「苦しみのぶんだけ、ひとつひとつの出来事に喜びを感じ、先生や親御さんと心を開いて語り合えたように思います」(撮影:宮崎貢司)

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現在放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』は、日本初の女性弁護士の1人で裁判官にもなった三淵嘉子さんの人生をもとにしている。ドラマでも描かれたように、母校の明治大学専門部女子部は当時の女性が法学を学べる限られた場であった。それから18年、手塚正枝さんはOBの三淵さんの講義を受け、弁護士になった。4人の子を持ち、長女の難聴と向き合いながらも法曹の仕事を諦めなかった、その人生を聞いた(構成:山田真理 撮影:宮崎貢司)

【写真】手塚さんと共に学んだ、第9期司法修習生の女性たち

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<前編よりつづく>

育児を通して得た素晴らしい出会い

長女が難聴であるとわかったのは、2歳の後半のときです。耳が聞こえないのではないかと疑いながらも、目の動きは素早い、などと不安を打ち消していたら、友人から受診を促されました。そして大学病院で先天性感応性難聴との診断を受けたのです。

すぐには受け入れられず、さらなる検査を望む私に医師が紹介してくださったのは、早期教育の場でした。長い病院めぐりや鍼治療の末にようやく教育のことを考える、という人が多い時代でしたから、いまは医師にとても感謝しています。そうして「母と子の教室」へ辿り着いたのは、長女が3歳のときでした。

「母と子の教室」は耳が不自由な子どもたちの残っている聴力を、補聴器をつけることで最大限に活かす、という早期教育に取り組んでいた民間施設です。66年に小林理学研究所の付属施設として発足したばかりで、東京教育大学附属ろう学校教諭だった金山千代子先生が室長を務めていました。

耳の不自由な人のコミュニケーション方法をめぐっては、さまざまな意見があるでしょう。ただ当時は、口語学習の妨げになるとの理由で、ろう学校では手話言語の使用が禁止され、偏見との闘いが長く続いている時代でもありました。

金山先生は親子の日々の対話を通して子どもが無理なく言葉を学び、コミュニケーションを深めることで、言葉だけでなく社会性や判断力も身につく、という考えでした。

耳以外にも指文字、身振り手振り、文字、表情、唇の動きなどのすべてでコミュニケーションをとることを大切にしていたのです。

入室前には「両親講座」を受け、母親だけが頑張るのではなく、家族で協力し合うというのも先生の方針でした。このような〈親子〉を軸にした教育理論は難聴児に限らず、すべての子どもの教育に通じるもの。ぜひここでお世話になろうと思い、長女は幼稚園と並行して、週2回、「母と子の教室」に通うようになりました。

親としてつらいのは、「音がほとんど聞こえない」のがどういう状態なのかわからないことです。単に小さく聞こえるものと思っていたら、それだけではなく、音が歪んで聞こえているんだとか。そうと知ったときは驚きました。

72年には金山先生が教育の一環として「親の会」をつくることを提案され、多くの親の賛同を得て「母と子の教室 親の会」が設立。微力ながら私は会長になりました。

ボランティアの方を含めた尽力による「おたより」の発行、勉強会の開催、年に2度の合宿、毎月の幹事会、年1回の総会、のすべてを会費で運営。一仕事終えた後の懇親会では、子どもについての相談や情報交換、家庭の愚痴まで飛び出して楽しいものでした。

合宿には医局の先生方が来てくださり、普段は教室に通えない遠方の会員も参加して、夜遅くまで語り合いました。

子どものハンディキャップを代わってやることはできません。でも苦しみのぶんだけ、ひとつひとつの出来事に喜びを感じ、先生や親御さんと心を開いて語り合えたように思います。

「母と子の教室」は現在、耳の不自由な当事者とその家族、専門家の三者で力を合わせる一般社団法人「トライアングル金山記念聴覚障害児教育財団」へと発展。

最近まで長女は地方公務員として働く傍ら、トライアングルの仕事にも関わっていました。自分の経験を活かして活動していることが、親としてなにより嬉しいですね。

長女が小学1年生のとき、自治体の広報紙で「家庭文庫を開いたグループに、図書館の本を貸し出します」という知らせを読みました。

家庭文庫は、個人が自宅と蔵書を開放して、近所の子どもたちに本を貸し出す活動。耳からの情報量が少ない長女にはたくさん本を読ませたかったので、家庭文庫をやってみたいと思うようになりました。

PTAで話すと大勢のお母さんが賛同してくれて、受付などを手伝ってくれることに。場所は自宅の庭に据えたプレハブ。近所に住む友人が手放すというので、もらい受けたのです。こうしてできた「みどり文庫」は、毎週水曜の放課後に開かれるようになりました。

みどり文庫のために毎月図書館に行って、借りられる限界の100冊まで本を借りてくださる熱心なお母さんもいて、私ひとりではとても続けられなかったと思います。

「子どもは社会が育てる」ことを教えてもらった大切な時間でしたし、周囲に長女のことを知ってもらういい機会にもなりました。

このときのお母さん仲間とはいまでも週に1度、わが家で女子会を開くほど長いお付き合いが続いています。ランチの前に、まず全員でお習字をするのですよ(笑)。達筆だった母の字には、いまだ敵いません。


第9期司法修習生は女性が9名、と画期的に多かった。そのうちの8名。左から3人目が手塚さん(写真提供◎手塚さん)

人生はいつも行き当たりばったり

家事育児、「親の会」の仕事、弁護士業務に3分の1ずつの割合で力を注いだ時期は長かったですね。そんな生活でも国選弁護は必ず引き受けていました。

71年からは家庭裁判所の参与員を、3年後からは調停委員にもなり、70歳の定年まで務めました。

参与員は家庭裁判所で家事審判を行う際、手続きに立ち会ったり、意見を述べたりする人。紛争の解決策を考えるため、当事者の言い分や気持ちを十分に聞きながら話し合いを進めていくのが調停委員です。

夫が2016年に亡くなってからは、次男と私で弁護士事務所を引き継ぐことに。裁判所に出席するような長期にわたる仕事はさすがにもうできませんが、法律に関するこまごまとした相談を受ける仕事は続けています。

18年前に引き受けた後見人の仕事も引き続き行っているところです。その方には障害があり、ヘルパーの派遣や車椅子の支給等を、障害者福祉により無料で受けていました。しかし65歳を過ぎて介護保険サービスに切り替わった途端、すべて有料となり、障害年金では賄いきれなくなってしまったんですね。

月に1度ケアマネジャー、ヘルパー、ときには通所施設の指導員とご本人とでいろいろ話をするのですが、ご本人には赤字であることがなかなか理解されません。また将来の生活についてご本人の希望と現実のギャップが大きく、明るい見通しを立てることができないのも悩みの種です。

弁護士を67年間やってきましたが、感謝されるばかりではありません。恨まれることもたくさんあります。人間同士の間に入る仕事ですから、一所懸命になりすぎてもうまくいかない。何年続けても簡単な仕事ではありませんね。

こんなふうに月に平均3、4回ほど事務所に出ます。長年、資料の入った重たいバッグを片方の肩にかけて歩いたせいで背骨と椎間板を痛め、杖とコルセットが相棒に。でも電車で通勤し、事務所のあるビルにエレベーターがなくても2階まで上り下りできています。

これはたぶん、「かもめ」という女性ばかりの自主水泳グループで、50年ほど泳ぎ続けてきたからでしょうね。素晴らしいコーチにはボランティアで指導していただいていることもあり参加費は格安なんですけれど、かつてお世話になった大先輩のコーチがいま私たちと一緒に習う側にいたりして、面白いですよ。

最盛期は100名以上が在籍していたのですが、徐々にメンバーが減ってきているので、これをお読みになった東京・高島平がお近くの方はぜひ。(笑)

思い返せば、私の人生はいつも行き当たりばったり。先を見据えてプランを真剣に考えたこともなく、目の前に起きたことを、どうにか乗り越えてきただけなのです。

母は、友人の大切さを常々口にしていて、物のない時代でも私や弟の友だちをもてなし、良い話し相手になってくれたものでした。私が東京に出てからも、友だちは私の母のところへ遊びに行ったほどです。

ともに司法研究所に入所した第9期は女性が9名と、それまで多くて3名だったのに比べると画期的に多く、2名が裁判官、私を含めた7名が弁護士になりました。

同期の1人が『私は主婦弁護士』という本を出したときはみんなで集まってお祝いしたことなどを思い出します。そうして多くの喜びや悲しみを同期で分かち合ってきました。いま元気なのは2人だけとなり、寂しい限りです。

私は、「お医者様は体の困りごとを、弁護士は心の困りごとを治す」という母の言葉を頼りに仕事を続けてきました。結果的に、かつて目指した教師よりも長く現役で働くことができているのですから、人生は面白いものです。

両親の導きや多くの素晴らしい先生、よい仲間や友人に恵まれて、いまの人生がある。いつも感謝しながら日々を過ごしています。