平昌パラリンピック冬季大会9日目となる17日、クロスカントリースキー男子立位10kmクラシカル。新田佳浩(日立ソリューションズ)が終盤での見事な逆転劇で、2冠に輝いた2010年バンクーバー大会以来となる金メダルを獲得した。


金メダルを獲得し、笑顔で平昌パラリンピックを終えた新田佳浩

「前回は取りたいと思って取った金。今回は苦しい展開でしたが、自分自身が最後まで諦めずに滑れば、結果は後からついてくると思って滑った。自分の力を出し切ることが一番大事だった」

 レースは1選手ずつ30秒差でスタートし、1周約3.5kmを3周回するコースで争われる。22人目に勢いよくスタートした新田はいきなり、板を滑らせる溝(カッター)の段差につまずき転倒するも、「まだ10kmある」と立ち上がった。

 3周目に入る手前のタイムは3番目だったが、ここからが新田の真骨頂。「金メダルだけのために練習してきた。こんなところで負けちゃいけない。自分ならできる」と言い聞かせながら、支えてくれたあらゆる人の姿を思い浮かべ、力にした。

「腕がちぎれても、足がちぎれても、心臓が壊れても、ゴールしたときに出し切らないと、後悔する」

 ラスト1周に入ってペースを上げた新田に対し、先行する選手には疲れが見えた。徐々に差を詰め、残り1.5kmではコース外で待機するコーチから2秒差でトップに立ったという情報を得る。

「いける」――。

 ギアをもう一段階上げてラストスパート。最後は左脚を伸ばして、歓喜のゴールに飛び込んだ。

 終盤での見事な逆転劇の裏には綿密に練られ、着実に実行するための長くて過酷な準備があった。

 新田は1980年生まれの37歳。3歳のとき、農作業中の祖父が運転するコンバインに左手を巻き込まれ、肘から先を切断。クロスカントリースキーは小学3年から始めた。中学2年のとき出場した全国大会で、当時、1998年長野パラリンピックに向けたチームづくりを進めていた、現日本代表の荒井秀樹監督に声をかけられ、パラスポーツの世界へ。

 17歳で長野大会に初出場して以来、20年。自身6大会目のパラリンピックとなる平昌大会では14日に行なわれた1.5kmスプリントの銀メダルと合わせ、金・銀2個のメダル獲得。第一人者として日本代表を牽引してきたエースの責任を果たした。

 だが、決してここまでの過程が順風満帆だったわけではない。2010年のバンク―バー大会では同じ10kmクラシカルと1kmスプリントで2冠に輝いたが、続く14年ソチ大会では、新田が得意とするクラシカル種目の実施が少なく、また地元ロシア勢の台頭もあり、最高4位に終わる。

 一時は引退も考えたが、「負けたままでは終われない」と現役を続行。ソチ後に所属先のコーチに就任した長濱一年コーチとともに練習内容を見直し、30代に入ってからの肉体改造にも着手した。長濱コーチによれば、「年間260日」という日々を二人三脚で過ごし、「雨のなか、泥だらけになったり、厳しいことも言ったが、よく耐えてくれた」と振り返る。

 スポーツ庁発足以来、パラアスリートにも門戸が開かれるようになった国立スポーツ科学センター(JISS)でのトレーニングも効果的だった。綿密な身体測定データに基づき、自身の障がいに応じたパーソナルなメニューで弱点を集中的に強化した。心肺機能を高めるための低酸素室トレーニングは、「練習日の朝は、逃げ出したくなるほど憂鬱」と弱音をこぼすほど過酷だったが、ここぞというときのスパート力が増した。

 また、新田のレースは最初から果敢に飛び出して粘るスタイルが持ち味だったが、ここ数年、終盤の競り合いで失速して敗れるレースが増えていると分析した長濱コーチは、突っ走るだけでなく、相手選手の展開も見ながら走る、「ベテランらしい大人のレースをしよう」と策を授けた。

 そこで昨年夏からは、疲労したなかで競り負けないために、「どんな練習でも最後の5分間は追い込んで終える」という練習を繰り返させたという。この練習が「後半の伸び」につながり、さらに、「レース後半にラップを上げるペース配分」という戦略もピタリとはまり、今回のレースでの終盤の逆転劇が生まれた。

 ともに苦しみ悩む日々を過ごした長濱コーチはレース後、「新田にはふだん、厳しいことばかり言ってきたが、今日だけは褒めたいと思う」と、愛弟子の快挙に目を細めた。

 激走を終えたその夜、平昌オリンピックパーク内で行なわれた表彰式で、『君が代』が厳かに流れるなか、センターポールをゆっくりと上がっていく日の丸を新田は静かに見つめていた。

「ようやくですね。ずっと(この光景を)思い描いて4年間、過ごしてきた。がんばってきて、よかったです」

 新田が競技に打ち込んだ最初のモチベーションは、自身の左腕のことをずっと気にかけてくれた「祖父のため」だった。10年に金メダルを獲得し、12年に祖父が亡くなって以降は「2人の息子に頑張る姿を見せるため」に変化した。また、「家族、スタッフ、会社……。支えてくださる皆さんに、がんばることで恩返ししたい」と周囲への感謝も忘れない。

 だが、今年1月のある日、新田は珍しく、「平昌は自分のために走りたい。(37歳という)自分の年齢でどこまで高められるか確かめたい」と話していた。

 そこでレース後、「自分のために走れたかどうか」を尋ねると、新田は達成感あふれる笑顔とともに、「はい!」と力強い返事を返してくれた。

 金メダルは紛れもなく、自身を世界一にまで高めた証(あかし)である。

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