純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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知ってのとおり、宗教改革のきっかけは、免罪符だ。名目は、ヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるため。ほんとうは、大航海時代が成功する前、オーストリア・ハプスブルク家・フィレンツェ・メディチ家が、枢機卿たちを買収してまで得た教皇ポストを軸に、スペイン・イタリアに進出した借金を、オーストリアに鉱山を持つドイツ・アウグスブルクのフッガー家に返済するために、彼らに、その発行権を与えた。売ったのは、異端審問を得意とするドミニコ修道会。これを買わないと魔女として疑われ、全財産を没収され、火刑に処せられた。つまり、もともと北ドイツの新興商人からカネを巻き上げるのが目的。

「まあ、旧世代からすれば、新興商人のカネ儲けなんて、魔術にしか思えなかったんでしょう」

しかし、ひととおり免罪符が行き渡ってしまうと、もう売れない。そこで、ドミニコ会は、これで死者も救われる、と言い出した。つまり、やつらは、新興商人の死んだ創業者まで魔女に仕立てることで、その一族のカネをふんだくろうと企んだ。ところが、これに北ドイツのルターが噛みついた。教皇は、聖ペテロから天国の門の鍵を受け継いだ、とされるが、それは天国に入るまでで、そのあとに神御本人が判断して煉獄に落とした御裁定を、教皇ごときが覆せるなんて、越権だろ、と。

「うーん、どうでもいいような話だけど、彼らには重大問題だったのでしょうね」

当然、商売の絵図を汚されたハプスブルク家やメディチ家、教皇は激怒。これに対して、ルターは、聖書をドイツ語に翻訳して対抗。新約聖書なんてローマ帝国時代の200年ころにできたもので、その中に「教皇」なんて、一言も出てこない。人文主義の神学者エラスムスまで出てきて、まあまあ、となだめようとするが、ルターは、エラスムスが持ち出してきた一般的な善行救済まで、それは431年のエフェソス公会議で聖アウグスティヌス派に異端とされている、と攻撃。

「あー、かかわっちゃいけないタイプの人でしたか」

もともとローマ帝国末期、ゲルマン人大移動のころの聖アウグスティヌスは、かなり極端な人で、この世に悪があることを神に代わって弁明する弁神論として、神ではなく、すべて人間の自由意志が悪い、と言うような人。これは、徹底的に自由意志を弾圧する中世暗黒時代を導いたが、ルターは、これをうまくひっくり返して、ただ信仰のみで神に救われる、という易行に換え、プロテスタントを立ち上げた。ところが、これに感化されたカルヴァンは、信仰すれば救われる、などというのも人間の越権だ、全ての人間は完全に堕落していて、まったく無力、だから、誰を救うかは、ただ神だけが自由に決められる、いや、最初から決められている、という、さらに厳しい予定説を立てた。

「教皇だけでなく人間も越権ですか」

そんなこんなで揉めているところで、イェルサレムに巡礼に行きたい、なんていう酔狂なパリ大学の神学生たちが集まって、イエズス会を作った。その時代、ヨーロッパはオスマントルコ帝国と対立していたから、巡礼なんかできるわけがない。で、各地に一般市民のための学校を建てて、そこでルネサンスで人気になった古典語を教え、カトリックの再生をめざした。

「海外旅行に行きたい大学生たちが、塾を開いておカネを貯めるみたいな話?」

おりしも大航海時代で、彼らは海外にも進出し、学校を作った。創立者のロヨラが軍人だったこともあって、イエズス会は騎士団風軍隊組織ということになっていたが、なにせまだ通信方法も手紙しかない時代。船だって、かんたんに行き来できていない。でも、だいじょうぶ。かれらは「霊操」という方法を編み出した。自分の心を動かせば、神が何をお望みか、わかる、というもの。これで、本部や教皇からの指示を待たずに、どんどん積極的に教育布教活動ができた。

「うーん、それってもう教皇中心のカトリックというより、聖書を持ち歩ける教会にして広まったイスラム教やプロテスタントと同じでは?」

いや、『コーラン』のように事細かに書いてあって、わからないことは共同体の話し合いで決めたり、カルヴァン派みたいに生活の原理原則がきっちり厳格だったりすればともかく、カトリックなんてもともと論争と妥協と惰性の集大成みたいな巨大宗教だったから、この霊操は、結局、善行奨励、権威依存で、わけのわからない海外事情でも、臨機応変にやってきた。おまけに、ヨーロッパでも、新旧宗教戦争だの、絶対君主制だのが興ってきて、その中でリシュリュー卿やマゼラン卿みたいなのが世俗権力に食い込み、うまく権力に取り入った。

「まあ、やたら異端審問で締め上げるより、それくらいなるい方が、一般市民や外国人にも受け入れやすかったでしょうけど」

しかし、十七世紀になると、カトリックの中でも、それって、やっぱまずくね、っていう連中が出て来る。ヤンセンは、ベルギー、ルーヴァン大学の神学教授。ルターなんかと同様、聖アグスティヌスに依拠し、イエズス会の霊操におけるカスィスティーク(こじつけ術)、すなわち、他の事例からの表面的な類推による安直な推論を批判した。そして、プロテスタントと同様、人間は自由意志の罪に汚染されており、神の恩寵がなければ無力である、と主張。したがって、私たちはすべてを原理、つまり神自身に個別に委ねるべきである、とした。彼の死後、1640年に彼の著書が出版され、ポール・ロワイヤル修道院の神学者アルノーによってジャンセニズムとして広まったが、1653年に教皇はこれを異端と宣言した。

「ルターやカルヴァンが離脱したように、当時のカトリック神学はあまりに通俗化していたので、内部からも批判されたのは当然だったでしょう」

パスカルは父の遺産で暮らしながら、1654年にアルノーのジャンセニズムを擁護し始め、匿名で『地方人への手紙』を書いた。これはパリの住人から地方の友人に宛てた書簡の形で、イエズス会を機知で揶揄している。当時、ジャンセニズムはイエズス会とドミニコ会から非難されていたが、最初の四通の手紙は、ジャンセニズムとドミニコ会はむしろ同じだと指摘していた。イエズス会は神の恩寵だけで救われるとしていたが、ジャンセニズムとドミニコ会は、人間が「pouvoir prochain」、つまり救いに値する準備能力、前もって持つ、あるいは与えられなければならない、と考えていた。

「善行によるものでなくとも、彼らはカルヴァンの予定説のように、救われる者は前もって限られている、と信じていたのですね」

五通目の手紙で、パスカルは今度はイエズス会のプロバビリズムを批判した。それは現代の確率論、偶然性の推定ではなく、語源的な意味で、証明されうるかどうか、に関するものだった。イエズス会は、トラブルを避け、多様性に合わせるために、自分たちの行為を支持する権威に従うべきだ、と主張した。しかし、パスカルは彼らのカスィスティークを皮肉まじりに賞賛し、「素晴らしい! やりたいことを支持してくれる権威を見つけさえすれば、やりたいことは何でもできる」と言った。

「イエズス会は、自分たちが循環論法に陥ってしまっていることに気づいてなかったのでしょうね」

パスカルは科学や数学のセミプロの好事家でもあり、当時の一流の学者とも交流していた。ガリレオの弟子トリチェリは1643年に水銀柱の上昇限界から大気圧を発見した。パスカルはこの実験を再現し、水銀柱より上の空間は真空である、と信じた。さらに、密閉容器内の定圧法則を適用して、ブースターポンプを発明した。

「いわゆるパスカルの原理ですね」

彼は、『地方人への手紙』を執筆中、数学者フェルマーとのメールによる議論を通じて、現代的な意味での確率にも興味を持っていた。そこでは、中断されたゲームにおける賭け金の公平な分配の問題が採り上げられた。彼らは、確率が一定であるという仮定のもと、期待値理論を確立した。

「それって、パスカルの等圧ポンプの流水量計算に似ていますよ」

デカルトは、対象を明晰判明なものに限定し、理性によって唯一解が導き出されると信じていたが、パスカルはこれを幾何学的精神として否定し、曖昧であっても全体を直感的に把握する感覚的精神を提唱した。「人間は考える葦である」という言葉で、彼はたしかにデカルトのように、たとえ体が弱くても私たちの心は宇宙をも含むことができる、と想定した。しかし、私たちが考えるべき宇宙は、低次の幾何学的物体ではなく、高次の神の恩寵だ。つまり、パスカルは、物体、精神、神の恩寵という三つの秩序を考え、感覚的精神で、神の恩寵という漠然とした期待を掴み、信仰に賭けた。

「ジャンセニストである彼にとって、物体なんかまったく無力で、「宇宙」とは、神の恩寵のことだったのですね」


純丘曜彰(すみおかてるあき)大阪芸術大学教授(哲学)/美術博士(東京藝術大学)、元ドイツマインツ大学客員教授(メディア学)、元テレビ朝日報道局ブレーン