても良いように、精神病院や有料老人ホームの見学を進めた。
■精神科“卒業”から約5年後
グループホームが合わなかったため、その約3カ月後に有料老人ホームに移った母親は、環境が合っていたのか、だんだん“普通の人”に戻っていった。
そして2012年4月。精神科医には、「もう服薬も通院もしなくていいと思います。何かあったらまた来てください」と言われ、内科医には、「持病の甲状腺機能低下症ですが、甲状腺ホルモンの検査値がようやく正常値に落ち着き、数カ月安定しているのでもう来なくても大丈夫でしょう」と言われた。
それから約5年後の2017年1月。
宮畑さんが74歳になった母親の施設を訪問したとき、母親の言動に、まるで2009年12月に戻ったかのような違和感を覚えた。施設長に聞いてみると、「数週間前からおかしな言動が増えた」と言う。宮畑さんは「なぜ家族に連絡してくれなかったのか」と憤慨すると、「ケアマネジャーには伝えた」と言われる。
近所に新しくできた精神科に連れていき、検査を受けると、母親は「自閉スペクトラム症とADHD」と診断。医師の説明を受けた宮畑さんは、「ADHDの多動性、衝動性、不注意については、母に思い切り当てはまる」と思い、腑に落ちる感覚を覚えた。
医師は、「うつ病や統合失調症などと誤診され、さまざまな精神薬を投与されることもある」と説明。宮畑さんがこれまでの経緯を話すと医師は、「精神薬の減薬に取り組んだのは正しい判断だったと思います」と言った。
「認知症疑い」や「社会不安障害」「うつ病」「統合失調症」と言われてきたが、宮畑さんは、ようやく母親に納得のいく病名がついたことに安堵した。
■もう誰も泣けない
2011年の夏ごろから約10年間、都内の有料老人ホームに入所していたが、せん妄の激化と母親自身の貯金を使い果たし、経済的にこれ以上入所し続けることが難しくなったため、2021年11月に退所。再び信州の宮畑さんの家での在宅介護に切り替えた。
信州に移った母親は、2009年の年末の時より症状が悪化しているように思えた。食べた直後から「ご飯はまだか?」と言ったり、夜中に起きてきて食事を催促したりするだけでなく、せん妄で一晩中のたうち回ったり、突如立てなくなったり、時には脱糞してしまうこともあり、宮畑さんと妻は「このまま死んでしまうのではないか?」と心配するほどだった。
しばらく信州で宮畑さん夫婦は在宅介護を続けたが、手に負えない状況を心配した宮畑さんの妹が、「うちでしばらく預かろうか?」と申し出てくれたため、2022年4月に母親(79歳)は関西の妹の家へ移った。
これまで母親は、宮畑さんがいないと妻を介護職員扱いし、「早くおむつを替えてよ」などと言っていたにもかかわらず、関西へ向かう車の中で突然、「すごく感謝してる。本当によくできた奥さんだと思う」と妻に向かって頭を、宮畑さんは、「多重人格者か」と思った。
「もしも私がサラリーマンだったら、2009年の12月に、即施設に入れたと思います。施設は病院ではないから、良くしようとは思わない。冷たい言い方かもしれませんが、下手に治そうとしなければ、母はもっと早く死ねたのかもしれないと思います」
宮畑さんは言葉を選びながらも苦悩の表情で言った。
「長生きされて誰が困るって、介護している家族です。正直うちは裕福な家庭ではない。だから必ず犠牲が出ます。私は犠牲になる覚悟をしましたが、一家の大黒柱である私は働かなくてはならない。それで犠牲を負ったのは妻です。失語症になるまで一生懸命やってくれて、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
母親は40代で甲状腺機能低下症を患った。宮畑さんは、「薬がなければその時亡くなっていた」と続ける。
「あのとき亡くなっていたら、私は泣けました。今じゃたぶん、誰も泣けません。約5年前、母は一度回復した時に、『楽しい人生だった、これ以上誰にも迷惑を掛けたくない。いつ死んでもいい』と言っていましたが、今はコロッと変わって、『長生きしたい』と言っています。『何を楽しみに?』と聞くと、しばらくぼーっとして、『何も』と答えます。生きるために生きているんです。食べることだけはキッチリしていて、時間になると鳩時計みたいに食事を待っています。家族が『やっと死んでくれた』と思うまで生きるのって、どうなんだろうと思います」
■妹がギブアップしたら「自分が引き取るしかない」
筆者は、宮畑さん兄妹が助け合って母親を介護する様子から、きょうだい仲が悪いとは思えなかった。だが、宮畑さんは首を振る。
「父をがんで亡くしたとき、私は14歳。弟は10歳、妹は8歳でした。私は父親代わりをすることなくさっさと上京し、弟とは10年以上音信不通。妹も私のことを良く思っていないと思います。現在は、妹が母を介護してくれていますが、いつまでもつかわかりません」
いつか妹がギブアップしたら、「自分が引き取るしかない」と重々しく言う宮畑さん。
「そのとき問題になるのは妻です。『もういい加減にして!』と言って出て行かれても仕方がない。それでも一緒にいてくれるなら、何か方法を考えなくてはならない」と話す。
「未来はわからない。その前に母は死んでくれるかもしれない。正直みんな望んでいると思います。親不孝だし、縁起でもないことを考えていることはわかっています。けれどみんな、『迷惑だな、早く死んでくれればいいのにな』という気持ちが心のどこかにあるはず。もう私は、母を親とは思っていません。そうでないとこちらがおかしくなるから。妻が失語症になったのは、私の親だから大切にしなきゃと思ってくれたからだと思うのです。妻には本当に悪いことをしました。反省しています」
宮畑さんは、妻との「報・連・相」を欠かさず、逐一相談しながら介護をしてきた。妹がヘルプで来たときには、3人で毎晩のように、母親の食事や薬、行動についてなど報告しあい、家族会議をした。
「一人で介護している人はすごいと思います。わが家はほぼ3人でしたが、今思うと、いかに最初に冷静に考えることが大切かを思い知ります。私が介護を経験して気付いたことは、慌てないで勉強することの重要さです。家族に介護が必要になったとき、本当に改善することがいいことなのかを考えること。そして、離れていても、親のことをもっと観察しておくべきだったということです。たまにしか会わなくても、電話でもネットでもいい。よく親を観察していれば、いつもと違うことにもっと早く気付けたと思うのです。私はあたふたして、へとへとになって、無駄なお金を使ってしまいました。最初の半年くらい十分に考える時間を取って、介護の方向性を定めるべきでした」
親の介護は、兆しに気付くに越したことはないが、気付けずに突然始まることも少なくない。多くの人は突然のことには慌ててしまうもの。ましてや未経験のことにはなおさらだ。
だからせめて、親が高齢になったら月に一度でも2週に一度でも定期的に連絡を取り、口調や話題に変化がないかに気を配りたい。それが現在の自分の生活や、大切な人を守る備えとなる。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)