鳥栖の新監督に就任することが決定的なフェリックス・マガト氏。選手としても指導者としても輝かしいキャリアを持つ人物だ。(C) Getty Images

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 サガン鳥栖の新監督就任が内定している62歳のドイツ人指導者、フェリックス・マガトが12月8日に来日した。
 
 古巣シュツットガルトの監督就任も噂されていたが、そのシュツットガルトの関係者によれば、ロビン・ドゥットSDを筆頭とする反対派の抵抗に遭ったという。鳥栖でどれほどの権限が与えられるか定かではない。ただ、GM(ゼネラルマネジャー)職を兼ねるのがマガトのスタンダード。それをドゥットが承服しなかったのだろう。
 
 とはいえマガトの招聘に動いていた幹部が存在したのは確か。低迷するチームを立て直そうと、背に腹は代えられない思いで、ひと癖もふた癖もある彼に接触を図っていたようだ。実際、マガトは来日の2日前、メルセデスベンツ・アレーナ(シュツットガルトのホームスタジアム)のVIPルームで目撃されている。
 
 鳥栖が招聘まで漕ぎ着けた経緯は、遅かれ早かれ明らかになるはずだ。いずれにしても、フルアムの監督職を追われた14年9月以降は解説業に精を出していたマガトが、現役指導者のビッグネームである事実に疑いの余地はない。
 
 そのキャリアを振り返れば、攻撃的MFとして鳴らした現役時代はハンブルクの中心選手として活躍。82-83シーズンのチャンピオンズ・カップ制覇の原動力となり、クラブに黄金期をもたらした。西ドイツ代表の一員として、80年の欧州制覇も経験している。
 
 ドイツ屈指の指導者と称えられるようになったのは、2001〜04年に監督を務めていたシュツットガルト時代。フィリップ・ラームやケビン・クラーニィ、ティモ・ヒルデブラントら、のちにドイツ代表まで上り詰める若手を鍛え上げながら、悩める名門を真の強豪へと復活させた。その後、バイエルンで二度、ヴォルフスブルクで一度、ブンデスリーガ制覇を成し遂げている。
 
 マガトの代名詞は苛烈を極めるトレーニングだ。その詳細はすでに語り尽くされた感があるが、シュツットガルトでの語り草はあまり知られていない。それは“リュックサック事件”だ。朝のトレーニングの準備をすべく、選手たちがロッカールームに足を踏み入れると、机の上に複数のリュックサックが置かれていた。中には砂や重石がぎっしり。その奇妙な光景を不思議がる選手たちに、マガトはこう告げたという。
 
「背負って、走れ!」
 
 このエピソードだけでも、彼の課すトレーニングの過酷さが窺えるだろう。
 
 ヴォルフスブルク時代は練習場に人工的な山を造り、ひたすら選手たちに坂道ダッシュを命じていた。モットーは「苦しみ抜いて、ハイクオリティーを得る」で、付いたあだ名は“鬼軍曹”である。ヴォルフスブルクでマガトの“しごき”を経験した大久保嘉人は、「(厳しい練習で有名だった)国見高校時代より厳しかった」と振り返る。
 
 マガトと言えば、選手との衝突も珍しくない。1999-00シーズンのフランクフルトで彼に師事した元トーゴ代表のFWバチル・サルーは後年、マガトを「ヨーロッパ最後の独裁者」と糾弾。シャルケで2年近くの歳月を共に過ごしたペルー代表のFWジェフェルソン・ファルファンに至っては「マガトが残るなら、俺は出ていく」と、事あるごとに親しい関係者に漏らしていたという。
 
 最大の“被害者”を挙げるなら、アルバート・シュトライトか。かつてフランクフルトで高原直泰とホットラインを築いたウインガーは、シャルケ時代にマガトの逆鱗に触れた。練習態度の悪さを指摘され、トップチームから追放されたのだ。
 
 しかし、2010年9月にシャルケ?(セカンドチーム)の練習場を取材した際、シュトライトは若手に交じりながら懸命に汗を流していた。後年、シュトライト本人は「練習態度が悪かったなんて、他の誰からも言われなかった」と語り、「人生でもっとも最悪な時期だった。ヤツ(マガト)の顔は二度と見たくない」とぶちまけている。