東京で生きる、孤独な男女。

彼らにそっと寄り添い、時には人生を変えてくれるモノがある。

ワインだ。

時を経て熟成される1本は、仕事や恋、生き方に日々奮闘する私たちに、解を導いてくれる。

これは、ワインでつながる男女のストーリー。

▶前回:「最近スキンシップがない…」付き合って3年、不満が募る26歳女に、男が放った冷酷な一言とは




Vol.14 腐っても…


〈プロフィール〉
名前:万梨(27)
職業:大手WEBメディア会社 総務職

「そういえば、この前の食事会、なんで総務の万梨ちゃん誘ったの?」

「あー、ちょうど1人足りなかったし、ああいう量産型のタイプは引き立て役に必要でしょ?」

月曜の昼、会社近くのカフェで1人ランチをしていると、営業部の派手な女子3人の会話が聞こえてきた。

― 量産型の引き立て役って…。私、そんなふうに思われてたんだ。

先週の金曜日、彼女たちが、突然食事会に誘ってきた。

営業部の彼女たちとは、業務上のことくらいしか話したことがなかったので、誘われた時には驚いた。

でも、3年付き合った彼氏と別れたばかりだった私は、出会いを求め参加したのだ。

その会で、確かに私は、当たり障りのない会話をしてやり過ごしていた。だから、自信に満ち溢れた女子の中で少し浮いていた自覚はある。

― だからって、引き立て役だなんて…。

静かに怒りを感じていると、突然携帯に見知らぬ宛先からLINEが入った。

『智です!他の子からLINEのID聞いちゃった。今度、よければランチでもしない?』

先週の食事会で出会ったIT企業勤務のイケメン智くんからだった。

― あの彼が私に!?

急に気分が良くなった私は、急いでランチを切り上げ、彼女たちに気づかれないようにカフェを後にした。





『男を喜ばせる会話の基本は“さしすせそ”』『愛されヘアメイク!』『今年のトレンド服はこれ!』

私は、ありとあらゆるインターネットや雑誌の情報を駆使して智くんとのデートに備えた。

“初デートを昼間にするのは、誠実さの表れ”ってネットに書いてあったから、私の期待は高まっていた。




デート当日。

彼が指定してきた渋谷の明治通り沿いにあるカフェレストランに向かった。

この日のために新調したパフスリーブのワンピースに、普段あまり履かない8cmヒールを合わせた。

「万梨ちゃん、今日は来てくれてありがとうね」

既に店に到着していた智くんが、笑顔で迎えてくれる。

「この前、万梨ちゃんに会って、かわいいなって思ったから、もう一回会いたいと思っていたんだ…。なんでも好きなもの食べて」

彼に褒められ、ウキウキしながら私は、キッシュプレートを注文する。

料理が来る前から智くんは、前のめりで私に色々質問してきた。




「万梨ちゃんって、普段どんな仕事してるの?」

「総務部にいて、一日中パソコンに向かってるよ」

「そうなんだ。その仕事ずっと続けるつもり?将来の夢とかないの?」

そんなこと最近考えたこともない、と答える私に、智くんは、自分の将来の夢について語りだした。

智くんは、今の仕事や副業について熱く語り、将来は海外に移住する計画だと話してくれた。

「万梨ちゃんも隣にいてくれたら嬉しいな」なんて言うから、嬉しくなってニコニコしながら話を聞いていたその時…。

「この水、良かったら試してみないかな?」

彼は鞄の中から1本のペットボトルを取り出した。

― …ん、水?

「僕も、昔、万梨ちゃんみたいに、ちょっと自信がない時期があったんだ。でも、この水を知ってから人生が変わったんだよ。夢を持った人たちのコミュニティがあってね…」

― …この手口。最近ネットニュースで見たわ。

智くんが私を呼び出したのは、被害が急増している、新手のネットワークビジネスの勧誘だったのだ。

私なら断らなさそうと思って、声をかけたに違いない。

「…ないで」

「ん?万梨ちゃん、どうしたの?」

「なめないで!みんな寄って集って私をバカにして!」

自分でも、驚くほど大きな声が出て、私はそのまま店を後にした。


怒りに任せて店を飛び出し、私は当てもなく渋谷の街を歩いていた。

悔しくて、情けなくて…。

でも、こうして人に感情をぶつけたのはいつぶりだろう、とふと考えた。

人に嫌なことを言われても、最近は、自分の感情を飲み込んで、その場をやり過ごしていた。

昔は、そうじゃなかったのに……。




こんな性格になった理由は、自分でもわかっている。つい最近、一方的に別れを告げてきた元カレ、岳の存在だった。

岳とは友人の紹介で出会った。

吉沢亮に少し似ていて、完全に私のタイプだった彼に惚れ込む形で、交際がスタートした。

岳は、表向きは爽やかで、社交的。でも、彼は徐々に男尊女卑の典型的なモラハラ体質の本性を見せてきた。

基本「お前」呼ばわりで、私のすることなすことを否定してばかり。

「お前なんかに、俺が付き合ってやっている」というスタンスで、他の女の存在を匂わせてくることもあった。

それでも彼のことが好きだった私は、何をするにも彼の顔色をうかがって機嫌が悪くならないように、彼に嫌われないことに全力を尽くしていた。

浮気の決定的な証拠を掴んで問い詰めたら、「努力が足りないお前が悪い」とまで言われ…。やっとそこで自分から別れを決意したけれど、私の心はボロボロだった。

別れてみれば、なんであんな男に夢中だったのか自分でも不思議になったけど…。

その時の癖が抜けず、私は、人に合わせて、顔色をうかがうようになってしまっていたのだ。

― そういえば、営業の女子も私のこと量産型女子って言ったな…。

間違いではないかもしれない。人に合わせて、カメレオンのように溶け込むことで安心しようとしていた自分がいたのだから。

トボトボと渋谷の街を歩いていたその時。

「万梨!」と自分を呼ぶ声がした。




声がする方に目をやると、地元埼玉の高校のテニス部で一緒だった未来子が立っていた。

「未来子!?なんでここにいるの!?」

彼女とは、大学生の時に会ったきり。久しぶりの再会だった。

「実は最近、渋谷にあるグルメサイトの編集者に転職したの。で、今は代官山に住んでるんだ」

高校時代、くだらないことをしてずっと笑っていた記憶が一気に蘇る。

お互いこの後時間があるとわかり、近況報告を兼ね一緒に食事をすることにした。

― さっきは、ランチを食べ損ねたから、ちょうどよかったわ。

渋谷スクランブルスクエアにある『ホセ・ルイス』に向かった。美味しいパエリアで気を取り直す。

食事が終わったあと、未来子からある提案を持ち掛けられた。

「今東京の飲食店を開拓中で、今度仕事で取材したいワインバーがあるんだけど、もしよければ付き合ってくれない?週末は、昼から店が開いてるの」

「もちろん!」


私たちは、タクシーで代官山まで移動した。

旧山手通りから一本入った通りにあるビルの3階にそのお店はあった。

少し暗い照明の店内は、落ち着いた雰囲気だ。

「へぇ、あの男子に混ざってケラケラ笑っていた万梨が、量産型女子ねぇ…。今日の男も災難だったね」

「自分でも不思議だよ。元彼と付き合ってから、自分の感情の出し方とか、わからなくなっちゃったのかも」

私は、グラスワインを何杯か飲み、つい愚痴っぽく未来子に話す。

「あ〜あ。私、気持ちが腐ってるわ…」




すると、隣に座っていたブルーのワンピ―スを着たオシャレな雰囲気の女性が、会話に入ってきた。

「うんうん、わかるわ。気持ちが腐る時期ってあるわよね」

「あ、すいません。彼女、若い女の子好きなので、つい話しかけちゃう癖があって」

連れの彫りの深い男性が困った顔で私たちに謝ってきた。よく見ると2人は、お揃いのゴールドの結婚指輪をしている。

― なんて素敵な雰囲気のご夫婦なんだろう。

「マスター、このワイン、少し彼女たちにもシェアしてあげてくれる?」

女性がそういうと、マスターは、私たちの前に黄金に輝くワインを差し出した。

― 綺麗な色…。

促されるまま、私たちが、そのワインを口にすると、初めて経験する濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。

蜂蜜のような…?いや、もっと高貴な…。しかも、かなりの糖度を感じるのに、全く重さやしつこさを感じさせない上品さがある。

「わ、美味しい!!!」

男性が私たちに向かって言った。

「銀婚式のランチの帰り、ここに寄ったんです。彼女がどうしても『シャトー・ディケム』を飲みたいというので。ボトルでは飲みきれませんし、飲んでいただけて嬉しいです」

― 銀婚式って、このオシャレなご夫婦は一体おいくつなの…!?

「ちなみに、このディケムは、ブドウをあえて腐らせてできる貴腐ワインといわれるものよ。人間もブドウも腐る時はあるけど、その後が大切ね」

「ブドウが腐ったあとにこんなに、美味しいワインができるなんて素敵ですね」

「人間もブドウも腐る時はあるけど、その後が大切。私たち夫婦だって、一緒にビジネスをやっていて、借金をした時期もあったし、本気で離婚だって考えた時期もあったけれど、乗り越えてきたし…」

その魅力的な夫婦の言葉や、甘く美しい味わいのワインの余韻に私たちは完全に引き込まれていた。

― ワインってすごい…。

女性の言葉に私たちは衝撃を受けた。

その夫婦に私たちは深々とお礼を伝え、甘く美しい味わいのワインの余韻にいつまでも浸っていた。




1ヶ月後。

「それにしても、万梨がワインバーで働き始めたなんて、ご縁って不思議ね」

取材のためにワインバーに訪れた未来子が私に言った。

あの日飲んだディケムがきっかけで、私は、ワインに目覚めた。

だから、マスターに頼み込み、週末を中心にワインの勉強を兼ねてここでアルバイトを始めたのだ。

最近スタッフが辞め、手が足りなかったというマスターは、私のバイトの申し出を快く受け入れてくれた。

まだ、グラス洗いや簡単な注文をとる仕事のみだが、今日は、取材の準備のお手伝いを終えたところだった。

「万梨、再会した時よりも、いい表情してるよね」

未来子の言葉を、自分でも自覚できていた。

― あの時、ディケムに出合えたからね…。

人の顔色をうかがって、自分を押し殺す生き方はもう卒業すると決めた。

ワインや、ワイン好きな人から学びつながる縁は深く、数ヶ月前には想像していなかった世界が今広がっている。

「万梨ちゃん、未来子ちゃん、この撮影で使ったグラスワイン、余ったからテイスティングで飲んでいいよ」

「やったー!いただきます!」

マスターは、嬉しくてケラケラと笑う私たちに、「まるで高校生みたいにはしゃぐね」と笑った。




◆今宵の1本


シャトー・ディケム

(Château d'Yquem)

フランス ボルドー地方 ソーテルヌ地区

セミヨンとソーヴィニヨン・ブランのブレンド、極甘口の白ワイン。

世界3大貴腐ワインの中でも別格と称され、1855年のソーテルヌ地区のワインの格付けでは、唯一の特別第1級という地位を確立させた。

貴腐ワインには、貴腐菌といわれるカビの菌が必要で、ブドウの表面についた菌が果皮を破壊し、水分を蒸発させることにより極甘口のワインが誕生する。

ソーテルヌ村には大きな2つの川が流れ、貴腐菌がつく条件が見事にそろい、100年以上の熟成にも耐えられる素晴らしい甘口ワインが生み出される。



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