大谷吉継は病で崩れた顔を隠すために頭巾をかぶっていました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、いよいよ天下分け目の「関ヶ原の戦い」を迎えます。この大戦には両軍に注目に値する人物が多数登場しますが、ストーリーの展開上、あまりフォーカスされない人物もいるでしょう。そこで3週にわたり、関ヶ原の戦いを彩る注目人物について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。第3回は天下を支える才がありながらも義に殉じた男、大谷吉継です。

著者フォローをすると、新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

大谷吉継は1565年に近江で生まれます。吉継の母は、秀吉の正室である寧々の縁者でした。のちに関ヶ原の戦いをともにする石田三成の5歳年下です。吉継は、信長から毛利攻めを命じられた秀吉が方面軍司令官になったころに馬廻衆として仕えています。

本能寺の変の後に秀吉が台頭し、柴田勝家との抗争が激化すると、吉継は勝家と仲の悪かった勝家の養子であり、長浜城主の柴田勝豊を調略し寝返らせることに成功します。

この働きは、直後に起こった勝家と秀吉の決戦・賤ヶ岳の戦いに大きな影響を与えました。賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則ら秀吉子飼いの小姓たちが七本槍と呼ばれる武功をあげますが、吉継の働きは、それに勝るとも劣らないものです。

大谷吉継、三成のもとで働く

吉継は、その後の九州征伐において石田三成のもとで兵站奉行として働きました。ここで吉継のキャリアは豊臣政権における官僚に転換していったと思われます。九州征伐後に三成は堺奉行に任ぜられますが、吉継は、ここでも三成の配下になりました。

秀吉は、どうやら加藤清正や福島正則を代表とする尾張出身者を武将として育て、石田三成ら近江出身者は官僚として育てるといった考えを持っていたようです。そして、このころから吉継はハンセン病を患い、病のため顔が崩れるといった症状が出始めていました。

有名な大坂城で開かれた茶会で、吉継が茶を飲んだ際に茶碗に入った膿を恐れ、出席した諸将が茶を飲むふりをして避けていたなかで、三成は感染を恐れず飲み干したという逸話もこのころのものです。

三成にとって吉継は、同郷の5歳年下の部下だったわけで、吉継を想う気持ちがそうした行動に出させたのだと思われます。もちろん上司・三成に吉継が感動したのは間違いないでしょう。

行政能力にも長けていた吉継

秀吉は吉継の能力を高く評価し、敦賀5万石を与えます。清正、正則、三成らに比べると少ない所領ですが、このあたりは吉継の病のことが秀吉としては懸念だったのかもしれません。

吉継は行政能力にも長けています。領内の産業を促進し寺社などの保護にも努め、また水軍の育成など軍政改革もすすめるなど堅実な統治を行っていました。

秀吉が朝鮮出兵を始めると、吉継は三成とともに渡韓軍の監視監督の任務につきます。このとき三成は、その報告内容から清正や黒田長政らに深く恨みを買うことになるのですが、吉継にはそういうことはありませんでした。

関ケ原の戦いで三成とともに徳川家康と戦うことになる吉継ですが、家康との関係はどうだったのでしょうか。じつは吉継は、家康を高く評価していました。上杉征伐についても家康の方針を支持しています。

家康のほうも吉継の能力を買っていたと思われ、少なくとも両者は対立関係にはありませんでした。吉継は上杉征伐に三成を参陣させ、家康との関係を修復する機会にしようと考えます。しかし、その説得のために佐和山城に寄ったところ、逆に三成から挙兵を打ち明けられてしまいます。


徳川家康は吉継を高く評価していました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

吉継、三成とともに挙兵する

ここで吉継は家康との実力差を指摘し挙兵を思いとどまらせようとしますが、三成の考えは揺るがず、ついに吉継は三成に味方することに。

吉継としては、挙兵の意思を聞いてしまった以上、そのことを家康に伝えざるを得ず、上司・部下としてともに働き友情関係もある三成を売ることはできない、と考えたのでしょう。

さらに軍事的才能のある吉継は、この挙兵が完全に失敗するとまでは言い切れないと考えたのかもしれません。ここで吉継は、三成に重要な指摘をしています。

「あなたは知恵においては天下の中でも並ぶ者はいないだろう。ただし、勇気と決断力に欠ける」

この吉継の懸念は、現実のものとなりました。

吉継は西軍に加わると、すぐさま領国である敦賀に戻って加賀の前田家を牽制し、身動きを取れなくします。わずか5万石の吉継が26万石を有する前田家を抑えきることに成功したのです。かつて秀吉が、

「吉継に100万石の軍勢を預けて戦わせてみたい」

と言ったという逸話があり、その軍才を高く評価していましたが、それを見事に裏付ける戦いぶりと言えるでしょう。


三成と家康の外交手腕の差が、関ヶ原の戦いの趨勢を決めたのかもしれません(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

やはり勇気と決断力に欠けた三成

一方の三成は家康に奇襲をかける立場にありながら、その行動には遅さが目立ちます。東軍の諸将の家族を人質にとる作戦でも、細川忠興の妻であるガラシャが抵抗し自死すると、その作戦をとりやめました。

さらに、腹心である島左近や島津義弘の奇襲作戦を退けるなど、吉継が心配した勇気と決断力の欠如から、東軍の大軍勢を迎え撃たなければならない事態となります。

吉継が加賀の前田家を抑え、信州では真田昌幸が徳川秀忠の大軍勢を足止めさせていたことを考えれば、もしも三成が勇気をもって軍を一気に東上させる決断をしていたら、また違った展開になったかもしれません。

しかし現実は、数でも優位だった家康率いる東軍と真正面での対決となってしまいます。

このような、戦場でのたった一つの決断が勝敗を左右する魅力と儚さに着想を得たのが、拙著『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』です。

関ヶ原の戦いでは、吉継は5700の兵を率いて出陣しました。このとき吉継は小早川秀秋の裏切りを予見し、その小早川隊1万5000が陣取った松尾山のふもとに布陣します。そして開戦当初は藤堂高虎・京極高知らと交戦しました。

そして、運命の時を迎えます。小早川秀秋が裏切りを決意し、松尾山から大谷隊の側面になだれ込みました。このとき吉継は直属の兵600を率い、なんとこれを撃退します。しかし小早川隊に追撃をかける吉継に、予想だにしなかったことが起こります。

小早川の抑えで配置していたはずの脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200が裏切ったのです。これによって大谷隊は四方を敵に囲まれ壊滅します。吉継は乱戦のなか切腹しました。

その首は、介錯をした家臣の湯浅五助の手で戦場のいずこかに埋められたと言われています。その後、湯浅は敵陣に斬り込み壮絶な討ち死にしたため、吉継の首はついぞ発見されませんでした。吉継としては病で崩れた自分の顔を見られたくなかったのです。


関ヶ原、大谷吉継の陣跡(写真:kumayosi/PIXTA)

義の男・大谷吉継


吉継がもし病にかかっていなければ、秀吉は吉継に大国を与え武将として育てたかもしれません。そうなれば関ヶ原の戦いも違う形になっていたでしょう。

しかし最後に石田三成との友情に殉じたことで、武将としての大谷吉継の名は関ヶ原の戦いにおいて強烈な印象を残すことになりました。

なお吉継の子である大谷吉治は、大坂夏の陣で松平忠直隊と戦い戦死しましたが、その子孫と称する大谷重政が、その越前・松平家に仕えると、それを知った老中土井利勝が「家康公が知ったらさぞ喜ばれたであろう」と言ったという逸話が残されています。

敵ながら家康も、大谷吉継の才を惜しんでいたことがわかる逸話です。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)