「(祖父・渋沢栄一は)私にとってはただただ優しい、愛情あふれるおじいさま。それは家族だけにとどまらず、人間全体に向けられた、広範囲の愛であったように思います。」(撮影:宮崎貢司)

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2024年7月3日より、新紙幣の発行が始まります。一万円札の肖像は、福沢諭吉から渋沢栄一に。五千円札の肖像は、樋口一葉から津田梅子に。千円札の肖像は、野口英世から北里柴三郎に。今回、渋沢栄一の孫・鮫島純子さんに祖父との思い出を聞いた『婦人公論』2021年7月13日号の記事を再配信します。*****明治から昭和にかけて活躍した実業家・渋沢栄一。大河ドラマ『青天を衝け』の主人公としてその生涯が注目を集めている。栄一の孫として生まれた鮫島純子さんは、70代でエッセイストデビュー。祖父との思い出やその哲学を語り継ぐことをライフワークにしてきた。溌剌とした毎日を送る鮫島さんを支えるものとは(構成=平林理恵 撮影=宮崎貢司)

【当時の写真】渋沢栄一を囲む息子や孫たち。鮫島さんも一緒に

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孫に対してもていねいな言葉遣い

祖父である渋沢栄一が亡くなったのは、1931年11月11日。私が数えで10歳のときでした。ですから残念ながら、血気盛んな幕末の青年志士であった渋沢栄一も、銀行や証券取引所など500を超える会社を興し、《日本の資本主義の父》と呼ばれた渋沢栄一も、この目で見たわけではございません。

私にとってはただただ優しい、愛情あふれるおじいさま。それは家族だけにとどまらず、人間全体に向けられた、広範囲の愛であったように思います。

「自分一人が幸せであっても嬉しくはない。みんなが幸せであってほしい」。これが祖父の信条であり、四男である私の父・正雄は、そんな祖父を心から尊敬し、同じ道を志しておりました。そして、私の中にも、ささやかながら同じ思いが流れているのを感じます。

祖父が晩年を過ごした東京・飛鳥山の家はかつての別荘で、海外からの賓客のおもてなしの場でもあったそうです。広い日本庭園があり、ここで従兄姉たちとかくれんぼをしたり、大縄跳びをしたりするのがとても楽しみでした。

私が育ったころは、独立した祖父の息子たちの家が近所に点在していました。時折の土曜日には孫たちも祖父の家に集まります。着くとまず、ご挨拶。ひとりずつ「ごきげんよう」と進み出ると、祖父は「よう来られたな」と頭をなで、榮太樓の梅ぼ志飴を一つずつ口にいれてくれました。

孫に対してもていねいな言葉を使い、いつも穏やかな人でしたから、叱られたことは一度もありません。優しさの中にも威厳があり、みんなが尊敬しているらしい雰囲気は、子どもながらに感じていました。

「戦争を止める努力をなさる方が…」

祖父が有名な人だと知ったのは、亡くなる1ヵ月前ごろから、新聞で祖父の病状──その日の体温や脈拍など──が報道されるようになってからです。学校でも「お見舞い」を言われるようになり、病室から私たちが出て行くと、さあっと新聞記者の方が集まってきて「おじいさまは、今どんな具合ですか?」と取材されました。

亡くなったのは91歳、大往生でした。白い髭の顔が神々しく輝いているように見えたことを覚えています。納棺のときに、石でとんとんと叩いて棺の蓋を閉めるまねごとをしました。そのとき祖父の長女の歌子伯母が、「これで戦争を止める努力をなさる方が、またお一人減ってしまわれた」とつぶやいたのです。

それを聞いた私は、「えっ、世界の戦争を止める? おじいさまってそんな力がおありなの」と驚きました。もしかしたら、あのときようやく、私は祖父という人をしっかりと認識したのかもしれません。

歌子伯母のつぶやきの真意は幼い私には理解できませんでしたが、強烈な印象として残っています。徹底した平和主義者の祖父。世界が平和でなければ人類の幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せとは思えない──そう考えていたことを、私は父から、あとになって教えられました。

日米の国民感情の悪化に胸を痛めていた晩年の祖父が、関係改善を願ってお手伝いしたのが「青い目の人形交換」です。

27年に親善人形が届いたとき、人形受け入れの式典が日本で行われたのですが、祖父に手を引かれて壇上に上がる4歳の私の写真と、「孫の純子嬢が泣いて(栄一が)困った」という、私にとってははなはだ不名誉な記事が残されています(笑)。あのときは、確か、カメラのマグネシウムフラッシュにびっくりして泣いたんですが。

「女心ってそういうものなのか、よくわかった」

42年に女子学習院の高等科を卒業した私は、翌4月に岩倉具視の曾孫にあたる鮫島員重と結婚します。日本は戦時下。すでに配給制が始まっており、物不足の不自由なときです。私は鮫島家の嫁として夫を支え、居心地のいい家庭を作ろうと一所懸命でした。

しかしその矢先の9月、父が55歳の若さで亡くなってしまったのです。鮫島家は二代続く海軍の家でしたが、夫は近視のために軍人になれず、サラリーマンの道を歩んでいました。鮫島家が私を嫁にもらった背景には、実業界で活躍する父の存在がプラスに働いていたことでしょう。

夫に申し訳ない気持ちでいっぱいになって、それでお葬式の後、「お父様のこともあってもらってくださったのでしょうに、申し訳ありません」と謝ったら、「そんなことはない。そんなふうに考えるな」と叱られてしまいました。

長い結婚生活のあいだには、万事夫の意のままに、というわけにはいかないことも起こります。話し合いを持とうにも、夫は毎晩夜中に疲れきって帰ってくる。そこで伝えたいことがあるときには、手紙に書いて夫の枕元に置くようにしました。

最初に書いた手紙のことはよく覚えています。夫の尊敬する上司が30代の若さで亡くなられたとき、最後までご家族の力になったのが夫でした。

上司への尊敬からの行動でも、奥様にしてみれば親切な男性ですから、何かにつけて頼られる。誠心誠意応えているうちに、親しくなっていくのは当然でしょう。それで手紙を書くことにしました。感情を抑え、ユーモアも交えて語りかけるようにしたのです。

枕の上の手紙を見つけた夫は、目を通し、「女心ってそういうものなのか、よくわかった」と言ってくれました。こうして手紙で伝えて、理解し合ってきたからでしょうか、結婚生活を通して一度も言い合いをしたことはありませんでした。


鮫島さんが闘病中の夫のため描いたスケッチ。街で見かけた女性たちのファッションを、ユーモアあふれる文章とともに紹介している

現役時代は仕事ばかりの夫でしたが、退職後は一緒に過ごすことが多くなりました。彼を車でゴルフ場に送って行ったときは、帰りを待つ間に車中で絵を描くことも。夫にスケッチを見せましたら、「おれも絵を習おうかな」と言い出しました。でも彼が描くものを見ましたら、あまりにお粗末なの。(笑)

これではお教室に入ってもすぐ辞めたくなるのではと案じましてね、まずは絵の通信教育の受講を勧めました。次に区の絵画教室に申し込み、一緒に自転車で公民館に通ったのです。腕を上げたところで、夫はカルチャースクールの水彩画講座に入会。私は水墨画を習い始めました。

夫のスクールで海外にスケッチ旅行へ行くときには、私も同行しましたし、夫は私の描くものにも興味津々で、自宅でも旅先でも絵についてたくさん語り合いました。晩年に共通の趣味を持てたことは、本当に幸せだったと思います。

夫のために書いた絵巻物が、78歳の時絵本に

58年連れ添った夫が亡くなってから22年経ちます。亡くなる数年前にがんであることがわかりましたが、夫は手術も投薬も放射線治療も望まず、自宅で自然に逝くことを選びました。

療養中、外に出られない夫に私が街の様子などを聞かせていたのですが、当時の若い女の子たちに流行していた「ガングロ」も「ヤマンバメイク」も「へそ出しルック」も、夫の想像をはるかに超えているらしく、どんなものかが全然伝わらないので、障子紙を貼り合わせて巻物のようにした紙に描いて説明することを思いつきました。それを見た彼がとてもおもしろがってくれて。いつのまにか長い長い絵巻になっておりました。

夫は「存分に人生を楽しませてもらった、悔いはないよ」という言葉を残して旅立ちました。葬儀後、霊前にその絵巻物を置いていたら、いらした出版関係の方の目にとまって。思いがけず絵本になり、78歳にしてデビューです(笑)。その後、出版社から何冊か執筆を頼まれ、講演会のご依頼もいただくようになりました。

私が98歳の今もこうして元気でいられるのは、台湾出身の医師の荘淑先生(故人)のご指導のおかげです。

先生との出会いは40年ほど前。夫とお詣りがてら毎朝明治神宮の境内を散歩するのが日課になっていたのですが、荘先生が独自の体操を指導しておられるところに通りかかり、飛び入りで参加させていただきました。先生は、毎朝散歩している私たちを遠くから見ていらしたとのことで、正しい姿勢で歩かないと健康効果は少ないと指摘してくださったのです。

以来、漢方医学に基づく食生活や、正しい姿勢の保ち方を教わり実行してきました。朝は日の出とともに起床。夕飯は軽く、朝はしっかりいただくこと。背筋を伸ばしたいい姿勢で歩き、マメに体を動かすよう心がけています。

80歳から社交ダンス、90代でヨガデビュー

歳を取って若い人たちに下の世話をしてもらうことになると申し訳ないので、今もひとり暮らしを続けております。

夫と一緒に散歩をしていたころは、1時間かけてご境内を1周していたのですが、ひとりになるとつまらなくて、半周になりました。そのぶん体を動かさなくてはと考えて、80歳から社交ダンス、90代に入ってからはヨガを始めました。

私の娘時代は、ダンスにうつつを抜かすことなんてとてもできませんでしたが、今はいい時代ですね(笑)。音楽に合わせて体を動かすのは、歳も忘れる楽しさ。ふだんの生活では着られないような華やいだドレスを着るのも、お化粧で化けるのも嬉しいものです。

95歳で車の免許を返納してからは、ダンス教室に通い続けることもできなくなってしまいましたが、ヨガはお教室が近所なので、今も続けています。意識して腹式呼吸をすると、とっても気持ちがいいんです。


「身近にある小さな幸せに感謝し、「自分は幸運な人間だ」と思い込んでいると、何ごとも幸せに感じられるようになってくる。」

「お運の悪い純子様」と呼ばれたけれど

なんでも好奇心を持って試してきましたが、もっとも健康を左右するのは、心の持ち方でしょう。荘先生も、「前向きな気持ちが自然治癒力を高める」とおっしゃっていました。今も私が日々健康で前向きにいられるのは、50年以上かけて、その思考を培ってきたからだと思います。

「肉体は魂の容れ物である。容れ物は衰えても、魂は何度も生まれ変わり学びながら成長する」という考え方を身につけてから、何ごとも前向きにとらえられるようになったのです。

「当たり前」と思って感謝を忘れていたことに感謝できるようになりましたし、嫌なことや逃げたい相手に対しても「宿題」と受け止め、乗り越えたらまた感謝。人のせいにしない、自分を磨くために感謝は必要なことなのだと考えられるようになりました。

このようにお話しすると、「もともとそのようなお考えだったのでしょう?」と言う方もいらっしゃるかと思いますが、むしろ逆でした。子どものころから姉妹の中で私だけが幼稚園の入園試験のくじに落ちたり、遠足や運動会の日に雨が降ったり。使用人たちが「純子様はお運が悪い」と言うので、私もそう思い込んでいました。

でも、後年になって気づいたのです。運はどこかから偶然やってくるものではなく、自分が作り出すものなのだ、と。自分は不運な人間だと思えば、どんどん悪い出来事が起こりますし、愚痴や悪口を言えば、心が必ず淀んでいきます。

身近にある小さな幸せに感謝し、「自分は幸運な人間だ」と思い込んでいると、何ごとも幸せに感じられるようになってくる。実際に声に出せば、より効果が高まります。よい言葉は自分も周囲も幸せにし、よい結果をもたらしてくれますから。日本には古くから言霊という考え方がありますね。声にした言葉が現実にもよい影響を与えていく。

財産も名誉も、あの世には持っていかれない

歳を重ねれば、病気やけがも増えてくるでしょう。ネガティブとされることですが、私は、よい学習の機会だと思っています。

以前、骨折して約1ヵ月間入院することになりました。それまで大病をしてこなかった私は、このとき初めて体がお悪い方の気持ちを知ることができたように思います。体に不調のある方の立場に立ち、思いやりの心をいっそう深める。病気やけがという体験には、そんなプラスの面もあると気づきました。

さらに3年前には、心筋梗塞で手術をしまして。もしかしたら死にどきだったかもしれないのに、長生きさせられちゃったの(笑)。いざそのときを迎えて苦しむのは嫌だなと思いますけれど、「めでたく卒業」と納得いく死ばかりではありません。何ごとも天が与えてくださる宿題なのでしょう。

財産も名誉も、あの世には持っていかれない。携えられるのは、この世で身につけた「想いの習慣」だけなのです。人生の折々に起きる問題にも、すべて意味があると考える──。それが、私なりに身につけてきた後天的ポジティブ思考。残り時間が少なくなってきました今、さらにこの習慣を心がけようと思っております。

それでも心がざわつくときは、私は祖父・渋沢栄一が目指したように、世界の平和を祈ります。そうすると、ネガティブな思いが消えて、本来の自分を取り戻せますから。焦らず、もがかず、感謝の気持ちを忘れず、あるがままに。