巨人の中継ぎ投手が明かす「便利屋」の処世術「痒いところに手が届く『縁の下の力持ち』になれ」
巨人のブルペンで、どんな過酷な場面でも淡々と投げ抜く「便利屋」。2011年から9年間にわたり、主に中継ぎとして活躍した田原誠次さんの処世術は、ビジネスパーソンにも通ずる仕事術に満ちていました。
2020年に現役を引退後、工場でセカンドキャリアをスタートさせ、現在は沖データコンピュータ教育学院硬式野球部でコーチを務める田原さん。著書『巨人をクビになりハローワークに通った男が、工場勤務で見つけた“本当の幸せ”』が話題の田原さんに、周囲の期待を察知する「観察力」の磨き方や、逆境を乗り越えるメンタルコントロール術を伺いました。
前編: 「野球が嫌いになった」巨人の便利屋が、ハローワークの先で見つけた“本当の幸せ”
<コーチを務める沖データコンピュータ教育学院硬式野球部の試合後に、オンラインインタビューに応じてくれた>
背番号すらもらえない補欠部員だった高校時代
――まずは田原さんが野球を始めた時期や、プロ入り前のことを聞かせてください。
宮崎県延岡市で生まれ、小学校3年生のときにソフトボールを始めました。中学で軟式野球に取り組んだ後に、地元宮崎県で甲子園出場経験のある聖心ウルスラ高校に進学することになりました。当時の僕は「箸にも棒にも引っかからないようなレベル」の内野手で、 高校2年生の秋までは背番号すらもらえないような状況 で野球を続けていたんです。
――内野手から投手転向を決断されました。何が決め手になったのでしょう?
自分のチームを冷静に見渡してみると、内野手はもう守りの堅い選手がいる。どこを狙うか考えたときに「投手なら試合に出られるかもしれない」と思い、幼馴染の捕手の勧めもあって、まずは打撃投手(バッティングピッチャー)としてアピールしてみることにしたんです。最初は制球が安定しませんでしたが、サイドスローにするとだんだん狙い通りのコースに投げられるようになり、高校2年生の秋に投手として初めて公式戦に出場しました。
――サイドスローへの転向には、迷いはありませんでしたか?
野手をやっていたころにゴロを処理する場面が多く、どんな体勢でもボールを横から投げることに慣れていたことが大きいのかなと思います。自分にとっては自然なフォームで、違和感はまったくありませんでしたね。落差のあるフォークボールをはじめとする変化球を覚えたり、高校3年生の春には、最高球速を128キロから143キロまで伸ばすことができました。「サイドスローで143キロも出れば、プロに行けるかもしれない」と思い始めたのもこのころです。
ドラフト指名を受けても「どこか他人事だった」
――甲子園出場は叶いませんでしたが、高校卒業後の田原さんは、まだクラブチーム登録だった時代の三菱自動車倉敷オーシャンズ(当時、倉敷オーシャンズ)に入団されます。
高校3年生の5、6月の時点でお声がけいただいて、社会人野球の道に進むことになりました。自分では「このまま練習を続ければプロになれる」と思っていましたが、18歳だった当時の僕はまだまだ考えが浅く、入社後はさまざまなギャップにも直面しました。
なかでも驚いたのが、毎日の多忙なスケジュールです。入社前は「社会人野球は毎日野球だけやるもんだ」と思っていましたが、実際は全然そんなことはなくて……。毎朝6時半から15時30分まで工場で勤務し、16時から5時間ほど練習に打ち込んだ後に慌てて寮に戻り、22時に閉まる寮の食堂へ駆け込んで夕食を済ませるという、時間に追われる毎日を過ごしました。
今振り返ると、「 限られた時間のなかでどのように行動し、結果に結びつけていくか 」を問われた4年間だったと思います。例えば「室内練習場がなければ雨の日は練習しない」ではなく、体幹トレーニングならどこでもできるし、「野球のルールを見直そう」と頭を使うことも練習です。環境が整っていなくても、「自分が何を考えて、どう行動するか」が大事だと学びました。
――在籍4年目の2011年に、田原さんは読売ジャイアンツから7位指名を受けて、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせます。
その年は「プロになれなかったら辞める」という強い覚悟を持っていました。伯和ビクトリーズ(広島県)の補強選手として都市対抗野球(※)に出場し、強豪・東京ガス(東京都)を相手に好投することができて。すると、数日後に読売ジャイアンツから調査書が送られてきたんです。
(※当時は東日本大震災の影響に伴い、日本選手権と都市対抗野球の合同開催となり、2011年10月-11月に大阪ドームで開催された)
ただ、手に取った自分宛の調査書を見ても、いまいちリアリティが感じられなくて。「自分が指名されることはないだろう」と、冷静に受け止めていたように思います。
ドラフト当日も「どうせかからない。見る暇があるなら練習して来年に備えよう」と、中継も見ずに走っていました(笑)。すると突然、大歓声とともにチームメイトが僕の名前を叫ぶ声が聞こえてきて。そこで初めて指名を知ったんです。そのあと会社で記者会見もありましたが、それでもどこか他人事のような、信じられない感覚でした。
罵声やブーイングに動じないメンタリティ
――書籍では、「トリプルスリー」を狙っていた山田哲人選手に死球を当ててしまい(2016年7月30日・東京ドーム)、その後に激しいブーイングを浴びたエピソードが描かれています。
現役時代は機械音痴でSNSを一切やっていなかったので、ネガティブな声に触れる機会は少なかったです。ただ、神宮球場に向かう際にはファンの方から罵声を浴びることもありました。マウンドに上がるたびに球場のあちこちから「いつまで野球をやっているんだ!」という罵声やヤジが聞こえてくるのがわかりました。
――メンタルはどのようにコントロールしていたのでしょう?
ブルペンにいるときは吐きそうになるくらい緊張しています。でも一度マウンドに上がるとスイッチが入る感覚があり、スッと冷静になれる。罵声がはっきりと聞こえていても、「何も変わらない」と思いながらインコースを突くと、声がさらに大きくなる。それでも乱されることなく、自分の投球に集中することができていたように思います。
「打たれて当たり前」と開き直って、マウンドに上がり続けた
――中継ぎ投手として試合に出ていると、思わしくない結果と向き合わざるを得ない状況もあると思います。打たれてしまったら次の試合に向けてどのように切り替えていましたか?
僕は中継ぎを「取り返せないポジション」だと思っているんです。先発は仮に6回3失点でマウンドを降りても、味方が4点以上取ってチームが勝利すれば「好投した」ことになりますが、中継ぎ投手は大事なところで失点を許してしまったら、いくら他の打者を抑えても「悪かった」という印象しか残らないんです。
それでいて毎回、緊迫した場面で、自分よりも年俸の高い選手と対戦することになる。僕の場合は右バッター3、4、5番と勝負することがほとんどだったので、「打たれて当たり前」くらいの気持ちで、淡々と切り替えるようにしていました。目先の結果に一喜一憂していたら、143試合も持ちませんから。
――ビジネスパーソンが落ち込んだときに気持ちを切り替えるヒントはありますか?
野球とビジネスで状況は異なるかもしれませんが、「自分のタスクをやり切るしかない」点は共通してるかな、と。「普段のお前ならできる。次は取り返せるように頑張れよ」と上司や同僚に言ってもらえるだけの信頼を、日頃から築いておくことが大切かもしれませんね。
「便利屋」として生き抜くための処世術
―2018年のオフに、田原さんはブルペンの環境改善を訴えるために契約更改を保留し、話題を呼びました。
ブルペンでは、会社における「中間管理職」の立ち位置 だと思っています。「肩が仕上がっていない中で試合に向かわざるを得ない」というリリーフ陣の実情を、何度も訴えてきました。選手が怪我をするリスクもありますし、チームの目標である日本一も遠ざかってしまう。ファンの皆さんの期待にも十分に応えられない状況が続いていたので、「まずは現状を多くの人に知ってもらいたい」という思いから、思い切って保留を選びました。
――チームメイトの皆さんからはどのような反響がありましたか?
世間からは批判の声が多かったように思いますが、ブルペンを支えるチームメイトからは、「お前は凄い。漢気がある」「行動してくれたおかげで環境が良くなった」と言ってもらえました。今では、勇気を出して発言して良かったのかなと思っています。
――最後に、「便利屋としての生存戦略」についてアドバイスをお願いします。
とにかく相手をよく観察して、何を求めているかを察しながら動くことです。
僕は人見知りだからこそ、痒いところに手が届く「縁の下の力持ち」でありたいと思っていました。たとえば新幹線での移動中、みんな手持ち無沙汰になることが多いんですよ。僕は週刊誌を何種類か持ち歩いていました。で、ポイントなのが、先週分も持っておくんです。坂本勇人さんに「誠次、なんか持ってる?」って聞かれたときに、「先週分もありますよ」と出せると、「読んでなかった、マジ!? 助かる!」となって、また会話が生まれるわけじゃないですか。バッグは重いですけど(笑)。
些細な気配りで喜んでもらえる感覚が嬉しくて、続けていたらだんだん形になっていきました。この感覚はバッターとの勝負にも通じていて、実力勝負では負けてしまう相手でも、右バッターに対して目線を合わせて「インコースくるんじゃないか」と意識させておいて外に逃げるボールを投げる、といった駆け引きができる。
細かい観察と気配りを積み重ねた結果、「便利屋」として認知されるようになったんだと思います。まずは相手を観察し、何を求めているのかを考えることがスタートラインだと思います。
プロフィール
田原誠次(たはらせいじ)1989年生まれ、宮崎県延岡市出身。聖心ウルスラ学園高校卒業後、倉敷オーシャンズを経て巨人へ。2011年ドラフト7位で入団し、中継ぎ投手として活躍。2016年にはチーム最多の64試合に登板し、「便利屋」として重宝された。一方で、契約更改時にリリーフ陣の酷使ぶりを球団フロントに訴えるなど、シーズンオフのメディアを賑わせた。2020年に戦力外通告を受け、現役を引退。現在は沖データコンピュータ教育学院のコーチを務めている。2023年に文春野球コラムにコラムニストとして登場すると、年間最優秀コラムを受賞するなど新たな才能を示した。著書『巨人をクビになりハローワークに通った男が、工場勤務で見つけた“本当の幸せ”』
Instagram @seiji_tahara37_63 『巨人をクビになりハローワークに通った男が、工場勤務で見つけた“本当の幸せ”』(株式会社カンゼン)
取材・文:白鳥純一
編集:内藤瑠那
