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●人生で初めての大博打

フジテレビで32年にわたって活躍してきた笠井信輔アナウンサーが、9月末で同局を退社し、フリーアナウンサーとして始動した。あと4年で定年というこのタイミングでフリーという選択を決断した背景には、テレビ画面越しでは見えないさまざまな思いがあったのだという。

そんな笠井アナにインタビューし、フジ時代の思い出や、20年出演した『とくダネ!』最後の出演での涙の裏話、そして今後への意気込みなど、たっぷり話を聞いた――。

○■このまま黙って見てていいのか…

――あらためて、フジテレビを退社してフリーになると決意した理由はなんでしょうか?

『とくダネ!』という番組を20年担当してきたんですが、1つの番組を20年担当してるアナウンサーって、他には『めざましテレビ』の軽部(真一)さんくらいで、他局にもいない非常に珍しい存在なんですね。その中で小倉(智昭)さんとずっと一緒にやってきた自分の役割というのが、この番組の中で果たせてきたなという感覚になったんです。『とくダネ!』の中で、自分は災害報道を中心に、事件・事故も担当してきましたけど、スタジオでは小倉さんと意見が対立することもあって、視聴者の方にはよく「仲良くやってください」なんて言われました(笑)。でも、そうやって20年もやっていると慣れてきてしまうのもありますし、当然パターン化しますよね。

一方で、新作の映画は年間150本、演劇も100本くらい見て、誰にも負けない量を観ていると自負していて、特別な俳優さんにインタビューを取りたいとなったら自分が連絡をすることもありますし、西城秀樹さんをはじめ懇意にしていた方が亡くなったらいろいろ情報が入ってくるのでそれを伝えたりしていました。ほかにも東京国際映画祭のオープニングセレモニーや、キネマ旬報ベストテンの表彰式で司会もやっているんですが、『とくダネ!』ではここ数年くらい、エンタメのニュースをほとんど、全くやらなくなったんです。芸能ニュースを取り上げるのはスキャンダルだけで、そうするとこの番組の中で私自身が活躍できるテリトリーがすごく少なくなっていた。そんな状況の中で、『とくダネ!』の枠から出るとしたら、それは20年やってる人間からするとフジテレビを辞める覚悟がないとできないことなんです。56歳になって「違う番組につけてくれ」なんて言えないし、もう管理職になるしかないんですね。

――でも、長年携わった『とくダネ!』からは離れがたかったのでは?

そうですね。続けられるのであれば続けたいという思いもあったけど、自分自身を活性化させるために、必要とされる場所に行くためには、『とくダネ!』に連綿としがみついていてはいけないと思ったんです。正直言って、収入も下がるだろうなと思ってるんですよ。すでに大きな番組のMCが決まってて、そこに移籍するわけではないので、ものすごい挑戦になるんです。自分はギャンブルが苦手で、パチンコだって1,000円投入するのにドキドキするくらい(笑)。あと4年勤め上げれば定年を迎えますが、自分の力を発揮できる部分がどんどん細くなっていくのを、このまま黙って見てていいのか…という思いがあって出ようと決めました。

○■ワイドショーの上層部を敵に回した

――人生で初めての大博打となるんですね。

そうです。でも、厳密に言うと2回目ですね。若いときにリポーターからメインキャスターになった情報番組があったんですけど、番組トップの人が「笠井はリポーターに戻す」と言ってきたので、「同じ番組でキャスターからリポーターに戻るなんて自分のプライドが許さないからクビにしてくれ」とお願いしたんです。でも、「これは人事で、やりたい・やりたくないの話じゃないから従え」と言われて、それでも「私は従いません」って反抗したら、偉い人をみんな敵に回しちゃって、「じゃあお前はもうワイドショーでは使わない」と通告されて。でも、ここで頭を下げたらカッコ悪いと思って「分かりました」と受け入れたんですよ。とは言うものの、そのとき私は10年ワイドショーをやっていて、自分はどうなるんだろう…と不安に思っていたら、報道のスタッフが「現地レポーターがいないからやってくれ」と拾ってくれたんです。

――助けてくれる人がいたんですね。

今で言う「フィールドキャスター」という役割ですね。すると、ペルーの日本大使公邸占拠事件(96年12月〜97年4月)が起きて、1〜2カ月現地に行って、毎日リポートを送っていたんですが、2月の頭くらいに「日本に帰ってこい」と言われたんです。でも、「まだ何十人も人質がいるのに帰れません。解決するまでここにいます」って言ったら、「次の夕方のニュースのメインキャスターになるんだ」って言われて! 当時、キャスターができるのは、私の上に須田(哲夫)さん、山中(秀樹)さん、川端(健嗣)さんがいて、それまでやっていた露木(茂)さんから3人を飛ばして私なんて「無理ですよ!」って言ったんですけど、とにかく帰ってこいということでメインキャスターになりました。

――大博打が結果として大当たりになったんですね。

私の持論の中に、「人間にはプラスの縁とマイナスの縁がある」というのがあるんです。これは、東日本大震災で1カ月にわたって現地取材したことで学んだことなんですが、被災地に発災2日目に入った当初は、インタビューすると「お父さんが亡くなった」とか「友達が亡くなった」とか、皆さん人との縁が切れたことばかり話していたんですね。ところが、1カ月くらい経つ頃から、「避難所であの人に会えた」とか「入院したらボランティアの人に会えた」とか、新たな出会いの話をする人が増えてきて、そういう話を強くする人から新しく歩み始めていたんです。

ほかに置き換えると、自分が第一志望の会社や学校に落ちて、実際に入った会社や学校でできた縁がダメなんてことはないじゃないですか。その中で良縁があって結婚する人だっている。落ちたからこそ出会えた、つまり「マイナスの縁」なんです。マイナスのことが起きたときに、そこでダメだと思わずに、そのフィールドで次のことをやり始めたら絶対に先があるというのを、東日本大震災の取材で強く学んだんです。我々取材陣も「マイナスの縁」。大変なのに「笠井さん、寄ってきなよ」って声をかけてくれる人は、求心力が強くて復興の中心メンバーになっていくんですよ。

そんな経験や、ワイドショー番組のスタッフを怒らせてまで番組を蹴って報道に移った縁で帯番組のメインキャスターという役割をやらせてもらった体験があるので、次のステージに不安があっても、自分がここだと思ったらもう行くしかないなという気持ちなんです。これからプラスの縁で、ものすごい大きな仕事ばかり得るようになって大成功するかもしれないし、思うように行かず「笠井さん、仕事ないならこっちをやってみなよ」みたいに拾ってくれる仕事をたくさんやるようになるかもしれない。でも、私はどちらの縁も大事にしていけば、その次があると今思えるんです。

●銃をこめかみに当てられたアナウンサー

――フジテレビ時代で印象に残っている仕事はなんでしょうか?

先ほど言ったペルーの日本大使公邸占拠事件は、ペルー軍とテロ集団のMRTA(トゥパク・アマル革命運動)が銃撃戦を行うときに現地リポートをしていました。銃撃戦が始まると防弾チョッキを着てリポートしていたんです。ただ、ずっと同じことの繰り返しだから、1カ月くらい経ったところで、スクープを上げようという機運が生まれてくるんです。そこからいろいろツテを使って、MRTAの本拠地でインタビューが撮れることになったんですよ。

それでジャングルの奥地まで車で6時間かけて行くんですが、報道陣がそこを走るのは危険だということで、観光ツアーを装っていたんですね。でも、ペルー軍の検問に引っかかって麻薬の密売をやってると思われたのか、車を停められて窓から少年兵がライフルの引き金に指をかけて銃口をむけてきたんです! その間に荷物をチェックされて、報道の大きなカメラを見つけた兵士が大きな声を出したら、もうこめかみにライフルをグッと当てられて、「絶対死ぬ!」と思いましたよ! 今そんな取材をしたらコンプライアンスで許されないし、やりません。偉い人のクビが飛びますから。でも昔はずいぶんムチャをやりました。実弾の入った銃をこめかみに当てられたアナウンサーは、ほかにいないでしょうね(笑)

――それはアナウンサーではなく、戦場カメラマンや従軍記者のエピソードですよ!

あとはやっぱり東日本大震災も忘れられないですね。死者・行方不明者2万人という現場で、1つ1つの別れや、行方不明の方を捜そうという思いを日々感じながら取材しました。実は、阪神大震災のときも初日から現地で取材したんですけど、両方の震災を経験しているアナウンサーはあまりいないんです。16年経ってみんな偉くなっちゃうと、こういう取材は若い者を行かせるというものなので。でも、私は阪神のときにとても苦労したので、若い連中だけでは対応できないだろうと思って「行かせてくれ」と志願しました。そこで取材して得たこと、体験したことは、自分の人生の中でとても大きなことで、いまだに東日本の被災地の方とは5〜6人お付き合いして、遊びに行ったり泊めてもらったりしていますから。

――まさに「マイナスの縁」ですね。

そうですね。ほかにも、アメリカのオバマ大統領の最初の勝利宣言は印象深いです。20〜30万の人が集まってたんですけど、忘れられないのは報道陣のカメラマンが泣きながら演説を撮ってるんですよ。こんな風に政治に真剣に向き合えるアメリカっていう国は、やっぱり熱いなと心を打たれました。オリンピックもソルトレイクシティに行って、目の前で見るのは本当に素晴らしいなと思ったので、来年の東京オリンピックがまさにお台場を中心に行われるから、フリーになるのを来年まで待つか…という思いもありました(笑)。あとは地下鉄サリン事件も、発生の1時間後には築地の現場に行って、十数時間中継しましたし、あの年は松本智津夫(オウム真理教・麻原彰晃元死刑囚)逮捕のときも、ヘリコプターで7時間くらい飛んでました。アメリカ同時多発テロ事件も一番機で現地に行きましたし、そういう重大なニュースの現場をリポートすることができたんです。

――平成の重大な事件や災害は全部行ってますね!

だからフジテレビには本当に感謝しています。でもキャリアを重ねるにつれて、役割は変わっていくもので、「笠井君が行くのはいいけど、後輩に譲って遠慮してみたら?」って先輩から忠告されたり、妻からも「いい加減、譲ったらどう?」ってよく言われましたね。でも、自分は本当に管理職の仕事が苦手なので、そんなことからもフリーになるのを考えました。

――事件や災害報道以外にも、公私ともにお付き合いされていた西城秀樹さんとの出会いと別れというのは、大きな出来事だったのではないでしょうか。

大きかったですね。秀樹さんの番組(『TVクルーズ となりのパパイヤ』)に初めてリポーターとしてついたのが交流の始まりでした。「笠井君、飲みに行かない?」って誘ってくれて2人で飲みに行ったりしたんですけど、自分は『ザ・ベストテン』とかを見ていた世代だから、「西城秀樹と2人で飲んでるよー! いいのかぁ!?」って心の中では呼び捨てでしたよ(笑)。でも、すごく良くしてくれて、それから家族ぐるみのお付き合いになって。ああいう形で亡くなられたのは本当に残念でしたけど、いまだに秀樹さんのファンからは、私に宛てて「節目なのでフジテレビで特番やるように言ってください」とか、熱心な手紙が来ますからね。アナウンサーになっていなかったらあり得ない方々との親交も、本当に貴重な経験ですよね。

○■調子の悪いフジを見限るのではない

――もともとアナウンサーを志望するきかっけは何だったのですか?

小さい頃からしゃべることが好きだったんです。地域の青少年施設のお祭りで野外ステージの司会を子供にやらせようということになって、小学4年生の私がやったんですけど、これがですね…大ウケだったんですよ(笑)。自分の声でみんなが笑ってくれるんだという、喜びみたいなものをそこでつかんで、学校でもどこでも「司会をやる人〜」ってなったら全部手を挙げるようになりました。一番ウケたのは、高校のクイズイベントの司会を2年にわたってやったんですけど、それが大人気で(笑)。私が司会をすると人があふれんばかりに人が集まってきて、大賑わいだったんですよ。そのときに「司会でこんなに褒めてくれるんだったら、やっぱり仕事にしたい」と思ってアナウンサーを目指しました。

――そういう経験から、やっぱりずっと現場でという思いが強いんですね。

もちろんそうですよ! マイクを持ってしゃべってナンボという人生なので、人を育てたいというより、自分のことのほうが大事っていう気持ちなんです。それじゃあ管理職になれないですよね(笑)

――入社された87年は、フジテレビ絶頂期の頃ですが、やはり第一志望だったんですか?

私は日本テレビが第一志望で、テレビ朝日が第二志望だったんですけど、どっちも落ちて第三志望のフジテレビに拾ってもらったんです。ところがみんなには「フジテレビで良かったね。笠井みたいな性格は、他局では合わなかったよ」って言われました(笑)

――そうなんですか!?

日テレとかテレ朝とかTBSに対して、フジテレビはサークル的アナウンス室なんですよ。つまり、鍛える場ではなく、みんなが番組で戦って帰ってきたときの癒やしの場。そしてまた次の戦いの場に送り出していくという文化が、いまだに脈々と受け継がれているんです。本当に居心地が良いから、みんな辞めない(笑)。だから本当にいい会社なんですよ。たしかに、番組の視聴率が良くないとかいう話はあるけども、フジテレビが調子悪いから見限って辞めるなんて話じゃないんです。最近はまた復調気味ですから、もしそれが理由で辞めるんだったらもっと前ですよ(笑)

●最後の『とくダネ!』で涙の理由

――最初に退社を相談したのは、小倉さんですか?

そうですね。去年の6月くらいにお話ししたんですが、小倉さんに「応援するから、その決断は間違ってない」と言われたことも大きかったですね。妻にも話したんですが、小倉さんと同じことを言ったんですよ。それは「5年遅い」って。5年前は50歳くらいでしたが、その頃は『とくダネ!』でもガンガンやってましたし、辞めようなんてこれっぽっちも思わなかったんですけど、「そんな時こそ勝機がある」って言うんですよ。でも、自分は“長いものには巻かれろ”タイプの人間だから、何も思わなかったんです(笑)

――小倉さんや奥さまの声が、決断を後押ししたんですね。

実は、山下達郎さんにも後押ししてもらってるんです。高校時代から大好きで毎年、達郎さんのコンサートに行ってるんですけど、去年のコンサートのMCで、達郎さんが「若い頃からやっていた全国ツアーを一度やめたんだけど、55歳のときに一念発起して再開したら、そこからまた新しい自分の人生の歩みになった」と言ってたんですね。私はちょうど55歳だったので、「やっぱりそうなのかぁ、辞めるかなぁ」って(笑)。さらに同じ頃、『SPA!』で“55歳の決断”みたいな見出しの特集記事もあって(笑)

――もうこれは運命ですね(笑)

そういういくつかのことが重なって小倉さんに相談したんですけど、私としてはずっと小倉さんのもとでお世話になってやってきたので、会社を辞めるからといって小倉さんからも離れるのは寂しい思いがあったんですね。そしたら小倉さんが、自分の所属する事務所に相談してくれて、社長さんがもう喜んで「来てくれ!」って言ってくれたのも大きかったです。自分をこうやって求めてくれる人がいるんだというのが分かって、フリーになる決断ができましたね。

――それでも、『とくダネ!』まで卒業したのは、あらためて大きな決断でしたよね。

『とくダネ!』はフリーになっても続けられるかな…という思いもあって、本当に最後まで悩んだんですけど、自分がこの組織の中で危機感を覚えて辞めるわけだから、「『とくダネ!』は続けます」だったらフリーになる必要がなくなってくるし、何より覚悟というものが見えない。たしかに、地上波の帯番組でレギュラーを持ってるっていうのは、タレントの価値としてとてもとても大事なことなんですが、私の方から「降ろさせてください」とお願いしました。

――退路を断つ、と。

そうそう、全くその通り。小倉さんは「もし笠井が続けたいんだったら、俺がなんとかしてやってもいいぞ」と言ってくれたんですけどね。あの人はテレビでは意地悪そうに見えるけど、本当は心優しいおじさんなのよ!(笑)

――『とくダネ!』最後の出演では、思わず涙ぐんでいましたね。

原因は、小倉さんです(笑)。打ち合わせのときは、「笠井君が泣かない!って主張するときは、必ず泣いてるから」って周りを笑わせていましたが、いざ、本番の花束贈呈のときになったら、最初に小倉さんが涙ぐみ始めたんです。とても珍しく、私もスタッフも誰も予想していなかった展開で、心動かされてしまいました。20年お世話になった番組を去るのって、自分から決めたこととはいえ、やはりつらいものがありましたから。ただ、いつもなら泣き崩れるところ、今回はこらえて立て直しました。56歳退社で、ビービー泣いていたら、まじめに恥ずかしいですからね。家族には「よく耐えました」と褒められましたよ。

○■親友・軽部アナとは“死ぬまでコンビ”

―― 一方で、軽部アナとエンタメの話題をトークする『男おばさん!!』(CS・フジテレビTWO)は続投になりますね。

退社することは、小倉さん以外だと、軽部さんだけに相談したんですが、まず「『男おばさん!!』はどうするの!?」って言われましたから(笑)。もう19年やってるんですけど、自分の中でライフワークになっている重要な番組なので、フリーになっても続けたいということをお願いしました。1人がフリーになって、1人が局アナというコンビになるから、いろんな難しい交渉やハードルがあったと思いますけど、それを乗り越えて継続が決まったんです。軽部さんは会社の先輩であり親友でもあって、このコンビネーションはやっぱり崩してはいけない、崩れるときはどっちかが死ぬときだと思ってるくらいなので。

――やはり、得意分野の映画・演劇関連の仕事を今後の1つの柱として考える中で、『男おばさん!!』はベースになっていくんですか?

当然そうなりますね。そんな中で、東京国際映画祭のオープニングセレモニーの総合司会をここ3年連続でやらせてもらっているんですが、フリー宣言したので、今年もオファーが来るかどうか…って思ってたんですけど、無事お話が来たので良かったです。でも、これからはイベントや番組のゲスト、あるいは講演など、どんなことでもやっていこうと思っています。情報番組・報道番組の世界でずっとやってきて、実はバラエティはそんなに経験がないので、オファーが来たら当然喜んでやろうと思いますし、いろんなことにチャレンジしていきたい。

――金曜日にレギュラー出演していた『バイキング』はニュースを取り扱う番組ですが、スタッフはバラエティ番組を作る第二制作室なので、空気感など体感できたのではないでしょうか。

『バイキング』を最後にできたのは、面白かったですね。バラエティ的な感覚のトークが展開されるので、坂上(忍)さんを見ながら「あぁ、こうやるんだ」みたいな勉強もできました。みんな坂上さんの巧みな話術に「そうですね」って持っていかれてしまいますけど、自分はチャンスがあればツッコんでいこうというスタンスでやっていたので、ライオンコーナーの金曜日だけは、ちょっと違うテイストが出せたかなと思ってます(笑)

○■パンツ一丁で踊るオファーが来たら…

――フジテレビ時代にも、『ちびまる子ちゃん』の実写版ドラマや、映画『ゴジラ』シリーズに出演されていましたが、映画や演劇のキャストという挑戦はいかがですか?

それは声がかかればチャレンジしたいです。局アナでやっているときはどうしても制約があったので。俳優になりたいわけではないですが、「ウエルカムでやりますよ!」っていう感じですね。

――女性では八木亜希子さんを筆頭に、加藤綾子さんや田中みな実さんなど、フリーになったアナウンサーの皆さんが次々に役者業に挑んでいますよね。

八木が一番びっくりですよ! どちらかと言うと「そんなに一生懸命働きたくなーい」っていう感じでしたから(笑)。早稲田のミュージカル研究会だから舞台に立つ素地はあったんだろうけど、そこの才能に気づく人がいるんだなあと思いましたね。自分も「笠井信輔」というもので何かいろんなことを試してもらえたらいいなと思います。「もう56歳なのでそんなことはいたしません」ってならないとは言い切れないけど、気概としてはそうなんです。ただ、「日テレの大みそかの『笑ってはいけない』でパンツ一丁で踊ってくれ」って言われたら、そこはすごく悩むわけですよ。あれはたしかにオイシイですけどね(笑)

――視聴率も高いからみんな見てますし(笑)

フリーになると、そういったいろんな選択があるんでしょうね。それでうまくいけば次があるだろうし、テレビの視聴者やラジオの聴取者、あるいはイベントの観客やプロデューサーがどういう部分を見てくれるのかを意識しながら、自分の力やパフォーマンスを発揮できるような形でやっていきたいと思います。

先日、今年の山下達郎さんのコンサートがあって、楽屋あいさつに行って「去年の話を聞いて、背中を押された気がしたんです」って言ったら、達郎さんに「そういう歳だよね。収入倍増だね!」って言われて(笑)。「そんな簡単じゃないですよ!」ってツッコミを入れたら、「大丈夫大丈夫」って言ってくれたので、その言葉を糧に支えにやっていくしかないなと、毎日達郎さんの歌を聴きながら思っています(笑)

――退社して早速、元同僚の宮瀬茉祐子アナが出演するTOKYO MXの『モーニングCROSS』でフジ他局初出演を果たされましたが、今後決まっている出演予定を教えてください。

5日にTBSラジオの『ナイツのちゃきちゃき大放送』に、7日に文化放送の『くにまるジャパン 極』、10日にニッポン放送で安東弘樹君の『DAYS』、15日にAbemaTVの『AbemaPrime』に出ます。ナイツさんのラジオは芸人さんとの共演なので、勝負ですね。でも、あまりシャカリキになりすぎると、年甲斐もなく…と思われるなあとか考えて、どういう立ち回りがいいのか、自分の中でもまだ決まってないです。安東君もTBSを辞めてから頑張ってるなと思うので、フリーアナウンサーの先輩に秘けつを聞いてみたいですね。

笠井信輔1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学卒業後、87年フジテレビジョンに入社し、『おはよう!ナイスデイ』『タイム3』『今夜は好奇心!』『THE WEEK』『FNNニュース555ザ・ヒューマン』『とくダネ!』『男おばさん!!』『バイキング』など、報道・情報番組を中心に担当。19年9月で同局を退社し、フリーアナウンサーとして活動する。