石垣島の9人の中学校から早稲田2浪。浪人生活や、今のお仕事のお話を聞きました(写真:喜屋武さん提供)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は沖縄県石垣島にあった、全校生徒が9名の中学校を経て、八重山高等学校に進学。その後2浪で早稲田大学に進学し、卒業してから3年間のフリーター生活と2年の社会人経験を経て、現在ソーシャルバーPORTOの運営や、三線の流しとして活動している喜屋武悠生(きゃん ゆうき)さんにお話を伺いました。

全国で旅をする両親のもとに生まれる


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「自分の人生は『浪人』です」

これまでたくさんの浪人経験者に話を聞いてきましたが、人生そのものが浪人だと考えている方に初めてお話を伺いました。そう語るのが、今回話を聞いた喜屋武悠生さんです。

喜屋武さんは全国各地を旅する両親のもと、沖縄県・石垣島で生まれ育ちました。2浪を経て早稲田大学に進学し、卒業後の3年間はフリーターとして過ごしました。

28歳で「向いていないと思ったけど、やってみたかった」という2年間の社会人生活を経て、友人と2人で店長が日替わりで交代するバーを共同創業することに。現在もバーの運営に関わりながら、最近は特技の三線を活かした流しの仕事を始めるなど、さすらうように人生を歩んでいます。

「人生はままならないけど、楽しく生きていきたい」という現在の考えがあるのは、大学受験での浪人の経験が大きいとのこと。今回は、彼の「浪人人生」のルーツに迫っていきます。

喜屋武さんは石垣島で、沖縄本島北部の今帰仁村出身の父親と、島根県の港町出身の母親の間に生まれました。

「父親も母親も定職にはつかず、放浪をしていた人でした。父親は高校卒業後、全国各地をバイクで回って、土木作業員をしたり、ラーメンの屋台を引いたり、西表島の山の中でイノシシを獲ったりしていたのですが、最終的に石垣島のキャンプ場に流れつきました。母親は東京の女子短大を出てから渋谷の本屋で働いていたのですが、そこでインド旅行に関する本を読んで旅をするようになり、石垣島で父と出会ったことで奇跡的に僕が生まれたんです」

そんな両親に育ててもらった喜屋武さんは、既存の価値観に縛られることのない、自由な発想をする大人に成長します。

同級生が3人しかいない小・中学校

彼が通った小・中学校は、同級生が3人しかいない小さな公立の学校でした。

「石垣島は人口が5万くらいしかないのですが、島の中でも田舎のほうで、中学時代は全校生徒が9名ほどしかいない学校に通っていました。複式学級といって、小学校では、1〜2年、3〜4年と2学年が同じクラスで学校生活を共にしていました。小学校と中学校が一緒の敷地だったため、9年間同じメンバーと過ごしたのでみんな家族のような感じでしたね」

こうした牧歌的で特殊な環境で過ごしたおかげで、喜屋武さんは、快活かつおおらかな性格になれたと言います。そんな彼にとって大きな転機となったのが、高校への進学でした。

「高校進学を機に、市街地の八重山高等学校の普通科クラスに進学しました。高校では1クラス40名の学級が7つあったのですが、入学時の試験成績の上位40名は希望すれば特進クラスに入れました。僕も40番以内に入っていたようで(そのクラスに)声がかかったのですが、せっかく田舎から出てきたし、高校生活を楽しみたいという思いがあったので、普通科クラスに入ったんです。

大人数の中でテストを受けるようになって、初めて比較や競争、周囲からの評価といったものに触れる機会になりました。大学に進学したいという気持ちは、高校入学後から持っていましたが、自分が勉強ができるかどうかを今まで意識したことはなかったです」

全校生徒9名の学校から、いきなり高校で同学年280名と競争することになった喜屋武さん。「中学までは勉強で苦労はそんなにしなかった」と語るように、成績は学校の中でも高かったようです。

テストを受ける日々の中で、「自分はそこそこ要領がよく、最低限の成績は取れるタイプだと思った」と冷静に自身を分析した喜屋武さんは、高校3年生の夏になると、東京の大学を受けようと思い始めます。

「最初のほうは特進コースの大勢が目指している琉球大学に行けたらいいなと思っていました。地元の高校の同級生たちは8割方、推薦でどこかの学校に進んでいたので『一般受験をする』という考え方がなかったようです。その後僕は東京の短大を出ている母親から話を聞き、東京の大学に行きたいなと思うようになりました」

そこで、各学校のパンフレットを取り寄せて進学先を検討していた喜屋武さんは、国際基督教大学に魅力を感じ、本格的に受験勉強に力を入れるようになりました。

「当時の自分は英語が好きで海外志向がありました。『石垣島から世界に羽ばたくぞ!』と思っていたんです。入学前に学部や専攻を決めて、4年間特定の分野を学び続けるイメージが湧かなかったのもあって、アメリカ式のリベラルアーツを重視し、英語とともに幅広い学問に触れられて学べる国際基督教大学の校風に惹かれたんです」

レベル感がわからないまま志望校を設定

夏からしっかり勉強し、力試しで受けたセンター試験では国語・英語・世界史の3科目を受けて85%を獲得。かなりの高得点でしたが、国際基督教大学、早稲田大学の国際教養学部、法政大学の国際文化学部などを受けた現役時の受験は失敗に終わります。

「レベル感がわからないまま志望校を決めたので、夏頃にはもう現役での合格は厳しいかなと思っていました。なので、浪人をする覚悟は最初からある程度していましたね」

こうして喜屋武さんは浪人を決意します。

浪人を決断した理由を聞くと「それ以外の選択肢がなかったから」という言葉が返ってきました。

「行きたい大学のために腰を据えてやりたいなという思いがありましたし、自分のことをじっくり考えるモラトリアムの期間も欲しかったんです」

この1年を彼は、予備校に通わずに自宅浪人をすることを決めます。

「うちは経済的な余裕がないと思っていたので、予備校には通わずに自宅がある石垣島で浪人することにしたんです。通信教育で、鉄緑会が添削指導をしてくれるサービスがあったのでそちらを利用しました」

バイトで勉強に手がつかなくなった

しかし、この決断が浪人を長引かせる要因になってしまった、と後に喜屋武さんは分析します。

「日中は図書館で勉強をしていたのですが、受験費用や東京の大学のオープンキャンパスに行くお金を自分で稼ぎたいと思い、気分転換も兼ねて夏から居酒屋でアルバイトを始めたんです。

最初は週2〜3回しか入らないつもりだったのですが、店長やバイト先の先輩の頼みを断れないタイプだったので、3〜4時間勤務がしだいに延びて帰宅が深夜になり、勤務日数も週5になっていました。本格的にバイトをする前までは平均で8時間程度勉強していたのですが、時間やエネルギーをバイトに持っていかれて、日中の勉強が手につかなくなってしまったんです」

こうした生活で勉強時間が大きく不足したため、E判定だった国際基督教大学が、かろうじてD判定になったくらいで、成績はそんなに伸びなかったそうです。

この年も結局、前年と同じ大学を3つ受けるも全落ちしてしまいました。

「『惜しかった』という感覚もなくこの年の受験は終わりましたね」

1浪目で落ちた理由を彼は「勉強のペースを崩したこと」と振り返ります。

「孤独に勉強をしていたので、モチベーションの維持がうまくできませんでした。バイトを入れすぎてしまったのも原因です。環境的に自分は宅浪が向いていなかったんでしょう。また、勉強をする中で、国際基督教大学は特殊な入試方式だったため、勉強も特殊なやり方を要求されることがわかってきたので、独学で入れるイメージが湧かなくなりました」

そうした失敗から、彼はついに東京の予備校に通って2浪したいと両親に伝えます。そのきっかけは、東京での受験の失敗が大きく影響していました。

「東京での受験を終えたものの、手応え的に落ちていることがわかっていたので、これからどうしようかなと高田馬場駅の周辺をぶらぶら歩いていたんです。すると、早稲田予備校という予備校の看板がひときわ目立っていたので、ふらふらと引き寄せられるように入りました。

そこで、予備校に通うことの重要性と早稲田の魅力を聞いて、完全に早稲田に第1志望校を変えようと思いました。1浪目は不完全燃焼感が強かったので、次は悔いのない環境でしっかり勉強してみたいと思ったんです」

1浪目のオープンキャンパスでも早稲田に行き、いろんなサークルで学生たちが各々楽しんでいる姿を見て、早稲田での大学生活に興味を持った喜屋武さん。彼は上京して予備校生活を送りながら早稲田を狙うことに決めます。

「勉強に関しては、もともと得意なほうだという感覚はありました。だから、ちゃんとした環境でやれば結果を出せるはずだ、と自分を信じたかったんです」

2浪目は精神的に楽だった

実際、東京に引っ越したあとにルーティンとなった、授業を受けて自習室で勉強を続ける生活は彼に合っていました。

「いつでも質問できる先生や、同じ大学を目指して頑張る仲間たちがいることで、余計なことで悩んだりせず、勉強だけに集中できるシンプルな生活を送れました。環境や意識でこんなに生活が変わるんだとびっくりしました。この1年、土日も含めて勉強漬けの生活でしたが、1浪目よりも精神的にはだいぶ楽でした」

先生に指示されたテキストや勉強法、予備校内の試験を受けてひたすら集中した1年は、時間が経つのが早かったそうです。浪人生活の前半で受けた模試の判定はC〜Bだったそうですが、受験直前期にはA判定で安定したようです。

「この成績ならいけるだろうという感覚がありました。文系の学部の中で幅広く学際的に勉強できそうな学部を探して、文学部・文化構想学部・教育学部複合文化学科と、腕試しで政治経済学部の4つを受け、政治経済学部以外は無事に合格をいただきました。喜びよりは安堵の気持ちのほうが強かったですね」

その中から文化構想学部を選んだ喜屋武さんは、2浪の末にようやく志望していた大学・学部への進学を果たしたのです。

2浪を経て、浪人して良かったことを聞くと、「やりきった感が持てた」、頑張れた理由に関しては、「完全燃焼できる納得のいく環境で取り組めたこと」とそれぞれ答えてくれました。

「1浪目の自宅浪人は自分で決めたことでしたが、思うように勉強に取り組めず、悔いが残る結果になりました。なので、2浪目は東京の予備校に通わせてもらって、納得いくまでやりきれたおかげで悔いがなくなりました。金銭面では親に負担をかけましたが、僕の意思を尊重してくれてありがたかったですし、結果的に早稲田に合格したことで喜んでもらえたのでよかったです」

また、2浪目で早稲田に行くために東京の予備校に通う決断をしたことは、彼の精神面・行動面を大きく変えたとも語ります。

「自分は強いこだわりや願望がないほうだと思っていました。でも、初めて1浪が終わってから、自分なりに覚悟や強い思いが持てて、それを親にも伝えることができたんです。自分でさえもこんなに強く早稲田に行きたいという思いがあったことに気づかなかったので、今まで見えなかった、知らなかった自分の一面に気づくきっかけになりました」

大学に入ってからの喜屋武さんは、「毎日が修学旅行」と語るような楽しい大学生活を謳歌します。

大学生活後半には仲間と始めたシェアハウス生活を楽しむあまり、全員で留年。25歳で早稲田を卒業してからは「ひまんちゅ(暇人)」と後に振り返る3年のフリーター生活を経験。

19歳のときの選択は間違っていなかった

28歳で初めてリクルートの代理店に就職し、2年間の社会人生活を経て、30歳で毎月1回お店に立ち、日替わりで店長が替わるソーシャルバーPORTOを友人と共同創業しました。


喜屋武さんが友人と立ち上げたソーシャルバーPORTO(写真:公式サイトより引用)

「今の自分の東京での人間関係、人との関わりのベースは浪人時代にできたものです。東京に来てから15年近く付き合えている、これからも一生付き合っていけそうな友達がたくさんできたので、19歳のときの選択、意思決定は間違えていなかったなと思います。

両親のように旅をするように生きる自分の人生の中で、楽じゃないけど、宙ぶらりんで人生のことを考えられた浪人という時間を経験していてよかったと思います。これからもままならない浪人人生を、自分なりに楽しく生きれたらいいなと思います」


歌舞伎町で三線デビューした喜屋武さん(写真:喜屋武さん提供)

石垣島で生まれ育ったおおらかな少年は、大学受験浪人で身につけたたくましさで、これからも浪人のような人生をたくましく送っていくだろうと思いました。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)