理化学研究所のスーパーコンピューター「富岳」が日本のAI創薬のカギを握る(写真:bee/PIXTA)

新型コロナウイルスのパンデミックは、各国の薬の開発能力の差も浮き彫りにした。ファイザーやモデルナなど海外の製薬企業がいち早くワクチンを開発・供給したのに対し、国産のワクチン接種が始まったのは、昨年の12月だ。

技術大国だったはずの日本は、なぜこんな状況になってしまったのか。

AI創薬にかかわる伊藤眞里氏(大阪大学薬学部薬学研究科・創薬サイエンス研究支援拠点化合物ライブラリー・スクリーニングセンター特任教授)に聞いた。

なぜ日本ではAI創薬が進まないのか

医薬品の開発において最も重要なのは、病気を引き起こす原因となる、あるいは治療に関係する“特定のタンパク質”を見つけることだ。

これまでは研究者の仮説に基づき、実証を繰り返す手法がとられていた。ターゲットとなる化合物は2.5万に1つも見つかればラッキーというほど、低い確率だった。

対して、近年のAI創薬は、AIに膨大なデータを学習させることで、仮説−実証の工程が大幅に省略されるため、創薬スピードが劇的に加速した。また、ヒトによる思い込みや先入観がなくなったことで、スピードだけでなく精度も格段に上がった。


伊藤眞里氏(写真:本人提供)

ただ、「従来の創薬でも海外に差をつけられている日本ですが、AI創薬でも後れを取っています」と伊藤氏はいくつかの理由を挙げる。

その1つは、創薬の研究開発に十分な資金が投じられていない点が挙げられる。

創薬に対する研究費・予算が日本と海外では大きく異なる。例えば、武田薬品工業の2023年度の研究開発費は7299億円。一方、ファイザーは106.79億ドル(約1兆6417億円※1ドル153.735円で計算) だ。

2023年度の研究開発費では業界トップのメルクの305.31億ドル(約4兆6937億円)を筆頭に、ロシュ、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ノバルティス、アストラゼネカ……など、世界のメガファーマは100億ドル以上を研究開発費に使っている(各メーカーの費用は報告書より抜粋)。

「パンデミックの際も、国がどう捉えるかの違いもありますが、アメリカでは防衛費がワクチンの生産に充てられました」と伊藤氏は言う。

医療情報が活用できない日本

2番目は、患者の医療情報が海外のように活用できない点である。

海外では個人情報保護法に基づき、患者の医療情報が国によって管理されている。欧州は、EUでまとまった1つのプラットフォームを作っていて、製薬企業がこれらの情報にアクセスできるようになっているのだ。

日本は、国民皆保険制度があるため、良質で詳細な医療データが蓄積されている。患者情報が電子カルテによって整理され、活用しやすくもなってきた。しかしながら、現段階では創薬への二次利用ができない。

「世界トップクラスのビッグデータになりうる可能性を秘めているにもかかわらず、製薬企業がそれらの情報を創薬に活用できないのは、大きな損失です」と、伊藤氏は指摘する。

そして3番目は、基礎研究にとどまり、実用化までに時間がかかる点だ。

基礎研究ではキラリと光る高い技術を持っているものの、日本はその技術を市場に出回る製品やサービスに実用化させられるベンチャーを育てることが得意とはいえない。これがAI創薬の足かせとなっているというのだ。

海外では、メガファーマがAI創薬を行うベンチャーを巨額で買収し、迅速に新薬を市場に送り出す流れも生まれている。初めからメガファーマに買収されることを視野に、研究開発に取り組むベンチャーも少なくない。

何より、メガファーマが組む相手はベンチャーだけではない。スイスを本拠地とするノバルティスはIBMやIntel、Microsoftと、イギリスのグラクソ・スミスクライン(GSK)はAmazonといったITのビッグカンパニーとも連携している。

豊富な医療データと高度なIT技術、そして潤沢な資金を武器に、メガファーマによる創薬の実装化が強化されているといえる。

日本のAI創薬に「富岳」利用

では、日本のAI創薬に希望がないかというと、「そんなことはない」と伊藤氏は言う。

日本のAI創薬が世界で戦うために必要なのが、伊藤氏らが進めている一般社団法人ライフインテリジェンスコンソーシアム(LINC)の取り組みだ。

「富岳創薬DXプラットフォーム」もその1つ。スーパーコンピューター富岳を用いて、海外メガファーマの百倍規模にあたる数十億の化合物をふるいにかけ、創薬のターゲットとなる化合物を探し出し、世界初の「大規模ネットワークデータベース」を構築する狙いだ。


スーパーコンピューター「富岳」(写真:理化学研究所提供)


創薬の各段階で生まれる問いに対してAIを活用(画像:伊藤氏提供)

ほかにも、AMED(日本医療研究開発機構)が産学連携で進めるDAIIAのようなプロジェクトもある。製薬企業17社が所有する情報を、利害関係が発生しないようにAIに学習させることで、海外のメガファーマに負けない創薬を目指す。

伊藤氏の専門は「システム生物学」だ。

バーチャルで再現した人体に、薬剤の分子を加えることで、どんな反応が起こるかを予測する学問で、AI創薬では欠かせない分野の1つ。将来的にバーチャルな人体による臨床試験ができるようになれば、薬の効果が期待できる患者を厳選して薬を使うことも可能になる。

「これまでの臨床試験は、年齢や基礎疾患の有無、飲酒や喫煙歴など、さまざまな条件を持つ人に、薬の候補を投与して、その効果を確認してきましたが、システム生物学を使えば、それが避けられます。患者さんに効かない薬を投与するというデメリットをなくすことにもつながります」と伊藤氏。

現在、伊藤氏は厚労省とともに、国が難病指定している特発性間質性肺炎、なかでも特発性肺線維症の治療薬の開発に関わっている。

特発性肺線維症は肺炎の一種だが、病態が複雑で原因が特定できないため、今のところ有効な治療薬がない。そのため、AI創薬のプロジェクトとしてこの病が選ばれたという。

「臨床データを収集するところから取り組んできましたが、特発性肺線維症という難病に対して構築してきたものは、ほかの多くの難病にも展開できると期待しています」(伊藤氏)

AI創薬がもたらす5つのメリット

最後に、AI創薬が今後、私たちにどんなメリットをもたらすのか見ていきたい。

1つ目は、伊藤氏が取り組む上述の特発性肺線維症のように、治療法が確立していない難病や希少疾患などに光が当たるようになったこと。

2つ目は、薬が患者の元に届くまでの時間の短縮化だ。膨大な量のデータを短時間で処理し、治療効果のある化合物を見つけられるAIなら、創薬までの過程を大幅に省略することができる。

3つ目は、低コスト化である。

時間の短縮化、創薬のプロセスの省略は、そのまま低コスト化にも貢献する。低コストで創薬できれば、患者自身の負担軽減はもちろん、医療費の削減につながり、国民全体の負担を軽くすることにもつながる。年々高額な薬が登場し、医療費の増大をもたらすなか、AI創薬におけるコストカットは大きなメリットだろう。

4つ目は、薬の精度が上がることだ。どの患者にどの薬を使えばいいのか、治療効果の高い患者を見極めて、適切に薬を投与することで、精度を上げることができる。AI創薬は、1人ひとりに最適な医療を提供する個別化医療の実現にもつながる。

そして5つ目は、より精度高く薬を患者に用いることで、有害事象、副作用を減らせることである。薬に副作用はつきものだが、副作用を減らすことができれば、患者への負担は軽くなる。

呼吸器の病気で開発進める

こうしたAI創薬のメリットを用いて、伊藤氏は、特発性肺線維症だけでなく、ほかの呼吸器の病気(喘息、COPD、肺がん)についても、国と一丸となって開発を進める。

「実際にAIが導き出した“薬のたね”を、患者さんの元に薬として届けるためには、製薬企業による患者の医療情報の円滑な活用といった課題もあります。それらを乗り越えて、2030年頃には成功例を出したい」(伊藤氏)

(今村 美都 : 医療福祉ライター)