1994年(平成6年)12月4日、名古屋レインボーホールで開催された日本人同士のWBC世界バンタム級王座統一戦。このとき正規の王者は薬師寺保栄で、辰吉丈一郎は同級の暫定王者だった。格でいえば薬師寺が上でありながら、戦前の下馬評では辰吉の圧倒的有利と目されていた。
 「日本ボクシング史上最短で世界王座を獲得した辰吉と、王者とはいえ無名の薬師寺というのが、当時は一般的なファンの見方で、専門家やマニアもその見解に大きな違いはありませんでした」(ボクシング記者)

 '93年、網膜剥離により一時は現役引退を宣告された辰吉に、既定のルールを曲げてまで復帰の道を開いたのは、日本ボクシング界のドンといわれた帝拳プロモーションの本田明彦会長だった。
 「辰吉が傘下の大阪帝拳ジム所属で、その人気が金になるという算段はもちろんあったでしょう。しかし、それも辰吉の才能を信じたからこそ。本田会長がそこまでするのだから、やはり辰吉は本物に違いないという道理です」(同)

 さらにいえば、薬師寺への評価は芳しくなかった。網膜剥離で試合をキャンセルした辰吉の代役として、王者・辺丁一(韓国)に挑んだ世界戦、薬師寺は判定勝ちを収めたもののスポーツ紙では、〈すべての面で王者・辺が上〉〈ジャパンマネーが判定をゆがめた〉などと批判を受けていた。
 「その後、辺陣営の抗議もあって行われた再戦では、5度のダウンを奪いKOで快勝したものの、やはり最初の試合のイメージが強かった。また、デビューからしばらくは、パンチを打ってはすぐに退くファイトスタイルから“チキンハート”と呼ばれており、ボクシングに詳しい人ほどその印象があったでしょう」(同)
 薬師寺は辰吉戦までにアメリカで猛特訓を積み、目覚ましい進化を遂げていたのだが、名古屋のジム所属のために全国区での試合放映はなく、一般ファンがそうした事情を知ることはなかった。

 世紀の一戦と世間を煽りつつも、まるで辰吉復活祭の様相だったが、そのムードを一変させたのが両者の舌戦だった。
 「薬師寺は勘違い君。主役と勘違いの力の差を見せつけたるわ」
 「あの年齢になって髪の毛を染めるようになっちゃあかんよ。そんなん社会人デビューしたらダメ。ああいうのはもう中高生で終わるのが当たり前。きっと彼の場合、その間に目立つ時がなかったんやろね、輝ける時が…」
 「チャンピオンになっているから強いんやろうけどね。しょせん僕とはケタが違う!」(いずれも辰吉)
 「王座決定戦の当日は辰吉君もチャンピオンベルトを巻いてくるが、そのベルトには“暫定”と書いてこい」(薬師寺)
 壮絶な舌戦に大きな関心が寄せられるとともに、ファイトマネーも高騰し、両者1億7000万円という破格の金額が積み上げられた(もっとも試合を主催した薬師寺側は、もろもろの経費支払いのため1億円以上がそちらに回され、当人に渡されたのは3000〜4000万円だったという)。

 過去に類を見ないほどの盛り上がりの中、ついに試合開始のゴングが鳴った。1Rこそはそれぞれ相手の様子をうかがうような静かな立ち上がりとなったが、それも徐々にヒートアップ。6Rまでには両者ともまぶたから出血するほどの激しい打ち合いとなる。
 「ファイトスタイルはガードを固めず積極的に前へ出る辰吉と、ジャブで距離を取ってフットワークを活かす薬師寺で対象的。噛み合わない試合になる懸念もあったが、いい意味で裏切られました」(ジム関係者)

 だが、試合中盤あたりから形勢に差がつき始める。必死の形相で前に踏み出す辰吉だが、それに比して手数が出ない。
 対して、薬師寺の左ジャブから右ストレートのコンビネーションブロー、左右のフックが、的確に辰吉を捉えていく。
 「実はすでに1Rで、辰吉は左拳を骨折していたのですが、それでも最終12Rには連打で薬師寺をロープ際まで追い詰めるド根性を見せた。もし、薬師寺が並みのボクサーなら、あの気迫だけで圧倒されていたでしょう」(スポーツ紙記者)
 薬師寺勝利の判定が下ると、辰吉はこれまでの因縁などまるでなかったかのように、勝者を抱きかかえて祝福したのだった。