昭和天皇や東郷平八郎も期待を寄せた、「日本海軍航空隊」の基礎をつくった「イギリス人貴族」

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第二次世界大戦が終結して半世紀以上が経った1998年から2002年にかけ、イギリス国立公文書館が公開した文書のなかから、日本にまつわる驚くべき事実が明らかになった。航空機がまだ発展途上だった大正10(1921)年、技術指導のため日本海軍が招聘したイギリス人将校、マスター・ウィリアム・フォーブス・センピル(William Fobes-Sempill)が、その後、日本のスパイとなって、イギリス軍の機密情報を日本側に流し続けていたというのだ。2012年、このことをテーマにしたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」(原題Fall of Singapore:The Great Betrayal。Brave New Media)が制作され、その日本語版(NHK BS世界のドキュメンタリーで同年12月18日放送)を私が監修した。

センピルがいかにして祖国を裏切り、歴史に影響を与えたか、日本側の資料とともに振り返る。(第1回)

【前編を読む】「日本人は二流だから」…一次大戦後、イギリス空軍が「日本に航空技術を教えたワケ」

センピルへの「破格の待遇」

こんにち、「センピル飛行団」とも「センピル教育団」とも呼ばれる一行は、センピル自らが指名した英軍士官18名、准士官(兵曹長)12名の計30名。それぞれ、操縦、技術、兵器、整備、偵察、写真、落下傘、航空医学などのエキスパートだった。

防衛省防衛研究所には、センピル一行招聘について、一人一人の団員との契約書から、宿舎の手配、歓迎会、観桜会への招待状、交通費の日本側負担についての関係機関とのやりとりなど、詳細な書類が残されている。

それによると、センピルに支払われる報酬は、前金で1500ポンド(英国立公文書館HPによると、現在の43,586.55ポンド(現在の約600万円に相当するが、当時はこれで馬54頭が買えたというから、単純にレートだけでは比較できまい)、来日後の年俸は、日本の現役海軍大将の約2倍にあたる1万2413円76銭で、これが2068円96銭ずつ6ヵ月に分けて支払われることになっていた。副長のMeares中佐は、前金500ポンドに年俸はセンピルと同額、大尉クラスでも前金237.10ポンドに年俸2482円(日本海軍の大尉の約2倍)となっている。加えて、日本との往復に士官は一等船室(運賃定価片道1100円)、准士官は二等船室(同735円)があてがわれ、日本国内での移動や宿泊も、階級に応じた額を日本海軍が負担した。加えて、船賃は自己負担になるものの、妻帯者は妻子を同伴することを認められ、不慮の事故で死亡または負傷した場合の支給金についても、こと細かに定められている。当時としては破格の待遇と言えるだろう。

センピルは大正10年6月11日、妻アイリーンと幼い娘、そしてメイドを同伴して日本郵船佐渡丸でロンドンを発ち、7月31日に神戸着。8月1日朝、列車で東京に到着し、上野から常磐線列車に乗って、同日午後には、海軍が造成したばかりの霞ケ浦飛行場に着任した。ほかの団員たちも、7月から順次、来日している。団員たちは特別に用意された外国人宿舎に居を構え、センピルは土浦郊外の一軒家に住むことになった。

ここに、翌大正11(1922)年10月まで、1年3ヵ月にわたる「センピル飛行団」による講習が始まった。

「我が海軍航空の大をなす礎」

講習用に、日本海軍がイギリスから購入した飛行機は、アブロ陸上練習機72機、アブロ水上練習機24機、スパロホーク艦上戦闘機50機、ほか、艦上偵察機12機、艦上雷撃機12機、飛行艇5機、水陸両用観測機4機、雷撃機2機の計181機におよぶ。

菊池朝三中尉の回想によると、講習ははじめ横須賀で、日本ですでに一人前のパイロットとなっていた者の再教育から始まって、続いて霞ケ浦飛行場を用い、これから操縦を学ぶ航空術学生(のちの飛行学生)が一から教わる形となった。センピルの教えを受けた講習員のなかには、桑原虎雄大尉(のち中将)、大西瀧治郎大尉(のち中将)、吉良俊一大尉(のち中将)、千田貞敏大尉(のち中将)、三木森彦大尉(のち少将)ら、太平洋戦争中、航空戦隊司令官や航空艦隊司令長官として海軍航空部隊を率いた者が少なくない。

教育団の軍紀は厳正で、その教育は「峻厳」の一語に尽きたという。講習はすべて英語で行われたが、単に知識を授けるだけでなく、飛行機乗りは愛機と運命を共にする心構えを叩き込み、飛行作業後の飛行機や機材の清掃にも厳しく、日本側講習員に少しでもミスや気の緩みがあると容赦なく叱った。

「これが後日、我が海軍航空の大をなす礎となった」

と、菊池は手記に書き残している。

センピルたちは日本海軍の講習員に、最新の飛行機や、航空魚雷などの新兵器について、惜しむことなく教えた。イギリスではすでに、建造中の客船を改装した空母アーガス、建造中の戦艦を改装した空母イーグルを就役させていて、搭載した飛行機で自在に敵地を攻撃するという、まったく新しい戦法を模索していた。その可能性に着目した日本海軍も、空母鳳翔をすでに起工している。はじめから空母として設計された艦としては、英海軍のハーミズのほうが先に着工されたが、竣工は1922年12月の鳳翔のほうが早く、鳳翔は世界初の正規空母となった。センピル一行は、空母の飛行甲板の建造技術についても日本側に指導した。大正12(1923)年3月16日、日本人として初めて空母への着艦に成功したのは、講習員の一人だった吉良俊一大尉である。

東郷平八郎元帥も視察へ

センピルたちによる講習の模様を、皇太子(のちの昭和天皇)や、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥が、わざわざ霞ケ浦まで視察に訪れたことを見ても、海軍がこの講習にいかに期待を抱いていたかがうかがえよう。

こうして、日本海軍に大きな収穫を与え、センピルは翌大正11年10月に任務を終えた。記録によると、センピルは10月27日に東京発、箱根、京都を観光ののち、31日、門司を出港する伏見丸に乗船、帰国の途についた、とある。日本側に残る『英飛行団ノ功績ニ就テ』と題した文書には、

〈団長センピル空軍大佐は資性極めて誠直謹厳、年齢未だ30に満たざる英国貴族にして、航空については実にその本国の権威ともいうべく〉

から始まり、

〈団長以下全員は挙げて我が海軍航空に一大革新を与えんことを期し、面目を賭して努力せしものにして、従って各部の実績は団員の期待に背かざるのみならず、我が当局の期待を超え、すこぶる見るべきもの多し。一行の功績は独り海軍のみならず実にわが国航空史上に永久に消ゆべきものにあらずと認む〉(現代文約)

と、じつに用箋15枚にわたってその功績が綴られている。絶賛と言っていいだろう。

センピル一行が教えた講習員は、士官70名、兵から累進した特務士官・准士官6名、下士官兵142名におよび、彼らがのちに、日本海軍航空隊が発展する基礎をつくった。日本政府は、センピルの功績に対し、勲三等旭日中綬章を授与している。日本から帰国したセンピルは、各国政府にイギリス製兵器購入を助言する仕事についた。

ワシントン軍縮条約のあおりを受け、空母運用へ

センピル一行が日本で航空術の指導に明け暮れていた頃、日本の海軍力増強を脅威に感じていたアメリカの働きかけで、ワシントン軍縮会議がはじまった。この会議の結果、日本の主力艦(戦艦)保有数は、米英の6割に制限され、20年以上にわたって続いた日英同盟も1923年をもって失効することになった。

ワシントン軍縮条約のあおりを受け、主力艦の保有枠を超えて建造中だった戦艦加賀と巡洋戦艦赤城は、空母に改装されることになる。だが、日本海軍は当時、空母運用についてのノウハウをほとんど持っておらず、飛行機の発着艦すら手探りの状態だった。

そこで、在英国大使館附武官補佐官・高須四郎少佐(のち大将、第一艦隊、南西方面艦隊司令長官などを歴任)の口利きで日本海軍が招聘したのが、叩き上げの軍人で、英空軍を退役したばかりのフレデリック・ジョゼフ・ラトランド大尉である。ラトランドはセンピルより7歳年上、イギリス海軍航空隊の草分けの一人で、1916年、英独海軍が激突したユトランド(ジュットランド)沖海戦では航空偵察で敵艦を発見するなどの殊勲をたて、「ユトランドのラトランド」の異名で知られていた。巡洋艦の砲塔に取り付けられた臨時の飛行甲板から、世界初の発艦に成功したのもラトランドである。1918年、空軍に移籍、第一次大戦後は空母イーグルの飛行隊長を務め、1923年に退役、来日した。来日の理由について、ラトランドはのちに、

「もう戦争は起こらないと思った。そこで軍を退き、生来冒険好きだった私は日本に行くことを決めた」

と語っている。ラトランドは三菱航空機に籍を置き、東京にオフィスを構え、日本海軍に空母飛行甲板の構造についてのアドバイスをした。さらに、日本のパイロットに発着艦の技術を教えれば昇給させる、とのオファーにも応えた。

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