オーストラリア時代の太田。「家族との生活を優先した移籍でした」と振り返る。(C)Getty Images

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 FC町田ゼルビアでJ2優勝を成し遂げ、昨季をもってユニホームを脱いだ太田宏介が、海外挑戦を振り返った。

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 36歳の元日本代表DFは、横浜FCでプロキャリアをスタートした後、清水エスパルス、FC東京で活躍。海を渡る決断を下したのは、プロ10年目だった。

 新天地は、活きの良い若手が鎬を削るオランダリーグのフィテッセ。太田はそんなステップアップの登竜門とも言える環境に、28歳にして身を置くと、すぐさま指揮官の信頼を掴み、シーズンの後半戦にレギュラーとして試合に出続けた。

 しかし、監督が代わった翌シーズンは、なかなか出番を得られず。苦難の日々が続いたが、練習で懸命にアピールを続け、11月頃から先発での出場を増やしていた。
 
 ただ、太田がその年の冬に下した決断は、FC東京復帰だった。多くの海外組は出場機会を求めてJリーグに戻るなかで、なぜ上り調子のレフティはこの道を選んだのか。

「全然深い意味はないです。向こうも向こうで充実していましたし、ポジションもちゃんと掴んでプレーしているなかで…そのポジションを掴む前に、ちょっと出られない時期が10試合ぐらいあったんですけど、その時にたくさんオファーを貰ったんです。待遇も含めて、1番フィーリングが良いクラブに行こうと。

 ちょうど12月の末か、クリスマスブレイクで1週間ぐらい(日本に)帰っている時に、色んなチームと交渉して、さあオランダに戻ろうかって時に、FC東京の強化部の方から話をいただきました。その時の咄嗟のフィーリングと判断ですかね」

 一般的に、ステップアップや日本代表でのキャリアを考えれば、欧州でのプレー継続がベターだったかもしれない。だが、当時の太田にとっては間違いなく、ベストの決断だった。

「今となっては、やっぱりもう少し長くいたほうが、そこからステップアップだったり、色んな近隣の国含めて行けたかなと思うんですけど、あの時に自分の感覚で決めたので、それに対しては今でも自信を持っています。ただ、1年だけで帰ってきたので、いずれもう1回、英語圏の国に行きたいなと思って、オーストラリアに行きました」

 Jリーグに戻った太田は、FC東京から名古屋グランパスへの移籍を経て、2020年冬にオーストラリアのパース・グローリーへ。再び世界へ飛び出した。

 パースはオーストラリア大陸の南西部に位置し、地理的に他のクラブと離れているうえ、コロナが猛威を振るっていたため、通常の海外挑戦以上に過酷な環境だったようだ。
 
「僕のチームだけ離れていて、他は全部東のほうなので移動が過酷でした。飛行機の移動だけで5、6時間あるし、時期によっては時差も2、3時間ありますし。だから、試合前日は練習する時間がないので、移動だけでした。

 それにオーストラリアは、コロナに対して特に厳しかったです。州によってルールが違うんですけど、パースから1回出たら戻れなくなったり、戻るとしたら2週間隔離みたいな。結構それに振り回されましたけど、家族との時間を多く作れて、Jリーグよりもプレッシャーがなくて、本当に最後、サッカーはもちろんだけど、家族との生活を優先した移籍でした」

 日本とは季節が真逆の南半球で2シーズンを戦った太田は、2022年夏に生まれ故郷である町田に帰還。異国で培った経験もフルに発揮し、クラブ史上初のJ1昇格という有終の美を飾ったのだった。

取材・構成●有園僚真(サッカーダイジェストWeb編集部)