字幕翻訳家人生を振り返った戸田奈津子さん(撮影・鈴木みどり)

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洋画ファンなら、スクリーンで「字幕・戸田奈津子」のクレジットを何度見たことか。映画字幕翻訳者、戸田奈津子さん(90)。手掛けた字幕は1500作以上。多くのハリウッドスターの通訳としても活躍し、映画文化の架け橋になってきた。今やAIがどんな言語翻訳する時代だが、「AIに映画字幕は無理」と明快だ。【梅田恵子】

★90歳、現役続行中

昨年もトム・クルーズ主演「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」の字幕を手掛けたばかり。今月3日に90歳になった今も、現役続行中である。

「やめようと思ったことは一度もないです。好きだからやってきただけ。大谷翔平選手もそうでしょう? 見るからに楽しそうだもの。レベルはまったく違うけど、私も同じよ」。持ち前のパワフルな早口で、片っ端から質問に答えていく。「運動はしないし暴飲暴食。健康にいいことをまったくしていないけど、どこも悪くない(笑い)。私の人生の一番のラッキーは健康だったことね」。

9歳で終戦を迎え、華やかな洋画の世界に魅了されて以来この道ひと筋。「ジョン・フォード監督の『荒野の決闘』(47年日本公開)とか。東京が焼け野原で食べ物もない、娯楽もない時代に、地球上にこんな別世界があるのかと」。たちまち“ミーハーな映画ファン”になり、俳優たちが何を話しているのか知りたくて英語を学んだ。「英語力を生かすための翻訳業ではなく、私の場合は完全に映画が先。英語はそのおまけなの。今でも(笑い)」。映画愛と豊かな知見、洋画ファンのミーハー心を外さない字幕で作品の魅力を伝えてきた。

津田塾大卒業後、字幕翻訳者への道を歩き始めたが、夢がかなうまで20年かかっている。フリーの翻訳など、さまざまなアルバイトをこなしながらチャンスを待った。「好きなことしかやらない人間だから、組織には入らず、リスク覚悟で一匹おおかみで。自分で決めたことだけど、望みが何ひとつ具体的に進まない20年は本当につらかったわね」。

転機となったのは76年、F・コッポラ監督との出会いだった。来日した監督の通訳兼ガイドを務めたことが縁で、「地獄の黙示録」(80年日本公開)の字幕翻訳という大役を任された。

★ラッキーな人間

40代の無名人材を推薦してくれた監督への感謝に加え、強く感じているのは時代への感謝だ。「文字ばかりで会話なんかやってこなかった人間に通訳やれなんて、今の時代じゃ絶対にない(笑い)。『Right time,right place(いいタイミングでいい場所にいる)』。そういう時代にたまたまいたのよね。私の人生は全部それ。本当にラッキーな人間なんです」。

飾らないハートで相手の懐に飛び込み、信頼を得る。卓抜したコミュニケーション力で多くのスター人脈を築いてきた。「できる限りのことはやりましたね。苦労だと思ったことはありません。ミーハーからスタートしているわけだから、スターと会えたらうれしいに決まってるじゃないですか(笑い)」。

多くのセレブの中から、映画のイメージと実像がまったく違う人について聞くと「それはリチャード・ギアね。映画ではいつもカッコいい二枚目だけど、普段はおシャレになどまったく関心がない。いつも同じ格好をしている(笑い)、人をからかうのが大好き」。逆に、イメージのままなのはロバート・レッドフォード。「ハリウッドを代表する二枚目、というイメージをまったく崩さなかった」と懐かしみ、「いろんな方と出会えたことは私の財産です」。

★英語力より日本語力

1秒間に3〜4文字、最大13文字×2行の26文字に収める字幕の世界。「直訳では到底入らない。4文字、5文字でストーリーやキャラクターのフィーリングが分かるように、どんな言葉を選んで字幕を作るかが翻訳者の腕の見せどころ」。求められるのは英語力より日本語力とし「日本語8割、英語2割が私の実感」と話す。

幼少期から、大好きな読書を通して豊かな日本語に触れてきた。「本を読んで、主人公の気持ちになるのが大好きでした。善人も悪人も、すべての登場人物になれるこの仕事は本当に楽しい。ベッドシーンだって、その人の気持ちになって考えます。でなきゃ字幕なんて作れませんよ」。

直訳派からの批判は「字幕というものを分かっていないので、一切見ない」。ハンフリー・ボガート主演「カサブランカ」(42年)の名ぜりふ「君の瞳に乾杯」を例に、「原文には『君の瞳』なんて言葉はない。でも、あの場面にぴったりの台詞でしょう?」。

漢字、ひらがな、カタカナの組み合わせで感覚的に意味が分かる日本語は「極めて字幕向き」とし、高い識字率を背景にした字幕文化に胸を張る。「俳優の声から伝わってくる感情、フィーリングを超えるものはない。だから、演技を直接耳で受け取ってくれることを俳優たちもとても喜びます。感情は耳で分かるから、字幕はファクトだけ補えばいいの」。

「そもそも字幕はあってはいけないもの」とも語る。「撮影現場では、俳優も監督もカメラマンも、自分たちが作った映像に文字が入るなんて考えてもいませんよ。パーフェクトな映像に厚かましくも入ってきて、極論を言えば必要悪なわけ。お客さんだって文字を見に来るわけじゃない」。理想は「存在感のない字幕」という。「見終わった時に、文字を読んだ記憶がない。記憶に残らない字幕がいちばんだと思います」。

★吹き替えは見ない

今や字幕派圧勝の時代ではなく、シネコンでは字幕上映と吹き替え上映がほぼ同じ割合になっている。「若い世代の活字離れで、字幕は面倒くさいのね。作品も、00年あたりを境にCGでバーン、みたいなものが増えて、俳優の声で繊細なお芝居を感じる必要性も薄れてきた。字幕の割合は減少していくと思います」。そうイラ立ちを語りながら、吹き替えで映画を見ることはあるのかと聞くと「ありませんっ(笑い)」。即答で字幕愛を表明するのがこの人らしい。

スマホでどんな言語も瞬時に翻訳できる時代。映画字幕の未来について聞くと「AIにわれわれのような字幕翻訳はできません」ときっぱり。「ビジネス文、論文など感情のない文章の翻訳はAIはとても上手。でも、エモーションがないコンピューターにエモーションの翻訳は無理。小説は無理だし、字幕制約のある映画字幕はもっと無理。またAIはデータがないと何もできない。人間の感情はデータじゃないから」。

いつかはAIもそんな能力を身につけるかもしれないが「私が生きている間は無理だからいいの」と笑顔。「そういう意味でも、いい時代に字幕をやってこられてラッキー。いい映画をたくさん見て、いろんな人に出会って、話を聞いて。つくづく『Right time,right place』の幸運な人間なのよ」。

◆戸田奈津子(とだ・なつこ)

1936年(昭11)7月3日生まれ、東京都出身。59年、津田塾大英文学科卒。80年、米映画「地獄の黙示録」の字幕を担当し、映画字幕翻訳家として本格的にプロに。手掛けた作品は1500以上にのぼる。25年、旭日小綬章受章。神田外語大客員教授。