「知識で国家を拓く」 [著]瀧井一博

 明治維新とは何だったのか? 歴史学の息の長いテーマだ。古くは薩長の英雄譚(たん)のほか、西洋の模倣論や資本主義論から様々に語られてきた。しかし、そうした従来の叙述とは異なるのが本書。維新を理解するために、意外にも、ビジネス界・野中郁次郎の「知識経営論」を参照する。つまり、近代日本国家を巨大な「知識の集積体」として捉え直し、そこに張り巡らされた知のネットワークのダイナミズムを描き出すという仕組みだ。
 従来、明治政治史で重視されてきたのは「公議輿論(よろん)」。多くの意見を集め、公平な議論に基づく政治を行うという政治思想だ。「五箇条の御誓文」の一つ「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」を想像するとよいだろう。筆者の慧眼(けいがん)は、この公議輿論の陰に隠れていた衆知のネットワークに着目し、そこから「知識交換」という概念を析出した点。例えば、大久保利通は俗に言う冷徹なリアリストではなく、内外の知識を交換し合うことで国家を駆動させようとした知のコーディネーター。そのバトンは、デモクラシーの涵養(かんよう)を模索した伊藤博文、帝国大学の設立に寄与する森有礼や渡辺洪基、そして、ドイツ国家学を媒介に「国制知」として多くの人びとに受け継がれていく。
 西洋史家の私には、明治初期は興味の尽きない時代。どのようにあの難解なドイツ国家学を吸収し、欧州でも特殊なプロイセンの憲法体制を近代日本に接続しえたのか。本書が紡いでいくエピソードからは、国のかたちが、人と人とを結ぶ知識の連鎖によって編み上げられたという事実が浮かび上がる。
 本書の意義は単なる歴史の再解釈に留(とど)まらない。情報が氾濫(はんらん)し、セクショナリズムによって「知」が分断され、有効な国家構想を描けずにいる現代日本に対して、本書は、強烈な批判となるからだ。知識・情報資本主義の歪(ひず)みが顕在化する今、解決の糸口は足元の歴史にあるのかもしれない。
    ◇
たきい・かずひろ 1967年生まれ。国際日本文化研究センター教授(法制史、国制史、比較法史)。著書に『伊藤博文』など。