2023年9月7日にこども家庭庁が発表した「令和4年度 児童相談所における児童虐待相談対応件数」によれば、全国232か所の児童相談所への相談件数は過去最多の21万9170件(速報値)にのぼっている。

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 そのうち、12万9484件(59.1%)を占め、最多の相談件数となっていたのは、「心理的虐待」である。今もなお増加傾向にある「心理的虐待」とは、いったいどのような虐待なのか――。

 ここでは、フリーライターの姫野桂氏が心理的虐待について徹底的に取材し、その実態を綴った『心理的虐待 〜子どもの心を殺す親たち〜』(扶桑社)より一部を抜粋。心理的虐待サバイバー・渡辺河童さん(ペンネーム・53歳・漫画家)の経験を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)


写真はイメージ ©takasu/イメージマート

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母親から「あんたなんか産まなきゃよかった」と人格否定

 物心ついた頃から両親に言葉と暴力の虐待を受けていた渡辺さん。母親からは「あんたなんか産まなきゃよかった」「あんたのような××××はうちの子じゃない」、父親からは「お前は馬鹿か」「お前の頭は帽子の土台か」など、人格否定をされる言葉を投げつけられていたという。それに対し渡辺さんは「はい、ごめんなさい」と答えていた。

 暴言だけではない。小さい頃から絵を描くのが好きで、図画工作の時間に絵が上手に描けたとき、多くの子どもがそうするように、得意げに親に見せたことがあるという。しかし、親から返ってきたのは、「褒めてほしいわけ?」という素っ気ない返事だけだったという。

「自分が虐待を受けていることに気づいたのは、小学校低学年のときです。今まで親がひどい言葉を子どもに言うのは普通だと思っていたのですが、小3のとき友達の家に遊びに行ったら、その友達のお母さんがすごく優しくて、自分の親はおかしいのだと初めて気づきました」

 もちろん、渡辺さんのご両親も、機嫌がいいとモノを買ってくれた。だが、暴言をぶつけられるときとのギャップのせいか、渡辺さんはいつしか親の顔色をうかがい、買い物の際は荷物を持ってあげ、自分ができることを、とにかくやるようになっていたという。

漫画家になりたい」という夢に対して、親が放った驚きのひと言

 家は商売をやっていたため、両親が家にいる時間は短く、いわゆる「鍵っ子」だった。

「ある日、風邪で学校を休み、1人で家で寝ていたら、隣の席の女子がお見舞いに来て、少女漫画雑誌の『りぼん』を持ってきてくれたんです。当時は少女漫画を理解できなかったのですが、漫画っておもしろいなと思い、父親の機嫌がいいときに『漫画を買ってください』とお願いしたことがあります。すると、『ブラックジャック』の6巻を買ってきてくれました。読んだら夢中になってしまって。これが僕が漫画家になりたいと思ったきっかけです。でも、親に『将来は漫画家になりたい』と言うと『そんなヤクザな仕事はやめなさい』と言われました」

 また、渡辺さんはFtX(生物学的には女性として生まれたが性自認が男性にも女性にも当てはまらない)のXジェンダー当事者でもある。

 渡辺さんは、小学校3年生の頃から女性である自分の生物学的性に違和感を抱き始めた。このくらいの年齢から男子は男子で、女子は女子で遊び始める。男子はサッカー、女子はゴム跳びをして遊んでいる中、渡辺さんはどちらにも入れず、「オトコオンナ」と言われていじめを受け始めた。中学に入ると制服でスカートを履かないといけないのが苦痛だった。高校に入ると、もうスカートが我慢できなくなりジャージで登校するようになったという。

「でも、いつもジャージ姿でいる僕を見かねた理解のある先生が、あるとき学ランをプレゼントしてくれたんです。当時はまだLGBTQなんて言葉はなかったのに僕が男になりたいことを気遣ってくれてすごく嬉しくて、それからは毎日学ランを着て登校しました。高校在学中は漫画を描くための画材を買いたくて、バイトも始めました。でも、親にはせっかく働いて買った画材を捨てられました。Gペンなんて、ポッキリ折られました。画材だけじゃありません。お気に入りのレコードも真っ二つに割られていました。また新たな画材を買って隠しても探し出されて捨てられていました」

17歳のときに、親から逃げて一人暮らし

 家にいると好きな漫画を自由に描けない。そんな思いから中高生の頃から家を遠ざけ始め、友達の家に外泊することが増えた。そして、17歳になると、家を出て一人暮らしを始めたという。家賃は3万円で風呂・トイレは共同。当時は審査なども緩く、保証人の書類に自分で親のサインを書いて、「親にサインをもらいました」と不動産屋に提出すると、すぐに新居に入れた。

 渡辺さんの漫画関係のものをすぐに捨てるわりには無関心なところもあり、親は渡辺さんが家を出ていく準備を着々と進めていたことにも気づかず、引っ越してからも特に連れ戻しに来ることもなかったという。

 一人暮らしをしてようやく親から解放されて自由になれた。

「高校卒業後はそのままエスカレーター式で入れる短大に進学し、幼児教育学を学びました。なんだかんだ学費は親が払っていたようです。短大在学中も漫画を描き続け、卒業後は1年間原宿のクレープ屋で働きながら漫画家を目指していました。そんなとき、漫画家志望仲間が同人誌を作るという話になり、『あと3ページ足りないから何か描いてほしい』と頼まれました。それで3ページ分のイラストを描いたのですが、それがとある編集者の目に留まり、商業漫画家としてデビューすることができました。ちなみにデビュー作は成人向け漫画です。漫画家デビューできたことが嬉しくて親に報告したら、やはり『そんなヤクザな仕事はやめろ』と反対されました」

 親にはそう言われたものの、渡辺さんは念願の漫画家デビューを果たす。その後、漫画の仕事をしながら自営業でホームページを作成する仕事も請け負っていた。彼女もできて同棲をしていたがある日、仕事の打ち合わせに出かけようとした瞬間、体が動かなくなってしまった。

「クスリを大量に飲んで自殺をはかりました」うつ病になり2度の自殺未遂…虐待されて育った漫画家(53)が心に負った“深い傷”〉へ続く

(姫野 桂/Webオリジナル(外部転載))