(撮影:村山玄子[写真のレコード・蓄音機はすべて高氏さんの所蔵品]/イラスト素材:illust AC)

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1877年にエジソンが蓄音機を実用化し、家で気軽に音楽を楽しめるようになりました。日本では1903(明治36)年にSPレコードが輸入されて以来、音楽がより身近に。終戦後は「東京ブギウギ」などの大ヒット歌謡曲が人々を元気づけました。黎明期から製造中止期までに作られたSPレコードを小学生の頃から集めている高氏貴博さんのコレクションから選りすぐって紹介します(構成=田中亜希 撮影=村山玄子(写真のレコード・蓄音機はすべて高氏さんの所蔵品))

【写真】朝ドラでも話題!「別れのブルース」コロムビア、1937年

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<2よりつづく>

ラジオの普及でヒット続出

昭和に入ると、マイク録音がスタートしたことから、SP盤の音質が劇的に向上します。そして蓄音機は、それまでのラッパ型だけでなく、家具型や箱型が登場。箱型のポータブルタイプは日本の住宅環境にも合うため、特に人気でした。

また、ラジオの普及とともに人々が音楽によく触れるようになった背景も重なって、この頃はヒット曲が続出。


「アラビヤの唄」「あお空」NIPPONOPHONE、1928年

●昭和初の流行歌が誕生《昭和3年》
ラジオの登場とともにマイクの技術が飛躍的に上がった昭和初期。蓄音機とラジオの普及の相乗効果で、二村定一と天野喜久代による日本最初期のジャズレコードが20万枚を売り上げる大ヒットに(「アラビヤの唄」「あお空」NIPPONOPHONE、1928年)

二村定一さんと天野喜久代さんによる「アラビヤの唄」「あお空」や、古賀政男さん作曲・藤山一郎さん歌唱という黄金コンビの「丘を越えて」など、名作が次々に誕生。

古賀さんと藤山さんは、テイチク移籍後も「東京ラプソディ」を生み出すなど、時代を牽引しました。


「丘を越えて」コロムビア、1931年

●古賀政男と藤山一郎の黄金コンビ《昭和6年》
NIPPONOPHONEがコロムビアと名称を変えた頃に生まれた大ヒット曲。古賀政男が作曲、藤山一郎が歌って、60万枚を売り上げた(「丘を越えて」コロムビア、1931年)


(「東京ラプソディ」テイチクレコード、1936年)

●純国産のレコード会社が設立されて《昭和11年》
それまで外資系のみだったレコードの世界にようやく生まれた純国産のテイチクレコード。古賀政男と藤山一郎がともに移籍し、コンビで記録的ヒットを連発(「東京ラプソディ」テイチクレコード、1936年)


「別れのブルース」コロムビア、1937年

●〈ブルースの女王〉淡谷のり子誕生《昭和12年》
NHK連続テレビ小説『ブギウギ』で登場人物のモデルとなった、淡谷のり子。服部良一が作曲し淡谷が歌った「別れのブルース」は大ヒットし、レコードのプレス工場がパンクするほどだったという(「別れのブルース」コロムビア、1937年)

しかし戦争が近づくにつれ状況は激変します。製造材料が不足し、レコードを溶かして再利用したり、粗悪な代替材料を使用して新譜を作るという時代に突入するのです。

【戦前・戦後でレコードの価値が変わる】
第二次世界大戦中に戦前のSP盤の多くが焼失したため、今残っている戦前のSP盤は大変貴重だ。
昭和13・14年には映画『愛染かつら』のヒットで主題歌の「旅の夜風」(霧島昇・松原操、コロムビア、1938年)が大流行。
また、戦時中には日本が占領した満洲(現・中国東北部)や上海など中国大陸を舞台として描かれた〈大陸歌謡〉(東海林太郎「大陸の町」ポリドール、1939年など)が花開いた