「深夜に奇声」「食事も喉に通らない」…駒田徳広が「極度のノイローゼ」になってしまった理由
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第15回「考える人」(後編)
【前編を読む】「10万本を超す素振り・日本刀を使った練習・合気道」…“王貞治の後継者”に課された試練
チームメイトから「ロダン」と呼ばれる
駒田徳広は1962年奈良県生まれ。中学校の野球部で才能を開花させ、桜井商業時代はエースで4番。通算43ホームラン、打率490を記録し、80年の奈良県春季大会の天理戦において満塁の場面で敬遠されたという逸話もある。
この活躍が巨人軍関西担当スカウトである伊藤菊雄の目に留まり、この年の秋のドラフト会議で巨人が2位指名。背番号50。プロ3年目の83年4月10日、開幕2戦目の横浜大洋戦で7番ファーストでプロ初出場初スタメンをはたすと、プロ野球史上初となる初打席満塁ホームランを放った。ここから「満塁男」のニックネームが定着し、槙原寛己(背番号54)、吉村禎章(背番号55)と並ぶ「50番トリオ」の一人として存在感を示すようになる。
その駒田徳広が荒川博と出会ったのが1984年、助監督だった王貞治が監督に昇格したときである。投手出身で左利き、一塁手、何よりホームランバッターである駒田は、王にとって「後継者候補」と映っていたはずだ。後年、駒田本人は当時のいきさつを次のように述べている。
「プロ4年目の1984年5月、試合後に王監督から『ちょっと車に乗れ』と言われて連れて行かれたのが、王さんの一本足打法の師匠だった荒川博さんの自宅です。『勉強してこい』と送りだされました」(『サンケイスポーツ』2015年7月14日付)
「ナイター後、シャワーも浴びず荒川さんのもとに通う日が続きました。練習が終わるのは午前1時ごろでした。息を止めて何十回と素振りをする。日本刀でつるした新聞紙の短冊を切る。オフは朝から合気道の稽古。様々な練習をしました」(『朝日新聞・奈良版』2012年12月2日)
しかし、すぐに結果は出ず、84年は79試合に出場、打率238、ホームラン2本という結果に終わった。
それでも駒田は代々木の荒川の自宅に通い続けた。荒川自身も正式に巨人球団とインストラクター契約を結び「駒田の一本足打法の完成こそが王巨人再建の鍵」と呼ばれるようにもなった。
しかし、迎えた1985年、駒田は極度のノイローゼに陥ってしまう。
《グアムキャンプ。これまでひょうきんさが売り物だった若者が、ほとんどノイローゼになった。夜、宿舎のベランダから満天の星を見上げ、「ああ、オレはこのままダメになっちゃうのかなあ」とひとり言。人並みはずれた大食漢なのに、出された一人前のメニューさえノドを通らなかった。ナインが話しかけても生返事ばかり。ひどい落乱ぶりだった》(『日刊スポーツ』1985年2月21日付)
宮崎キャンプでもその状態は続き、深夜に「ウォーッ」と叫び声を上げたかと思えば、飛び起きて暗闇の中で一本足を上げるなどの奇行が目立つようになった。そうでなくても悩む姿は人目に付く。口さがないチームメイトからは「ロダン」と呼ばれるようになった。「考える人」という意味だ。それでも駒田に休息は与えられなかった。
「東京に帰るんです」
ペナントレースが始まっても荒川の自宅に通い続けた。試合後の疲れた身体に鞭打って、深夜あるいは早朝まで猛練習をこなす毎日である。小さい紙切れに日本刀を振り下ろしたかと思えば、睡眠も取らず早朝から合気道の道場に通う。そして夜は試合である。「王もこの方法で成功したんだ」とは言うが、これで神経がやられない方がおかしい。
甲子園3連戦で阪神に3連敗を喫した翌日の4月19日早朝。巨人軍の宿舎である芦屋市の竹園旅館(現・ホテル竹園芦屋)の誰もいないロビーで、一人コーヒーを飲む男の姿があった。駒田徳広である。
たまたまロビーに姿を見せた日刊スポーツ巨人担当記者の玉置肇が「こんな早くにどうしたの?」と駒田に声をかけた。この日は移動日で明日から広島市民球場で広島との3連戦。他の選手はまだ就寝中である。であるのに、この男は一人でどうしたのだろう。
駒田は「東京に帰るんです」とだけ言った。「二軍落ち?」と玉置が驚きながら訊くと、駒田は黙って頷いた。
確かに一本足打法は完成しておらず、連日連夜の猛練習の割に結果を出せずにいたが、それでも11対4の大敗を喫した前夜も代打で登場して2塁打を放っている。ファーストのレギュラーである中畑清の貴重な控えでもある。中畑が負傷すれば、誰にファーストを守らせるつもりだろう。玉置は首脳陣の意図を理解しかねた。
投手力が欠乏している状況から、若手投手を1軍に昇格させるのは察しがついた。であるなら、ファームに落とすのは別に駒田でなくてもいいだろう。南海から移籍後、期待されたリリーフとしての役割をはたせていないベテランの金城基泰でもいいし、同じく西武から移籍後、これといった結果を残せていない内野手の鴻野淳基でもいい。駒田である必要はないのだ。
玉置はサブキャップの加藤陽一にそのことを報告すると「そりゃおかしい」と加藤も声を上げた。
「何か臭うな」
午後0時10分、巨人ナインと一緒に新大阪駅発「ひかり23号」に乗り込んだ加藤陽一は、すぐさまグリーン車に向かった。監督である王貞治に駒田の件をぶつけると、王はにべもなくこう答えた。
「いや、上で出番も少ないし、ファームで場数を踏ませたいんだ」
加藤が何度尋ねても「経験が」「場数が」と言うばかりで納得のいく答えはなかった。午後2時に広島駅に到着しても加藤の疑問は消えなかった。
同じ頃、東京の日刊スポーツ本社の野球部デスクの電話が鳴った。電話の主は大阪支社のデスクの水元義政である。
「聞いてるか、巨人が近鉄の有田を本気で獲りにいくみたいだぜ。シーズン中のトレードだ」
ここで名前が挙がったのが、ファームに落とされた駒田徳広だった。
実はこのとき巨人が採った方針が、秋のドラフト会議に少なからず影響することになるのだが、そうなることは、この時点ではまだ誰も知らなかった。
【毎週水曜日更新】7月22日配信の第16回に続く

