スマホをめぐる巨大企業の争いなどは「イノベーション」や「資本主義」が何なのかを、われわれに考えさせてくれる(写真:Getty Images)

イノベーションとは、経済を破壊することだ。それが定義だ。

これは私の洞察ではない。かの経済学者、ヨーゼフ・シュンペーターが言っていることなのである。言っているも何も、シュンペーターの金字塔『経済発展の理論』(1912年)の中心命題である。

シュンペーターの創造的破壊の本質とは何か


この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら

このエッセンスは、新たに登場した経済主体が、新しい生産方式を企て、この企てに対して「銀行家」が信用創造によって新しい資本を供与する。

この企てが実行され、既存の生産者による独占体制が破壊され、この新しい経済主体(彼が「企業家」である)による新しい生産方式(=「新結合」)が市場を席巻する。

この方式に他の経済主体が参加、追随し、その結果、既存の経済主体で成立してきた市場の均衡が破壊され、経済は新しい均衡、次の段階に進む。これが経済発展なのである。これがシュンペーターの主張である。

このプロセスの中で、新登場の企業家の新結合が、これまでの生産者の独占を破壊すること、これが「創造的破壊」である。

この「創造的破壊」を、後世の人々はイノベーションと呼んだのである。注意しなければいけないのは、現在、多くの人が、イノベーションとは創造的破壊である、といったときに、破壊が軽くとらえられ、既存の概念を壊す新しいモノ、創造的で新奇性のあるもの、というイメージでとらえられているが、シュンペーターのいう創造的破壊とは、そんな生易しいものではないし、1つの新しい商品やアイデアのことを指すのではなく、経済全体の新しい段階への進展を意味している。

生産の世界で独占者の破壊が行われ、新しい生産者たちが取って代わる。この新陳代謝が経済発展をもたらす、という大きなプロセスのことを言っているのである。

だから、経済発展とは拡大ではなく、成長ですらないとシュンペーターはみなしている。現在われわれが経済成長と呼んでいるものは、ただの量的膨張か、あるいは長期の持続的成長と言っても、いわば樹木が自然に伸びていくようなものであり、経済的発展とは到底呼べない。経済発展とは、現在の経済市場と将来のそれに断絶があり、新しいものが前のものに取って代わるものなのである。

この考えに基づけば、現代のイノベーションが経済成長を生み出す、というのは間違っている。持続的な成長というのは、イノベーションではなく、ただの膨張なのである。

そして、シュンペーターは、この経済発展をもたらすプロセスを景気循環と呼んでいるのである。この循環によって、経済は好況、不況を経て、これまでの生産者、生産メカニズムが消滅し、新しい生産者と生産システムが経済を形作るのである。ここでの不況とは景気後退という短い一時的なものではなく、ひとつの経済恐慌に近い次元のものを指す。

シュンペーター理論とは「資本論」「資本主義システム論」

当初は、銀行が新しい資本を供給するから、経済全体の資本が増加する。労働者もそのほかの経済的資源も、既存の生産者と新規の企業家との間で取り合いになる。しかも、新規の企業家は新参者として、既存の生産者が先有している労働者と資源を奪い取るから、これまでよりも高い賃金、高い価格を支払わないといけない。これがブーム、好況をもたらす。

その結果、物価も上がる。しかし、次には、生産が二重に行われるから、価格は下落し、不況になる。既存の生産者と新規生産者がともに別々に生産し、新規企業家の生産物が市場に出てくれば、商品価格は下落するからである。

そして、新しい企業家の方が優れているわけだから(もし優れていなければ、イノベーションは最終的には実現せず、もとの経済に戻る)、下落した価格でも採算が合う(あるいはより魅力的な製品で価格下落を伴わずに済む)が、既存の生産者は生き残れない。

よって、淘汰されていく。新しい生産者だけが残り、彼は独占的な地位を占める。この利潤により、銀行へ資本は返済され、経済は縮小する。さらに、新しい独占者(かつての企業家)による生産は続くが、徐々に幅広く、新しい生産システムの効率性の恩恵が波及し、不況は終わり、経済は景気中立的な新しい均衡点に戻っていく。

これがシュンペーターの経済発展の理論、景気循環論のメカニズムである。そして、景気循環論というと、現代のわれわれは短期の景気変動をイメージしてしまうが、ここで語られるのは、もっと期間の長いものであり、シュンペーターの意図は「資本主義論」なのである。

シュンペーターの理論のエッセンスを、われわれ現代人は、都合よく、個別のイノベーション論に矮小化しているが、シュンペーター理論とは、「資本論」であり、「資本主義システム論」なのである。

だからこそ、『経済発展の理論』(純粋理論)、『景気循環論』(理論の再整理と歴史的検証、1939)ときて、最後の大作は『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)なのである。

シュンペーターは、第2次大戦直前においては、資本主義における上述のような循環におけるダイナミズムが失われ、大企業はその独占的な地位を守ることに専念し、それに成功し、組織内部では現状維持の官僚主義がはびこっていることを嘆いた。資本主義は、これ以上の発展が起きず行き詰まり、その結果、社会主義に陥らざるをえなくなると悲観したのである。

現代人はとっくに忘れているが、ここでシュンペーターがもっとも重要視したのが、「銀行家」である。新結合という、成功するかどうかまったくわからないものを実行するのに必要な資本を、リスクをいとわず提供する大胆さ、および企業家と新結合の適否を見抜く洞察力、この両者を備えた「銀行家」こそ、資本主義においてもっとも重要としたのである。

シュンペーターとすれば、これは自然であり、当然のことで、提供される資本が最重要、その資本こそが、経済を1つの均衡から次の均衡に動かし、その過程を経て新しい段階に発展させる、だからこそ、「資本」主義なのだ、ということなのである。

「資本主義の崩壊」がいよいよ実現しようとしている

幸運なことに、シュンペーターの予想は外れた。社会主義は資本主義よりも先に1990年に崩壊した。

では、このことは、シュンペーターの憂鬱、つまり「もう資本主義は死んでしまうのか、循環する活力による発展は終わってしまうのか」、という絶望が杞憂に終わったことを意味するのか。

違う。正反対だ。

社会主義が資本主義の次に来る(カール・マルクスは理想の社会として、シュンペーターは絶望的な結末として)という予想が外れただけで、シュンペーターの資本主義の独占体制化、官僚主義化による活力低下による衰弱死という悲観シナリオよりもさらに悪い、崩壊シナリオが実現しようとしているのだ。

社会主義は崩壊したが、それは資本主義の勝利を意味するのではなく、社会主義に続いて今度は資本主義が崩壊するだけのことなのだ。

なぜそう言えるのか。それが資本主義の定義だからである。

イノベーションとは経済を破壊することである。資本主義を動かすのは、イノベーションであり、それを経済に実現させる資本である。

経済は、社会の基盤あるいは経済社会として一体化している。資本がイノベーションを実現させ、イノベーションが経済を破壊する。

それが独占体制を壊し、経済発展をもたらす場合、つまり創造的破壊が実現する場合もあれば、既存の独占主体と新規参入の独占をもくろむ企業家との覇権争いにより、経済が破壊されるだけ、創造的でないただの破壊に終わる場合もある。

前者の場合、かつそれが人々の生活を大きく改善するような技術革新を伴う場合には、経済は大きく発展し、社会も豊かになりうる。しかし、後者のように、独占的利益の奪い合いに終始する場合には、経済秩序は破壊されていくだけとなる。その結果、徐々に社会秩序も破壊されていくことになる。

資本主義は「崩壊の後半、末期」へ推移

したがって、資本が経済社会を動かす資本主義という時代は、社会秩序を壊すことにより発展する前半と(中世の呪縛から経済主体を開放した)、自由になりすぎた経済主体同士が資本を武器に破壊しあい、経済も社会も秩序を失い、安定均衡から次の均衡には移れずに、ただ崩壊していく後半、末期と推移することとなる。

資本主義は1492年に始まった。いわゆるクリストファー・コロンブスによる「新大陸」の発見、大航海時代の始まりが資本主義の始まりなのである。

資本主義とは流動化である。

中世の固定された共同体が、農村と都市に分かれ、農村から都市へ人々が流動化し、労働者として流れ込む。欧州から世界へ、人と武器と菌が移動し、略奪された貴金属と商品作物が欧州に流れ込み、奴隷が大陸間を移動する。知識が移動し、中世時代に蓄積された富、世界で略奪された富が欧州から資本として流動化し、世界を駆け巡る。

この資本により、人々は労働力としてさらに流動化、動員され、戦争にも動員された。資本が移動し、戦争が移動し、覇権が移動した。

経済は変化し、社会が経済の変化に対応するように変化した。そして、その変化のスピードは速まり続けた。なぜなら、軍事的な戦争にせよ、経済的覇権争いにせよ、これらは流動化による動員の戦い、どれだけすばやく環境変化に対応して動員できるか、自らも変化できるかが、国家や経済圏同士の戦いの勝利の決め手となったからである。

もちろん、環境変化とは、人間たちが移動を始めたこと、その移動を加速したことによるものであり、自分が動き、自分で環境を変化させ、それへの対応としての変化を強いられ、この変化は加速し続けたのである。

すなわち、資本主義の時代とは、変化の時代、変化により経済と社会を破壊しながら変化させ続ける時代なのである。この変化をとめれば、ただ破壊された前世代の経済と社会が遺物として残るだけだ。だから、変化し続けるしかない。変化の速さを競う戦いである。

そして最後には、加速に社会がついていけず、独楽(こま)が止まるように、経済社会が力尽きて、止まってしまうか、あるいは、加速がつきすぎて、発散し、バブルが崩壊するように、経済社会が破裂してバラバラになって残骸があちこちに残るか、となるはずである。

現在は、この発散が始まり、破片があちこちに散らばり始めている様子がうかがえるのである。

格差は拡大し、経済の分断から社会は分断された。資本主義が最も加速して発展したアメリカでは民主主義も分断されて、バラバラになっている。

経済だけを見ても、変化は加速し、変化に耐えられないとみた独占企業候補者は、みなプラットフォームというものを支配することで、変化が加速しても、自分だけは固定されたままでいようとし、このプラットフォーム覇権争いの小競り合いが、さまざまな産業分野で、世界各地で行われている。

ゲームチェンジャーなどという恐ろしい言葉が、安直に軽々しく、あちこちで使われ、大学生起業家ですら、ゲームチェンジャーを目指しているらしい。そう簡単にゲームのルールを変えられてはたまらないが、ゲームのルールは毎回変えられようとする。

それは実際に変わるのであり、ゲームのアリーナ、つまり、市場も社会も個々のプレーヤーに破壊され続け、ゲームのフィールドの全体を整備する、設計し直す暇もインセンティブもなくなり、しまいにはゲームは成り立たず、経済も社会も崩壊していくだろう。

資本主義という「変化の時代」が終わる

となると、社会が崩壊して終わってしまうのか ? 人間社会の断末魔、この世の終わりなのか ?

そうではない。資本主義、という「変化の時代」が終わるだけである。次の「固定化の時代」が来るのである。「成熟の時代」といってもいいし、「深堀りの時代」と言ってもいいかもしれない。

資本主義とは、誰かが設計して作ったものではない。ただ、世の中が動き始め、それに各行動主体が動いて対応し続けた結果、全体の様相を描写すると、そういう風になっている、というだけのことである。設計者もシステム運営者もいない。だからシステムではないのである。だから、社会学者・イマニュエル・ウォーラーステインの提唱する世界システム論はミスリーディングなのである。

もちろん、部分的なシステムは存在する。例えば、江戸幕府システムという優れた統治機構は存在する。しかし、江戸時代の社会構造は、その徳川幕府の提案したシステムに、商人、町人、農民が個々に対応、適応して生まれてきたものである。

そして、社会全体があたかもシステムのように安定して機能しているように見えるのは、個々の主体が、部分的に設計された社会の各部分のシステムに対して、試行錯誤を繰り返す中で(それに対応して、部分的な社会システム設計者も、試行錯誤で部分システムを修正していく)、社会の変化に適応し、疑似システムである社会をつくりあげてきたからである。

個々の主体同士が交わる中で安定的な均衡へ向かう、安定的な疑似システムが熟成過程のように形成されていくのである。そのためには、繰り返しが必要だ。

経済が安定している中で、社会の「疑似システム」が熟成し、社会も成熟していくのである。

その中で、文化も技術も成熟し、次の「変化の時代」において、果実の刈り取り、量的拡大的な経済成長の実現、顕示的で華やかな文化が外へ溢れ出すこと、すなわち、作り上げてきたものが花開き、みせびらかすバブルの時代、「変化の時代」における豊かさの実現、氾濫を準備するのである。

中世こそが、農業生産力が向上し、経済的な富の蓄積がおき、次の時代の世界を駆け巡る資本の原資を蓄積したのである。

固定化の時代、内的充実の時代へ向けゆっくりと思考を

したがって、現在の近代資本主義末期が発散し、バラバラになったあと、それと同時進行的に重なり合いながら、蓄積の時代、成熟の時代、固定化の時代が世界の各地の社会に徐々に広がっていくのである。

われわれはそれを準備する必要がある。そのような時代とは、日本が得意とするタイプであることは、「ついに『日本が独り勝ちする時代』がやってきた」でも書いたとおりだ。

しかし、世間ではこれを理解せず、世界に遅ればせながら、いまさら変化を意図的に加速し、意図的に社会の崩壊を早めようとしているようである。だから、日本のさまざまなものはうまくいかない。政府や企業が動けば動くほど、崩れていくように見えるのである。

今からでも遅くはない。固定化の時代、内的充実の時代へ向けて、じっくりわれわれ個人個人がゆっくり思考することから始めようではないか。AIなどにより人間の思考が退廃させられないように(本編はここで終了です。この後は競馬好きの筆者が週末の競馬を予想するコーナーです。あらかじめご了承下さい)。

競馬である。

エリザベス女王杯。3歳と古馬の牝馬とが対決する、頂上決戦である(12日、京都競馬場で行われる第11レース、距離2200メートル、G1)。

古馬という表現は考えてみると差別的でひどい話だが、競走馬の生産の観点からはやむをえない。優秀な遺伝子を選び出し、後世に残すものを決め、その牡馬と牝馬を交配するのだから、どの馬が優れた遺伝子を持っているかがわかってしまえば、それ以上レースをする必要はないのである。

とりわけ牝馬は、1年に1頭しか遺伝子を伝えられないから、ともかく早く母になることが重要である。また健康面、活力を伝え、丈夫な仔を産むためにも、若ければ若いほどいいと考えられてきたのである。

だから、かつては、3歳の牡馬には3冠レースがあっても、3歳の牝馬にはなかった。桜花賞、オークスでおしまいだったのである。だから、秋に行われる3歳牡馬3冠目の菊花賞はクラシックだが、今ある3歳牝馬3冠目の秋華賞も、このエリザベス女王杯もクラシックとは呼ばれないのである。

エリザベス女王杯の本命は「勝つしかないあの馬」

したがって、古馬牝馬の重賞レースが少ないから、新しく作る(新潟牝馬ステークスが今年から施行されている)のは、伝統的な考え方からすれば、ナンセンスなのである。

もっとナンセンスなのは、大きなレースに高額の賞金をつけることだ。近年、その傾向は加速しているが、そうなると、能力が判明してからも賞金稼ぎでなかなか引退しない牡馬が増えてくる。
昨今は牝馬ですらそうだ。

ディープインパクトを父に持つ、欧州で生産されたオーギュストロダンは英国ダービー、アイリッシュダービー、そしてアイリッシュチャンピオンステークスを勝ち、欧州王者となった。さらに、この11月にもアメリカでBCターフを勝ち、世界を制覇した。

にもかかわらず、当初の引退、種牡馬の予定を翻し、どうも来年もレースを走るようだ(現役続行、という言葉はおかしい。繁殖こそがメインの仕事だから、種牡馬を引退するときに現役引退というべきである)。

ということで、5歳牝馬のジェラルディーナ(4枠7番)は昨年からの連覇がかかるらしいが、勝ったレースをもう一度勝っても能力検定上は何の意味もないから、さっさと引退してほしい。だが、もう11月で繁殖は来年からだから、勝つしかない。3歳のブレイディヴェーグ(1枠1番)に負けるわけにはいかない。

(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

(小幡 績 : 慶應義塾大学大学院教授)