まさに異端児と呼ぶにふさわしい。元WBC、IBF、WBO世界フェザー級王者の“悪魔王子”ナジーム・ハメド。
 「その独特なファイトスタイルをして『ボクシングに革命を起こした』と評する声もありますが、あれはとても他の選手の真似できるものではない。やはり特別な存在としか言いようがありません」(ボクシング記者)

 華麗にステップを踏み、ノーガードで相手に顔を突き出して挑発するのは、モハメド・アリら先人にも見られたスタイル。実は面前でガードをしないほうが自分の手が邪魔にならず、相手の攻めを見切りやすいという利点もあるのだが、そこからの攻防がハメドの真骨頂だった。
 相手の攻めをのけ反るようなスウェーバック…すなわち荒川静香のイナバウワーばりにしてかわすと、そこから逆襲のパンチを放っていく。普通はそんな不安定な体勢で拳に体重を乗せることなどできず、まずまともなパンチを打つことは不可能なのだが、しかし、これがKOパンチになってしまうのがハメド流なのだ。

 体幹の強さ、強靭なバネ、柔軟性のすべてを人並み外れた高レベルで備えねばならず、また、練習すれば誰もが身に付けられるという質のものではない。まさに天賦の才が求められる唯一無二のボクシングだった。
 「相手に向かって飛び込みながらパンチを放つのも、しっかり脚を踏ん張って打つのと違って力が伝わりにくいため、セオリーに反します。しかし、ハメドはそれでもKOを奪っている。軽量級のフェザー級で約85%のKO率を誇るように、パンチ力も飛び抜けていたのです」(同)
 ちなみに、近い階級の日本人では、バンタム、フェザー級で世界王座を獲得して“平成最強の日本人ボクサー”とも評される長谷川穂積がいるが、そのKO率は約40%である。

 トリッキーなファイトでKOの山を築き上げていくハメドの人気は、1992年に母国イギリスでデビューして以来、うなぎ上り。評判が評判を呼んで'97年にはアメリカ進出を果たし、軽量級ながら“ボクシングの殿堂”マジソン・スクエア・ガーデンのメーンイベンターとして登場する。
 このときのファイトマネーは、日本円にして約3億円。これも軽量級としては異例の高額であった。入場時にはテーマ曲を丸々2曲ぶんの10分近くもかけ、花道奥からリングサイドまでダンスしながら練り歩いた。そして、エプロンからトップロープを飛び越え、一回転でのリングイン。
 対戦相手のケビン・ケリーは、ハメドのパフォーマンスに怒りを抑えきれない様子で、額を突き合わせてのにらみ合いとなった。

 この試合、PPVの契約も相当な数にのぼったが、ハメドへの注目はいわゆる悪役人気でもあった。正統派のボクシングファンからは「パフォーマンスだけのインチキ野郎」との声もあり、会場では母国選手の勝利を期待する“ケリーコール”が巻き起こった。
 そんなアウエーの雰囲気が影響したのか、1R早々にケリーをコーナーに詰めたところで反撃され、ハメドはいきなりのダウンを喫してしまう。
 2Rに入ってもケリーの攻勢は続き、左右のフックを食らったハメドは2度目のダウン。
 「アメリカデビュー時のハメドは、すでにプロ29戦目。相手から徹底的に研究されていたことも苦戦の原因でしょう」(同)

 だが、ハメドはさして効いた様子も見せず、一瞬の隙をついた右でダウンを奪い返すと、そこからはストリートファイトさながらのどつき合い。
 4Rにはまずハメドがダウンを奪うが、ケリーの反撃で3度目のダウン。それでもハメドは守りに回ることなく攻め続け、その左フックがこめかみをとらえると、ケリーは尻もちをつくようにゆっくりと後ろへ倒れていった。
 この後、ハメドはアメリカでも快進撃を続けることになる。

 「話題を得るため、弱い相手とばかり対戦してるのでは?」との批判もあったが、WBA現役王者で王座を返上したばかりのウィルフレド・バスケス、WBC王者のセサール・ソトらを倒して実力を証明。マイク・タイソン失速後のアメリカボクシング界を、大いに盛り上げたのだった。