インドと向き合う時、「ビジネス機会」という認識しか持てていなければ冷笑されると語る寺島実郎氏(撮影/梅谷秀司)

人口で中国を抜いたインド。2029年にはGDP(国内総生産)でドイツ、日本を抜いてアメリカ、中国につぐ世界3番目の経済大国になると言われている。9月2日発売の週刊東洋経済は特集「インドが熱い――『脱中国』で脚光」を組んだ。

急成長するインドにビジネスチャンスを見いだす企業や投資家は多い。そんな中、インドと向き合う以上は日本人として知っておかなければならないことがあると語るのが一般財団法人・日本総合研究所会長の寺島実郎氏である。寺島氏に、インドと向き合ううえでの覚悟を聞いた。

――インドは人口で中国を抜き、近い将来、日本のGDPも追い抜くといわれています。インドの経済成長をどのように見ていますか。

人口増加が後押ししているのは言うまでもないが、人口増加だけでは説明できない。


インドは1947年に独立を果たすまでイギリスの植民地下にあった。インド人にとっては屈辱的な歴史だが、「英語」という植民地時代の遺物をインド人は自分たちの武器に変えた。インドIT産業の中心地ベンガルール(バンガロール)と、アメリカ・シリコンバレーの人的ネットワークの深さを見るだけでも、英語圏であることの強みが見える。

大英帝国の中心地ロンドンからドバイ、ベンガルール(インド)、シンガポール、シドニー(オーストラリア)をつないだネットワークを私は「ユニオンジャックの矢」と呼んでいる。大英帝国そのものはなくなったが、英国の影響力は言語や文化、スポーツに至るまで世界中に残り、現代においてもイギリスの力の源泉になっている。

英連邦ネットワークの一翼を担っていたことが、皮肉にもインドにポジティブな意味を持たせ始めている。イギリスのリシ・スナク前首相はイギリス初の非白人およびインド系首相だった。アメリカの民主党大統領候補カマラ・ハリス氏はインド系移民2世。かつてイギリスがインドの地中に埋めた種が、地上で花を咲かせているということだ。

インドからの視線

――巨大な市場にビジネスチャンスを見いだし、日本の企業や投資家がインド投資を強めています。

日本人がインドと向き合う時、「ビジネスの機会」という認識しか持てていないのなら、浅薄さを冷笑されるだろう。日本人が忘れかけている日印関係の歴史やインドからの視線を、今一度視界に入れてほしいと私は思う。

第2次世界大戦で戦争に突き進み、敗戦国となった日本の歩みを、インドはじっと見つめてきた。たとえばチャンドラ・ボースという、日本軍のインパール作戦(連合軍の拠点だったインド北東部インパールの攻略を目指し、1944年3月に日本軍が開始した作戦=編注)に関わった人物がいる。
 
これほど日本と縁のあったインド人もいないのだが、「西洋列強の植民地支配からアジアを解放する」という日本の大義を逆手に取ったボースは、祖国独立のためにインド国民軍を率いて日本軍とともに英国軍と戦った。しかし、インパール作戦は壊滅的な敗北に終わってしまう。

私が驚かされたのは、現代インドにおけるボースの評価だ。軍国主義日本と手を組んだ人物としてさげすまれているのかと想像していたら、まったく逆だった。ボースはインド独立の英雄の一人として初代首相ジャワハルラール・ネルーや非暴力不服従を貫いたマハトマ・ガンディーらとともに歴史博物館に展示までされていた。インドはボースを忘れていない。

ボースの遺骨は東京・杉並の蓮光寺に安置されている。ボースを知る人が今の日本にどれほどいるだろうか。

――日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)に参加したラダ・ビノード・パル判事が有名です。日本のA級戦犯25人の無罪を唱えたと。

パル判事の判決書は驚嘆だった。しかし、パル判事が若かりし頃に感じたことや、亡くなる前に遺した言葉は今なお刮目すべきものがある。

パル判事は、1905年の日露戦争の日本勝利が、19歳の青年パルに大きな影響を与えたと語っている。「同じ有色人種である日本人が、北方の偉大なる白人帝国主義ロシアと戦って、ついに勝利を得たという報道は、われわれの心を揺さぶった」と。

パル判事は最後の来日となった1966年、朝日新聞に「東洋の政治的復活」と題するメッセージを寄せている。その中で氏は「西洋の『分割して統治せよ』という政策を警戒してください。どんなに大切なイデオロギーのためであっても、分裂してはいけないのです」と述べている。

その3カ月後、パル判事は80歳の生涯を終えた。氏が遺した警告は、現在の世界を的確に認識するうえでも重要な視座ではないだろうか。

日本に微妙な役割を果たし続けた

――戦後、敗戦国となった日本にインドは手を差し伸べてくれました。

敗戦後、国際的な孤立をかみしめ、寂しさに打ちひしがれていた日本人に、インドのネルー首相はインド象・インディラを贈ってくれた。吉田茂首相が出席した上野動物園の贈呈式の様子は、当時、朝日新聞の一面に大きく掲載された。


寺島実郎(てらしま・じつろう)/日本総合研究所 会長。1947年生まれ。アメリカ三井物産ワシントン事務所長、三井物産常務執行役員などを経て2016年6月から現職。多摩大学学長も務める。1994年の著書『新経済主義宣言』が石橋湛山賞受賞。近著に『21世紀未来圏 日本再生の構想――全体知と時代認識』。他、著書多数(撮影/梅谷秀司)

インドは1951年、アメリカ主導のサンフランシスコ講和会議には参加せず、「日本に駐留しているアメリカ軍が引き揚げるならば、インドは署名してもよい」という条件をつけた。

一方、翌1952年、インドは日印平和条約調印に応じてくれる。これが1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)に日本が参加する契機となった。インドは、戦中・戦後を通して日本に微妙な役割を果たし続けた。

私がワシントンに駐在していた1990年代、インド大使館の外交官たちから「日本人は不思議だ」と言われたものだ。「アジアから白人帝国主義を追い出すと興奮していた国が、敗戦国になるや腰砕けになって、いまやアメリカの走狗と化している」と。

彼らの言葉に触れた時、私ははっとさせられた。戦後の日本人は高度経済成長の道をひた走る中で関心事からインドを外してしまい、いつのまにかアメリカを通じてしか世界を認識しなくなってしまったのだ。

――国際社会の中でインドの存在感が高まっています。グローバルサウスの旗手として第三極を形成しているように見えます。

インドが第三極を形成しているという見方は皮相的だ。植民地時代の苦難の経験から、インドは大国主導の世界秩序に対する反発をDNAとして潜在的に持つ。独立後のインドは、中立主義を保ち、どこの国とも同盟を結ばない「非同盟」を掲げた。

近年のインドは、あらゆる国・機関と関係性を深める「全方位外交」の策を採っている。中国を牽制するクアッド(日米豪印4か国協議)の一翼を占めながら、「反西側」の色合いが強い中国主導の上海協力機構にも加わる。

この7月にはロシアを訪問してプーチン大統領と会談したばかりだが、8月23日にはウクライナのゼレンスキー大統領を訪ね、平和実現のために自分が役割を果たす用意があると伝えたという。仲介外交に乗り出そうと、存在感を強めている。

戦略的自律性を守るために、どこの国とも一体化しないことで自国の利益を追求している。米国と一体化し、中国包囲網の先頭に立たされてしまっている日本とは対照的だ。

――日本の進むべき道はどこにあるでしょうか。

グローバルサウスの存在がますます大きくなり、世界は「全員参加型」の秩序へと変わってきている。「米中対立」や「民主主義陣営vs.権威主義陣営」といった単純な二極構造の世界観に引きずりこまれつつある状況にまずは気がつき、そこから脱却しなければならない。アメリカへの過剰同調と過剰依存だけで世界と渡り合える時代ではない。

そのうえで、アジアで信頼される、たしかな技術力を持った民主主義国家としての立ち位置を踏み固めるべきだ。日本は宿命的に米中の狭間に立つ。その日本こそがグローバルサウスの本音を理解し、しかもアメリカをアジアから孤立させず、中国を国際社会の健全な参加者にしていく役割を担うべきである。非核平和主義を貫く日本が、核兵器を保有するインドに厳しくその責任を問うことも必要だ。

こうした視点を抜きにして、インドとはビジネスだけで関わろう、ひと儲けしようなどと考えていたら日本人は冷笑される。大国主義の呪縛を超えた構想や行動が日本には求められている。

(井艸 恵美 : 東洋経済 記者)
(野中 大樹 : 東洋経済 記者)