西軍最強の男と呼ばれた武将の兜(写真:清十郎 / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第47回は、関ヶ原の戦いに参戦できなかった、西軍最強と呼ばれた武将について解説する。

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秀吉から「天下無双」と絶賛された男

あの男がもし、関ヶ原の戦いに間に合っていれば――。

一部の歴史ファンの間で、そう悔やまれている人物がいる。といっても、戦に遅参して家康に激怒されたという、嫡男の秀忠のことではない。

秀忠の遅参については諸説あり、信濃国上田城主、真田昌幸に足止めされたというのは誤解で、もともと「攻略後に上洛せよ」と家康から命じられていたともされている。つまり、もともと上田での足止めは、家康にとって想定内だったというのだ。いずれにせよ、東軍は勝利したのだから、秀忠の遅参が勝敗に影響することはない。

では、関ヶ原の戦いで不在だったことが、悔やまれる人物とは、誰なのか。それは、豊臣秀吉から「天下無双」と絶賛された立花宗茂である。

宗茂は、石田三成率いる西軍に味方していたが、関ヶ原の戦いには駆けつけることができなかった。もし、宗茂が間に合っていれば、東軍の勝利も危うかったはず……という声まで上がっている。

そんな西軍が待望した立花宗茂とは、いったい、どんな人物だったのだろうか。

立花宗茂は永禄10(1567)年、豊後国国東(くにさき)郡の筧で生まれた。現在の大分県豊後高田市付近にあたる。ただし、生まれについては、永禄12(1569)年に生まれたという説もあれば、出生地は岩屋城で、現在の福岡県太宰府市だったという説もある。

立花宗茂の幼名は「千熊丸」(せんくままる)とされ、大友家の重臣で、名将として知られていた吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれた。

さらに、紹運の父、つまり、宗茂から見れば祖父にあたるのが吉弘鑑理で、大友義鑑と宗麟の2代にわたって仕えている。鑑理は宗麟の側近として軍事や政治など多方面で活躍。臼杵鑑速や吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられたことで知られる。

そんな勇猛な祖父や父の血を継いだのだろう。宗茂は生まれつき強健な子どもだった。6〜7才から武芸を好み、ほかの子どもを素早く倒したという逸話も残っている。

12才にして勇猛ながらもクレバーだった

12才のときのことだ。宗茂が鷹を手にもって、同年代の友達と外を駆け回っていると、いきなり猛犬が襲いかかってきた。

すると、宗茂は少しも臆することなく、太刀を抜いて飛び出していき、猛犬とすれ違いざまに、峰打ちによって撃退してしまった。さぞ、父の紹運も鼻が高かっただろう、と思いきや、息子にこう説教したという。

「武士たる者 、一度、刀を抜いたからには、相手を仕留めるべきである。なぜ、棟打ちなどして身を防ぎ、犬を斬り殺さなかったのか」

いかにも猛将らしい父の叱責だが、宗茂は動じることなく「太刀というものは、敵を斬るものだと承っています」と言ってほほ笑んだ。犬は敵ではないので、むやみに殺生するべきではない、と宗茂は言いたかったらしい。

父の紹運は、そんな息子の立派な態度に心を打たれたようだ。一人前の武将に育て上げようと、宗茂は13才のときに父から「おぬしも出陣するか」と誘われている。だが、これには慎重さを見せてこんなふうに答えた。

「このままの状態で戦場に出て、敵に出会えば腑甲斐なき死をとげることでしょう。あと 1、2年も経てば、大将としてぜひ出陣したいと願っております」

勇猛ながらも無鉄砲ではないクレバーさを兼ねそろえていた宗茂。いずれも『名将言行録』からの逸話であり、事実かどうかは定かではない。だが、その後の「宗茂伝説」を観れば、この少年らしからぬ堂々たる態度も、本当だったのではないかと思えてくるのだ。

宗茂の初陣は14才とも16才ともいわれている。筑前朝倉の名門である秋月種実らが押し寄せてくると、宗茂の父・紹運と宿老である戸次鑑連(立花道雪)に、出陣が命じられた。

この石坂合戦において、宗茂は初陣にもかかわらず、わざと父から離れて陣をはったという。周囲から合流されるように促されても、こう言って別行動を貫いた。

「父と一緒に戦えば、私に従うべき兵も、私の命令に従わなくなるだろうから」

その結果、宗茂は敵将の堀江備前を射って見事に勝利。初陣とは思えない度胸に、立花道雪は以前から関心を持っていた宗茂のことを、いよいよ気に入ったらしい。「養子にほしい」と希望するようになった。

とはいえ、宗茂は紹運にとっても、有望な跡取り息子である。当初は申し出を拒んでいたものの、紹運は道雪を心から尊敬していたため、最終的には求めに応じて、宗茂の養子入りが実現することとなった。

初陣以降も、宗茂は戦で勝利を重ねて、大友宗麟の家臣として、めきめきと頭角を現していく。

強大な島津軍に少数で立ち向かった

宗茂の勇猛さと知略が存分に発揮されたのが、天正14(1586)年のことである。前年に豊臣秀吉は大友氏と島津氏の両方に九州停戦令を発しており、大友氏はすぐに受諾するなか、島津氏はこれを拒否。島津義久は大軍を率いて、筑後・筑前にまで、怒濤の侵攻を開始した。

島津軍のすさまじい猛攻のなか、大友軍は秀吉からの援軍が来るまで、なんとかしのぐほかはなかった。しかし、岩屋城に立て籠った実父の紹運は戦死している。実は、宗茂は紹運に「ともに籠城を」と呼びかけていたが、紹運はこう言って退けたという。

「父と子が同じ場所にいて討ち死にすれば先祖からの血が途絶えることになる。たとえ、一方が滅んでも、後一方が残ればよいではないか」

そんな父が戦場で命を落としたと聞いて、やはり一緒に戦っていればと悔やんだか、父らしい最期と受け止めたのか。宗茂の胸中はわからないが、実父の死にも動揺を見せなかったことは確からしい。迫りくる強豪の島津軍5万あまりに対して、宗茂は4000の兵で立花城での籠城戦を展開している。

やがて秀吉の九州征伐の軍勢が近づくと、島津軍は包囲を解いて撤兵を開始。そのタイミングを逃さず、宗茂は島津方の星野中務大輔吉実と星野民部少輔吉兼の兄弟が守る、高鳥居城へと攻め込んでいき、激戦の末に落城させている。そのうえ、岩屋城と宝満城を奪回することにも成功した。

九州平定への貢献度の高さから、宗茂は秀吉から筑後国柳川8万石を与えられて、大友氏から独立した大名にと取り立てられている。

宗茂の強さは、海の向こうでも存分に発揮された。秀吉の命で朝鮮出兵した際には、碧蹄館の戦いにおいて、4万3000の明国と10万あまりの李氏朝鮮に対して、わずか3000の兵で大勝したといわれている。

無謀さばかりが際立った秀吉の朝鮮出兵だが、宗茂がいなければ、その被害はさらに甚大だったことだろう。

西軍として活躍するはずだったが…

東の本多忠勝と並んで「西の最強武将」と称された立花宗茂。東西が分かれた関ヶ原の戦いにおいて、宗茂は西軍として活躍するはずだった。

決戦前、西軍から東軍に寝返った京極高次が大津城に籠城すると、宗茂は出陣。大津城を砲撃している。宗茂からすれば、大津城を陥落させたのちに、西軍に加勢するというイメージができていたに違いない。

だが、9月7日から始まった攻防戦の決着がついた9月15日、その日にいきなり関ヶ原の戦いが始まり、西軍はすぐさま大敗。宗茂が参陣するまでに、決着がついてしまったのである。

関ヶ原の戦いののち、宗茂は家康から柳川を取り上げられてしまい、浪人として過ごしている。しかし、そんな宗茂からも家臣は離れることはなかった。

浪人生活になっても家臣たちに慕われた

変わらず慕って付き従おうとした家臣がかなりの数に上ったという。宗茂がただ戦に強いリーダーだったならば、このように家臣から慕われることはなかっただろう。


立花宗茂らが祀られる柳川市の三柱神社の鳥居(写真:J6HQL / PIXTA)

そんな宗茂の才を惜しんだのが、ほかならぬ家康だった。慶長11(1606)年、宗茂は家康から陸奥・棚倉を与えられて、大名に返り咲いている。

「もし、この男がいたならば、東軍の勝利は危うかったかもしれない」

後世でそう評価されるよりもはるか前、リアルタイムでそう感じたのが、ほかならぬ家康だったのかもしれない。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
岡谷繁実著、北小路健・中澤惠子訳『名将言行録 現代語訳』 (講談社学術文庫)
加来耕三『立花宗茂-戦国「最強」の武将』 (中公新書)
中野等、日本歴史学会編『立花宗茂』 (吉川弘文館)

(真山 知幸 : 著述家)