2005年夏の甲子園で超高校級左腕として注目を集めた辻内崇伸【写真:編集部】

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12年前の甲子園を熱狂させた男の記憶「本当に奇跡なんですよ、あの夏は」

 今年の12月で30歳を迎える男の顔には、以前にはなかったしわが刻まれていた。「午前は練習して、午後は仕事して。それなりに忙しいんですよ」。そう笑うと、喫茶店に置かれていたスポーツ新聞に目をやった。今年の甲子園に出場するチームが全校出そろったことを報じていた。「今年もこの季節がやってきたんですね」。ふと遠い目をすると、こうつぶやいた。

「本当に奇跡なんですよ、あの夏は」

 2005年、1人の高校生が甲子園を熱狂させた。辻内崇伸――。12年前、人生を一変させた奇跡の夏を回想した。

 大阪桐蔭で1番を背負っていた超高校級左腕には、チームメートの平田良介(現中日)と共に大会前から尋常ではない注目が集まっていた。3年春に左腕では当時国内最速の155キロを記録。多くのメディアが、一挙手一投足を取り上げた。そんな状況で、甲子園初登板を控えた1回戦の春日部共栄戦を前に、ただでさえあがり症の17歳の心は緊張で押しつぶされそうになっていた。

「実は3年になってから迷走していた期間が長くて。調子の波が激しかったんです。取材でもスピードのことばかり聞かれるし、スピードが出ることが嫌になっていました。ちょっと言い方は変ですけど、反抗期みたいな。『スピードガン見ますか?』『見ないっす』みたいな。逆を言う感じ。やっぱり普通ではいられなかったですね」

 そんな中で迎えた初戦、初回に伝説が生まれた。先頭打者へ投じた5球目、電光掲示板で152キロを表示したボールは、スカウトのガンでは自身が当時持っていた左腕の国内最速を更新する156キロを記録した。

「もう最初は思い切り投げようと思っていて。みんながスピード、スピード言うので。会場全体がざわついたのは分かって、その雰囲気がやばくて、震えが止まらなかったんです。でも格好つけてスピードガン見ないって言ってしまったので、見られないじゃないですか。何が起こってんのやろって逆に気になってしまって……」

 その後は散々だった。「どう投げていいか分からなくなりました」と振り返るように、自分を見失った左腕は5回途中5安打6失点で降板。チームは1年生ルーキーだった中田翔が決勝弾、そして自身の後を救援してくれたおかげで9-7で辛くも勝利を収めた。だがこのあまりにふがいない試合が、余りある潜在能力を覚醒させた。

2回戦は大会最多タイ19Kも「最後の回しか覚えてない」

「あれで完全に吹っ切れましたね。翌日からもう投げ込みまくって、走り込みまくって。(2回戦の)藤代戦の前日にも100球以上投げましたし、もう初戦の後は毎日投げ込んでいました。スピードガンも格好つけずに見るようにしました」

 2回戦は初戦とはまるで別人だった。地に足がついた投球で、1失点完投。極めつきは9回。3者三振で締め、当時の大会最多タイ19奪三振を達成した。

「実は最後の回しか覚えてないんです。結構、点差もあった(8-1で勝利)ので、追い込んだらもうバーンといけるので、そうしたらみんな振ってくれて。甲子園って、監督と、活躍した選手1人がお立ち台上るじゃないですか。その日は平田がホームランを打っていて、自分は1点取られているのに、何で呼ばれているのかなと。それで行ったら『(奪三振の)タイ記録ですよ、おめでとうございます』って言われて。そこで気づいたんです。ああ、だから歓声がすごかったんだと思いました」

 ここからは破竹の勢いだった。3回戦の清峰戦は9回12奪三振1失点完投。相手は辻内が制球に苦しむことを見越して、バットを振らずにリズムを崩す戦法をとってきた。だが裏を返せば、そうでもしなければ、打ち崩せない存在になっていたという証しだった。

「ホンマ、清峰は嫌でした。バット構えてて、僕が足上げたら、避けよるんですよ。打つ気ないですよ、みたいな。どうしてもボール置きに行くようになって、腕が緩んでストライク入らないんですよ。あれは苦しみましたね。でもだからこそ、0点で抑えてやろうと燃えました。最後は9回にホームラン打たれて(公式戦初完封を)逃すんですけど」

 準々決勝の東北戦では、9回13奪三振4失点で完投。一時は逆転されたが、藤代戦に続く全員奪三振をマークした。3年になって覚えたフォークを効果的に使った。

「この試合、メッチャ調子良かったんです。でも昔からコントロールいいと打たれるんですけどね。僕はそれまで真っすぐとカーブだったんです。3年の春に遊びでフォークを投げ始めたんです。挟めばいいやみたいな感じだったんですけど、夏の頃にはだいぶ投球の幅が広がってましたね。追い込んだら真っすぐとフォーク。三振が取りやすかったですね」

 駒大苫小牧との準決勝に進出したナインは、ハッキリと頂点を意識していた。当時の大阪桐蔭は、西谷浩一監督はあえて指示を出さず、試合前日に選手たちでデータを見ながら話し合い、翌日の投球方針を決めていた。毎試合150球前後投げていた辻内は、スコアラーと話し合いながら、序盤は抑えて、尻上がりに調子を上げていく戦法を選択した。最初から飛ばしたら9回まで持たないとの判断だった。

心に芽生えつつある夢、「将来的に自分が教えてもらったことの恩返しを」

「初回はうまいこといったんです。球速は138キロとかでしたけど、コントロール重視で。よし、これで行こうと自信持って2回に臨んだんですけど、ボコ打ちされて5失点食らいました。スコアラーを見ながら、まだか、まだかと思いながら打たれて。結果的にあの回だけだったのでもったいなかったですよね」

 リミッターを外した3回以降は、尻上がりに調子を上げ、スコアボードにゼロを並べた。すると、7回には田中将大(現ヤンキース)から自身通算3号となる2ランを放ち、反撃を開始する。

「最初の打席で、たしか初球にマーくんからデッドボールを当てられたんです。もう5点も取られているのに、それですごくいらついて。あの打席はもう思い切り振ろうと思って、バーンと振ったら入ったみたいな。感触メッチャ良かったですね。通算3号の人間があの場面で打つなんて、もう奇跡ですよ」

 この一発を口火に一時は追いつき、延長戦まで持ち込んだが、最後は10回に力尽き、5-6で敗れた。それでも10回を投げきり、16奪三振6失点。4試合連続2桁奪三振、当時は歴代2位となる大会65奪三振をマークし、大会を去った。だがその記録以上に、辻内の投球は観ている者の記憶に刻まれた。それは試合を重ねるごとにたくましくなっていく17歳に心を奪われたからだ。

「あの場所は人を育ててくれるんです。あの夏がなければ今の僕はないですから。あの当時は一生懸命やっているだけでしたけど、あの夏が人生を変えてくれました」

 2013年に巨人で現役を引退して4年近くが経つ。現在は女子プロ野球で指導者を務めている辻内の心には、まだ小さいが、ある目標が芽生えつつある。

「大阪桐蔭の指導というのは、自分をこういう投手にしてくれたし、色んな面で大きくしてくれました。今すぐやりたいというわけではないですけど、将来的に自分が教えてもらったことの恩返しとして、子供たちに教えたいなという気持ちはすごくあります。どこの高校とかはないですけど、もしそういう機会があったら、こういう練習もあったんだよとか教えたいですね。甲子園行けたら? ふふっ。そうなればいいですね」(Full-Count編集部)