田舎に住む人たちを襲うイノシシやシカによる「獣害」の実態に迫る(写真:mauribo/iStock)

丹精込めて育てた農作物の強奪、荒れ果てた田畑――日本では年々、イノシシやシカなどの野生動物による「獣害」が加速しつつある。獣害リスクの現状を森林ジャーナリストの田中淳夫氏が解説。新書『獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち』より一部抜粋・再構成してお届けする。

筆者は森林ジャーナリストとして、日本中の山・森林をめぐっている。その道中、山間の集落を訪れると、異様な風景に圧倒されることがある。集落周辺が柵だらけなのだ。

高さ2メートルぐらいはある金網が延々と延び、田畑などが柵で囲まれているのだが、まるで監獄のように見える。棚田の場合、山裾に柵が建設されるため、まるで山を柵で取り囲んだ砦のようだ。さらに平地の農地も柵が張りめぐらされ、道路と川に沿って迷路をつくっているかのような景観になる。ときに人家までモノモノしい柵に囲まれていることもある。もはや要塞である。


滋賀県の柵に囲まれた集落と農地(写真:筆者撮影)

さらに畑の周囲を柵で囲むだけでなく、その上、つまり畑のうねの上空までネットをかけて完全に塞いでいる場合もある。周辺の柵は主にイノシシやシカ対策だろうが、上部を塞ぐのはカラスなどの鳥に作物を荒らされないためだろう。こうなると柵というよりは、檻だ。そして、檻の中に入るのは人間だ。農作業は檻の中で行うのである。

ちなみに農地を囲む柵は、電気柵の使用が増えている。不用意に触れたら危険だ。人体に影響のない微弱な電流と聞くが、やはり感電したくない。自作の電気柵に家庭用の電源から電流を弱める安全装置なしで配線したため、知らずに小川から近づいた親子二人を感電死させてしまった痛ましい事件も起きている。こうした柵は、もちろん違法である。だが、通常の柵では防げないからやりすぎたのだろう。これが田園風景か。なぜ、こんな状態になってしまったのだろうか。

シカもイノシシも平気で柵を飛び越える

獣害対策の防護柵にも変遷がある。初期の柵は腰くらいの高さの簡易な柵だった。トタン板を並べ、針金を張っただけのものもあった。いかにも農家の自作である。これでは、イノシシは地面すれすれを掘って、くぐり抜ける穴をつくってしまう。柵を飛び越えるような害獣もいる。シカはもちろんイノシシもジャンプ力は意外とあり、容易に柵を飛び越えられる。そこでだんだん柵も高くなっていくが、体当たりで柵を破る害獣もいる。そこで電気柵を仕掛けるようになったわけだ。

しかし、万能ではない。イノシシは剛毛に覆われているから、電気柵に触れてもあまり電気を感じないらしい。唯一、鼻面は濡れているので触ると感電する。しかし鼻面に触るように電気柵を仕掛けるには工夫がいる。イノシシも、柵の弱点を探し出してしまう。また草が繁り、柵に触れると漏電しやすい。

住宅を柵で囲むのは、花壇や庭木が荒らされるからだという。シカは農作物でなくても植物性なら何でも食う。イノシシも油粕や鶏糞など有機肥料を撒いたところには、臭いに惹きつけられるのか、姿を現して掘り返す。そして植えたばかりの苗を全滅させる。またサルのように住宅の中に忍び込むケースもあるから、もはや空き巣・強盗対策と同じだ。

「鍵をかけなくても平気」と治安のよさを自慢していた田舎でも、サルの侵入を防ぐためには窓をしっかり締めて鍵をかける必要が出てきた。

近年は集落全体を防護柵で囲む対策もとられている。だが、道路や河川は封鎖できない。そこで、封鎖せずに道や河川から野生動物が入らないようにする工夫が必要となる。もっとも動物側も人の行動を観察して弱点を探している。そして侵入する可能性がある。

一方で、全然柵のない田畑も見かける。「ここにはイノシシやシカが出没しないのか」と期待したいところだが、ときとして農家の諦めの表れということもある。

よく見ると、農地は荒れてあまり世話がされていない。ほんの一部に少量の野菜がつくられているだけ。広い面積を耕しても鳥獣から守りきれないからだ。防護柵の設置や罠などの対策は体力とコストがかかる。高齢化の進んだ住人は、その余裕を失っている。

生きがいまで奪われる

こうした状況を見ていると、中山間地において獣害がもたらす最大の影響は、物理的被害以上に精神的なダメージではないかと思う。

農業は多くの場合、作付けから収穫まで数カ月〜数年の期間がかかる。その間、せっせと世話を見ることで作物にも愛情が湧く。最後の収穫が最大の喜びであり、生きがいでもある。そして動物が狙うのも最後の収穫物だ。ちゃんと実るまで待って狙うのだ。待望の作物を食われた作り手のショックは大きく、次の作付け意欲まで奪われてしまう。

いわゆる限界集落と呼ばれる地域では高齢化が進んでいるが、実は食うに困らない人も多い。年金があるからだ。子どもらは町に住み仕事に就いていて、「町で一緒に暮らそう」と誘ってくれるが、親の世代は「生まれ育った村で暮らす方が楽しい」と断る。

暮らしは自給自足に近くて、お金もあまりかからないから年金で十分。昔からの知り合いがいたら寂しくない。だから身体が動かなくなるまで集落に住もうとするのだが……そこに必要なのが生きがいだ。それが農業であったりする。食べるものをつくって金銭的に助かるだけでなく、実は生きがいとして精神的にも田舎の暮らしを支えているのだ。

それを破壊するのが獣害である。半年間、丹精こめて育てた稲や野菜類を一晩でやられてしまえば、絶望する。しかも他人のつくった米や野菜を、金銭で買わねばならない。もしかしたら意気消沈することで病気になる確率も増えるかもしれない。

加えて凶暴なイノシシやクマ、サルの出現は、身の危険を感じさせる。最近は昼間でも出没するから、田畑を訪れたときに鉢合わせする心配もあるのだ。農地だけでなく、山に山菜を採りに行くこともできない。これでは農山村の生活が成り立たなくなる。

「こんなはずではなかった」憧れの田舎暮らし

結果的に自ら集落を捨てることになる。仕事を奪われ、生きがいを失い、身に危険を感じては、いくら自らの故郷であっても住めない。


過疎化の原因は、子どもらの教育や就職先、農業の衰退、そして買い物や病院通いの交通の便……などいろいろある。どれも正解だが、実は村を離れる直接的なきっかけは、獣害が多いのではないかと私は想像している。野生動物たちの脅威は、村に住み続ける「意欲」を破壊するからだ。

最近は、田舎暮らしのために山間部の家や農地を買い取って移り住んだり、プライベートキャンプ場をつくる目的で森林を購入したりする人も増えてきた。田舎の土地や山林は非常に安くなっているから、買いやすくなったことも一因だろう。

しかし、自分の土地になったら、自ら獣害と向き合わないといけない。自然の中の暮らし、自由なキャンプ……などを期待していたはずが、野生動物の出没におびえ「こんなはずではなかった」と嘆くことにもなりかねない。のどかなはずの田舎には、「獣害」という大問題が潜んでいるのだ。