江戸城富士見櫓(写真: kazukiatuko / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康が関ヶ原の戦い前に1カ月も江戸にいた背景を解説する。

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慶長5年(1600)7月17日、石田三成中心とする反家康勢力は、「内府違いの条々」という弾劾文を発し、家康に宣戦布告した。

この不穏な状況に、家康は対応を迫られる。同年7月25日、下野国小山で諸将と評定を行った徳川家康。会津の上杉景勝討伐は延期され、上洛することが決断される。翌日には早くも、福島正則や池田輝政が小山を発ち、西上の途についている。

1カ月家康は何をしていたのか

家康は、8月4日に小山を発ち、5日に江戸城に入った。江戸城に入った家康は、しばらく休息をしてすぐに上洛するのかと思いきや、なんと9月1日まで動かなかった。

約1カ月間の江戸滞在。場合によっては、大坂方に余裕を与え、家康に不利となる可能性もあるのに、なぜ家康は1カ月も江戸にいたのか? 家康は何をしていたのか?

江戸帰還以前から家康は、諸大名と書状のやり取りをしているが、江戸滞在中もそれを繰り返している。

8月4日には、池田輝政、九鬼守隆、細川忠興、加藤嘉明らに書状を送り、先陣として井伊直政を派遣することや、自身(家康)の出馬以前は直政の指示に従ってほしいということを伝えている。

5日には、福島正則に宛てて「池田輝政、藤堂高虎、井伊直政を出陣させたので、談合してほしい」と書状を出している。

そうした中、家康が心配していたのが、毛利輝元の動向であった。中国地方を支配し、百万石を超える所領を持つ輝元が家康方につかないとなると、やっかいだからだ。

輝元は7月17日に「内府違いの条々」(家康弾劾文)が三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)によって発せられると、すぐに広島を発ち、大坂城に入城(7月19日)している。


毛利輝元が城主を務めた広島城(写真:kazukiatuko / PIXTA)

輝元の養子・秀元は、7月17日には、大坂城西の丸を軍勢をもって占拠していた。これは輝元を迎えるための準備と思われる。時代劇などにおいては、毛利輝元はしぶしぶ西軍の総大将になって、石田三成らに祭り上げられたように描かれることもあるが、実際の行動を見ていると、そうではないことが明らかとなる。

まず「内府違いの条々」が発せられてから大坂入城までの輝元の素早い動き。これは、輝元が「反家康」の石田三成派と連絡を取り合い、いざというときのために備えていたことを示している。

その一方で、輝元は上杉景勝討伐には、従兄弟であり吉川家当主の吉川広家や安国寺恵瓊(安芸国安国寺の僧侶。毛利氏に仕える外交僧)を派遣し、家康の行動に従うことも表明していた。輝元は三成、家康のどちらとも連絡を取り合い、うまく立ち回っていたと言えるだろう。 

輝元は祖父の毛利元就と比べられ「凡将」の扱いを受けることが多いように思うが、関ヶ原合戦前夜の動きを見ていたら、なかなかの強かさである。とにかく、輝元がいやいや・しぶしぶ、西軍の総大将に祭り上げられたということはなさそうだ。

毛利氏も一枚岩ではなかった

ところが、毛利氏も一枚岩ではなかった。吉川広家は、家康派の武将・黒田長政(黒田官兵衛の嫡男)と親密な仲であった。広家は黒田長政を介して、家康に書状を送り、輝元が大坂城に入った経緯を釈明していた。

広家によると、輝元が西軍に与したのは、安国寺恵瓊の独断であるとしている。輝元が謀反の意思を持っていないと吉川広家から聞いた家康は安心したようで「満足した」という書状を黒田長政に送っている(8月8日)。

だが実際には、西軍加担と大坂入城は輝元の意思であった。大坂に入った輝元は何をしたのか。

毛利領国と接する伊予国に軍勢を送り込んだり、阿波徳島を占拠したり、九州北部の情勢にも介入したり、次々に他国に手を伸ばしている。混乱に乗じて、自らの権益・領国増大を図ろうとしているように見える。

そのような状況の中、家康は依然、江戸にいるのだ。8月13日、家康は福島正則・浅野幸長・池田輝政・細川忠興・黒田長政ほか諸将に「尾張・美濃の様子を知りたいので、村越直吉を尾張清洲に派遣する。それぞれ相談のうえ、返事するように。自身(家康)の出馬については準備している」との書状を送る。

同月16日には、出馬を要請する福島正則の書状を見て、黒田長政や細川忠興らに「出馬を油断なく準備しているので、安心するように」と書き送っている。それでも家康はまだ出陣しない。これはなぜなのか。

1つには、背後の敵を気にかけたということもあるだろう。会津の上杉氏やそれに力を貸す常陸の佐竹氏の動向を気にしていたのだ。彼らは家康が江戸を離れると、徳川領国に攻めこんでくることも十分考えられる。その備えとして、城郭の修築などが必要であった。

一方で諸大名に加勢を求める書状を発するため、江戸にいたのではないかとの説もある。しかし、書状の作成だけならば、西上の途上でもできることであり、これは江戸滞在の納得できる理由ではない。

家康は豊臣系武将を信用していなかった

2つ目の理由であり、かつ最も大きな理由と考えられているのは、先に西上した豊臣系武将の裏切りを恐れていた説だ。家康の指示に従うとした小山評定であったが、家康はその豊臣系武将たちを心底から信用していなかったというのだ。

最初、大坂方の挙兵は、石田三成や安国寺恵瓊など限られた人によって企てられたものとの認識だった。

それが、しだいに変化し、豊臣奉行衆もこれに同調。「豊臣秀頼様への忠節」を主張して、家康追討を呼びかけたのだ。

小山評定が終わり、豊臣系武将が西上の途についた頃(7月29日頃)になって、豊臣奉行衆の家康弾劾状(内府違いの条々)が家康のもとに届けられ、家康は情勢が変化していることを知る。

小山評定における豊臣武将たちの誓約の前提が崩れたのである。そうした情勢の変化によって、西上した豊臣系武将が裏切らないとも限らない。

裏切りの可能性もある

もし、西軍が豊臣秀頼を戴き攻め寄せてきたらどうなるか。先に出陣した豊臣系武将も自身(家康)を裏切るのではないか。豊臣系武将の裏切りの可能性があるなかで、早々に出陣したらどうなるか。

場合によっては、袋のネズミ状態になり、滅ぼされてしまうだろう。家康が1カ月も出陣しなかったのは、豊臣系武将の動向を見極めるためということも大きいだろう。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP研究所、2019)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・日本史史料研究会監修『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)