幼きころ秀吉の後継者と目された小早川秀秋は、関ヶ原で何を思ったのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第42回「天下分け目」では、家康と三成のどちらに諸将がつくかが描かれ両陣営が関ヶ原での決戦を想定している様子が描かれました。第43回「関ヶ原の戦い」では、15万人とも言われる兵が関ヶ原に集結し、ついに激突へ。関ヶ原の戦いが始まるまで、どちらの陣営につくか明確にしなかったとされる小早川秀秋について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

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小早川秀秋は、寧々の兄・木下家定の五男として生まれました。1585年に叔父である秀吉の養子になり、叔母である寧々のもとで育てられます。

このころ秀吉は内大臣に任じられ、紀州征伐、四国征伐の最中であり、天下統一を目前にしていました。

秀吉の養子となった秀秋

武士の出ではない秀吉には、その権力を強くするために身内を抜擢し、秀秋も、重要な秀吉の後継者候補として丹波10万石を与えられます。秀秋は、幼少期は蹴鞠や舞などを学び、貧者に施しを与えるなど心優しい少年で、秀吉や寧々にも期待されていたようです。

当時、実子に恵まれていなかった秀吉の後継者と目されていたのは、年長で従兄弟の羽柴秀次でしたが、秀秋はその秀次に次ぐ後継者候補でした。秀秋は、わずか7歳で元服し、関白・秀次に次ぐ中納言の位を与えられます。

このため諸大名は、秀秋(この当時は秀俊と名乗っていました)に取り入ろうと押し寄せました。その結果、秀秋は7歳にして毎晩、酒を飲むことになります。

現代では少し考えられない話です。この秀秋の状況が大きく変わったのが、秀吉の実子である秀頼の誕生です。

秀吉は実子・鶴松を亡くしていましたが、秀頼はすこやかに成長していました。このため秀吉は、まず後継者の第二候補である秀秋の身の置き場を考えます。

目をつけたのは、当主の輝元に実子のいない毛利家でした。その話を秀吉の軍師・黒田官兵衛が、毛利家の重臣である小早川隆景に持ちかけます。慌てた隆景は、秀吉に自ら秀秋を養子に貰い受けたいと願い出て、毛利家に秀秋が入るのを防いだそうです。

秀吉は、そもそも隆景を高く評価し、毛利家の重臣ながら秀吉の直参扱いにしていたので、この申し出にことのほか喜んだと言います。ちなみに、このとき秀秋は12歳。7歳からおぼえた酒に溺れ、すでにアルコール依存症の状態だったようです。

このあと秀吉は謀反の疑いで、後継者に指名していた秀次を一族もろとも抹殺します。秀秋も、この秀次の事件に巻き込まれるのですが、すでに小早川家に入っており、立場としても豊臣家を離れていたため、殺されることはありませんでした。

さらに転封と復帰に翻弄された秀秋

毛利の両川と謳われた名将小早川隆景が没すると、秀秋は正式に小早川家を継ぎます。このとき秀秋は朝鮮出兵に参戦していましたが、その秀秋に対して秀吉は何度も帰国命令を出しました。しかし朝鮮での戦線の状況もあり、なかなか帰国できません。

ようやく帰国した秀秋に待っていたのは、小早川領である筑前から越前への減封でした。これは秀秋への罰というよりは、長期化する朝鮮での戦争の兵站拠点としての博多および筑前を豊臣家の直轄で管理する意味合いがあったようです。

しかし小早川家としては大幅な減封のため、大量の家臣を解雇せざるを得ませんでした。秀吉としては隆景ならともかく、秀秋には、もはやなんの期待もしていなかったのでしょう。秀秋に大きな瑕疵がなかったことから、この処分には当時から三成の讒言との噂があったようです。

三成が現実に博多の代官になったことから、秀吉が三成に筑前を与えようとしたということもまことしやかに言われ、これが反三成派を大いに刺激することになりました。

秀吉が死ぬと、この件は家康によって蒸し返されます。秀吉の遺命ということで、秀秋は越前から筑前に再び返り咲きます。しかも以前よりも加増され、その石高は59万石にのぼりました。このことから秀秋は、家康に恩義を感じていたものと思われます。


徳川家康は小早川秀秋の気持ちをうまく捉えて外交をしていました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

関ヶ原前は流れで西軍につく?

秀秋は西軍として伏見城の戦いに参戦しましたが、その後は積極的に西軍の作戦に参加することもなく、鷹狩りなどをしていたようです。ここは推測になりますが、本家の毛利家が西軍の盟主としてまつり上げられていたこともあり、流れで西軍についたと考えられます。

三成は秀秋に、秀頼の後見役や関白の座などを示唆して歓心を買おうとしました。しかし秀秋がどこまでそれを真に受けていたかはわかりません。
仮に秀秋が興味を示していたとしても実際、それをとりしきる重臣たちは黒田長政らによる調略が行われていました。

三成の脇の甘さは毛利を相手にしてもそうですが、外交スタイルは通り一遍で、相手の家中のパワーバランスなどを観察して完全に相手の組織を取り込むようなきめ細かさがありません。彼の師である秀吉は、そうした細かい調略の天才でした。

さらに秀吉には、その道の天才である軍師・黒田官兵衛がいましたが、三成にはそうした軍師はいません(島左近は軍事面での軍師であり外交面でその才を発揮することはありませんでした)。逆にその官兵衛の息子・長政が家康のために、その働きを行っていたのは皮肉なものです。

三成は、毛利家対策をすべて安国寺恵瓊に丸投げしていたため、家康に近い吉川広家の動きを察知できませんでした。関ヶ原では、毛利本軍どころか一緒に行軍していた長曾我部軍まで無効化されてしまいます。三成は外交戦の細かい詰めで、いわゆる東軍にまるで歯が立たなかったのです。


石田三成と徳川家康の外交手腕の差が、関ヶ原の戦いの趨勢を決めたのかもしれません(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

秀秋、突然松尾山にあらわる

秀秋は、決戦の前日である9月14日に突然、1万5千もの兵を率いて松尾山城にあらわれます。これによって先に松尾山城に入っていた伊藤盛正は追い出される格好に。この小早川軍の動きに危機感を抱いた大谷吉継は、松尾山城に向かって陣を構築します。

西軍にとってこの状態は、最初から側面を敵に晒しているようなものです。ただ秀秋は東軍につく態度も見せていなかったようで、家康もまた秀秋の真意をはかりかねていました。最近の研究では、戦端が開かれてすぐに小早川軍が大谷隊に攻めかかったという見方もあります。

大谷隊の奮戦でいっときは小早川軍を防いだものの、大谷隊の崩壊とともに西軍は総崩れになりました。結果として毛利、小早川という大戦力の手綱を引けないまま関ヶ原の戦いに臨んだ三成および西軍首脳の詰めの甘さと、徳川家康という生ける伝説のような有形の権威のもと一枚岩となった東軍との差が、明瞭に出た戦いとなりました。

わずか半日で決着がついたのも、ある意味、あたりまえだったのかもしれません。


関ヶ原古戦場、小早川秀秋陣地松尾山より戦場を望む(写真:kumayosi/PIXTA)

秀秋は、関ヶ原の戦いでの功績を家康に高く評価され岡山55万石を与えられます。しかし、その評判は芳しくなく、世間は当時から小早川家の行動を「戦場での寝返り」として、卑怯な行為と受け取られていました。

これは、「寝返り」という行為よりも、秀秋に武将としての実績がなく能力もないのに、秀吉の身内というだけで大大名になっていたことに対する批判でもありました。無能ゆえ武門の名誉も顧みず、寝返りのような卑怯な行為を平気でしたという評価です。

22歳の若さで亡くなり改易


秀秋は関ヶ原の戦いから2年後、22歳という若さでこの世を去りました。

これは秀秋の裏切りで憤死した大谷吉継の呪いという噂が流れましたが、実際のところは幼少期からの飲酒によるアルコール依存症に端を発した内臓疾患が原因だったようです。秀秋は子がいなかったため無嗣断絶で改易となりました。

秀秋の大大名としての人生は秀吉によってつくられましたが、彼の関ヶ原での行動により、その秀吉の天下は無に帰しました。

このような皮肉な役割を果たしたのが、小早川秀秋だったのです。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)