覚える力を高めるためには?(写真:miya227/iStock)

世界的脳研究者として、ノーベル医学賞決定機関「カロリンスカ研究所」で培った最新知見を発信している『一流の頭脳』の著者アンダース・ハンセン氏。
最新脳科学の見地から、あらゆるパフォーマンスを上げる方法について2000件以上医学記事で伝えてきた同氏ですが、本記事ではその中から1つ、「記憶力」について取り上げます。

「記憶力」は脳科学における1、2を争う大きな研究テーマで、世界中で日夜リサーチが進んでいます。

そんな研究の世界で、絶対解として結論づけられているのが「動かずに覚えるより、動きながら覚えたほうが定着率ははるかに高い」ということ。じっと机に座ってモノを暗記するより、動きながら記憶したほうが脳への定着率は段違いによく、記憶できる量も増えることが確認されています。

これは数々の実験で確かめられていて、単語テストを受ける際、運動しながら(あるいはしてから)暗記すると、何もせずに暗記した人より「覚えられる単語数が20%増えた」というデータがあります。

ほかにも、フィットネスバイクをこいでから暗記テストを受けるグループと、何もせずにテストを受けるグループを比較した実験では、計測して早々差が開き、6週間後にはフィットネスバイクをこぐグループが圧勝した、という報告もあがっています。

物覚えがいいのは「早歩き」な人

記憶力をつかさどるのは脳内の「海馬」と呼ばれる部位で、この海馬の実態を調べた「120名規模のアメリカの実験」があります。

1年の間隔を空けて2回、被験者の海馬の大きさをMRIで計測する形で行われ、実験に先立ち、一方のグループには持久力系のトレーニング、もう一方のグループには心拍数が増えないストレッチなどの軽いエクササイズをするよう指示されます。

1年後、それぞれの海馬の大きさが計測されると、ストレッチのグループの海馬は平均1.4%縮んでいたのに対し、持久力系のトレーニングをしたグループは平均2%以上大きくなっていました。

海馬が大きくなった人たちが取り組んだのは、決して激しい運動ではありません。やったのは、「週に3回、40分早足で歩く」だけ。週に数回ほど早足で歩いたり走ったりするだけで、記憶力を強化できることがわかったのです。

ここでお伝えしたいのは、どれだけ暗記テストで高得点をたたき出した人も、また、スケジュール帳の予定を忘れたことがないという自負がある人も、「記憶」にとって有効な手を打たないかぎり、必ず記憶力は下降の一途をたどる、ということです。

この理由は、「私たちの脳細胞は、毎日驚くべきペースで死んでいる」という目を背けたくなる事実にあります。

「記憶」とは紛れもなく脳によって行われる作業ですが、25歳を超えると脳細胞は1秒で約10万個も死んでいきます。それも、毎日24時間、絶えることなく、です。

また、「海馬」も1年で約1%ずつ小さくなります。

認知症などの疾患にかかっていなくても、放っておけばものすごい勢いで脳は「記憶しにくく」なっていくのです。

脳研究の世界で一大ブームの「BDNF」とは

なので、物覚えが悪くならないためにも、そして積極的に記憶力を上げる意味でも、「脳細胞は毎秒死ぬ」という事実を踏まえた有効な対策を打っていく必要があり、その対策こそが「運動」というわけです。

なぜ運動によって脳細胞の運命に逆行できるのかというと、体を動かすことで「BDNF」という脳内最強と呼ばれる物質が分泌されるためです。

この「BDNF」が分泌されると脳内のつながりが強化され、情報の伝達が驚異的に早まることがわかっていて、「BDNF」は科学者の間で「奇跡の物質」とも呼ばれています。

フィットネスバイクをこいだり、早歩きをしたりして記憶の定着率が高まったのも、「BDNF」が分泌されて記憶を補助したため、というわけです。

この「BDNF」が今、医学研究においてブームになっています。

BDNFが分泌されることで、

脳細胞が傷ついたり、死んだりするのを防ぐ
脳の細胞間のつながりを強化し、学習や記憶の力を高める
脳の細胞新生を促し、新しく生まれた細胞の生存をサポートする

など、脳にとって計りしれないメリットがもたらされることがわかってきたのです。

では、どうすればこの「BDNF」を分泌させて記憶力を強化することができるのでしょうか?

その条件も、最新科学は解明しています。

実は、どんな運動をするかによって高められる記憶力の種類は異なります。

暗記力=ランニング(30分までが限度)や少し長めのウォーキング
連想記憶力(顔と名前を一致させるなど)=筋力トレーニング
カギをどこに置いたか思い出すような記憶力=ランニングと筋力トレーニングの両方

あらゆる種類の記憶力を高めたいのであれば、ランニングと筋力トレーニング、両方をおすすめしますが、もしどちらかを選ぶのであれば、現代科学では「ランニングなどの有酸素運動」がベターとされています。

また、暗記力をできるだけ早く、そして最大限に上げたい場合、「歩きながら単語を覚える」など、運動と暗記を同時に行うことも科学は推奨しています。

「マラソン」をすると記憶力が下がる?

では、運動すればするだけ記憶力は上がるかと言われると、そうではありません。マラソンやトライアスロンのような過酷な運動は脳や記憶力にはプラスよりもマイナス面のほうが多い、というのも科学の現在の見解です。

アメリカのある研究チームは「運動による記憶力強化の限界」を調べるため、たくさんのマウスから走るのが好きなマウスを選んで交配し、走るのが何よりも好きなマウスを創り出しました。

その中からさらに一番よく走るマウス同士を交配し、さらに次の世代の一番よく動くマウス同士を交配……このように交配を重ね、とうとう普通のマウスの3倍もの距離を自ら走る「マウス版ウルトラランナー」が誕生しました。人間が20〜30キロ走るのに等しい距離を1日で走る、超人マウスです。


科学者たちはこのマウスの記憶力を調べるため、迷路に入れました。普通なら、よく走るマウスは運動によって記憶力が強化され、新しい空間を早く把握することができます。

しかし、この超人マウスは意外なことに、迷路を抜けるのに普通のマウス以上に時間がかかりました。さらに、ストレスホルモンのコルチゾールの血中濃度も高かったことがわかったのです。

脳が恩恵を受ける運動量には限度があります。それを超えるとストレス反応が抑えられるどころかむしろ強く作用して、記憶力の低下を招くというわけです。

覚える力は少し体を動かすことで高められる――このことから、試験勉強や仕事関係で何かを覚えるとき、「散歩に行っている暇はない」と決めつけないほうが得策です。

その散歩の時間は、思いがけず「脳の貯蔵庫」にとって有益なものになるのですから。