志村季世恵●バースセラピスト/一般社団法人「ダイアローグ・ジャパン・ソサエティ」代表理事。

1962年生まれ。心にトラブルを抱える人、末期がんを患う人らに寄り添い、約30年で延べ4万人以上をカウンセリング。人の誕生やターミナルケアに携わる。著書に「エールは消えない」いのちをめぐる5つの物語(婦人之友社)『いのちのバトン』『さよならの先』(共に講談社文庫)、共著に『親と子が育てられるとき』(内田也哉子/岩波書店)など(撮影:尾形文繁)

人は誰もが平等に死を迎える。その時はいつ訪れるのかはわからないけれど、それまで何ができるのか、自分なりの花を何度咲かせることができるのか考えたことはあるだろうか?

多くの人の命の最期に寄り添ってきた、バースセラピスト・志村季世恵さんの人生と経験哲学から、人が死ぬまでにできることについて考えます。

志村季世恵さんは、日本でただ1人のバースセラピストだ。

心にトラブルを抱える人や、子どもや育児に苦しみを抱える女性をカウンセリング。また末期がんなど不治の病を患う方の心の苦痛をやわらげるターミナルケアを担当、独自の手法をもって家族や本人に寄り添ってきた。女優・樹木希林さんからも指名を受けて、最後の十余年を並走したセラピストとしても知られている。

「バースセラピストという呼称は、私自身が名付けたものです。ご縁があってターミナルケアに携わるようになりましたが、さまざまな方と最期の時間を共にして、死ぬことは終わりじゃないなと思うようになりました。死とは、もう一度、生まれ変わる機会です。人は死ぬまで変化も成長もするし、何かを生み出し続けている。だから、BIRTH(生まれる)なんです」

バースセラピストに導かれるまで

ターミナルケアの依頼が舞い込むようになったのは、人生を歩む最中にあった、いくつかの偶然の出会いの積み重ねからだった。

志村季世恵さんは、1962年、東京都に生まれた。祖母、父親と父親の前妻との間に生まれた兄と2人の姉、母親と妹と季世恵さんという8人の大家族だった。

「子どもの頃から波乱の多い家でした。定期的に家族の誰かが大きな病にかかったり。身近な人たちの生や死にも早くからたくさん立ち会ってきました。

「3歳で大好きだった伯父が突然亡くなり死というものを知りました。当時父も大病を患っていたのでお父さんも伯父さんのようにいなくなってしまうかもしれないという不安がつきまといました。一方で誕生もあったのです。姉とは歳が離れていたので、小学校1年の頃には姪が誕生して、私は7歳で叔母さんになりました。とてもうれしかったのを覚えています。命は突然消えたり、やってきたりする。幼いうちから、人の生も死もコントロールできないものなのだと気付かされました。

さらには、多くの家庭とは異なる家族の形態でしたし、家族間では、ほかにも大きな出来事が定期的に起こっていて。両親からの愛は受けていても、精神的につらいことは多々つねにあった。不幸と幸せはつねに混在していることも学びました」

どう生きるのも、どう死ぬのも自由なのに

初めて、家族以外の他者の病や死に関わったのは高校時代だ。

「私は10歳から演劇を学んでいたんですけど、演劇は『常日頃、人間を観ること』が大切だと教わりました。家族間で起きることを観ることで、そのときに起きている感情に気付くこともできました。あるとき、父の友人の医師から大学病院の放射線科でその先生の部屋の書物の整理をするアルバイトをしないかと誘っていただき病院に通うことになったのです。

そこにはがん末期の患者さんたちが数多くいらっしゃって。時々お話のお相手もしていました。

あるとき、一度は元気になって退院された方が、再び病院に戻っていらした。季世恵ちゃんに会いたいからと呼ばれて行ったら、『以前、あなたに言われた言葉がうれしかった』と。

その方は初対面時に『○○肺がんの、○○です』と自己紹介したのです。高校生だった私が『私には、肺がんの……なんて枕詞は使わないでお名前だけでいいですよ。いらないです。たまたまがんになっただけだから、ただの○○さんでしょう?』と返したと。自分では覚えていなかったんですけどね」

大病を告知された人は、往々にして、病が自分の属性だと思ってしまうものだという。

「その方もそうでした。それまでの自分についていたあらゆる肩書きは消えて、さらには、自分自身すらも消えて、“がんでもうすぐ死ぬ男”になってしまっていたのだとおっしゃっていた。『でも、あなたの言葉を聞いて、僕は“ただの僕”なんだと思えてラクになれた。そのお礼が言いたかったし、これからもその言葉を誰かに伝え続けてほしい』と言われました」

言うまでもなく、人間の本質は肩書きや持ち物などにはない。もちろん、どんな病にかかったかも関係ない。けれど、弱さを抱えた人間は知らず知らずのうちに、他者にも自分にも、肩書きや年齢や属性などのラベルをつけてしまう。“病”というラベルも同じこと。そうして、その本質に向き合うことから逃げてしまうのだ。


(撮影:尾形文繁)

「でも、そのラベルは自分の心身や生き方を縛る枷になってしまうんですよね。何者であろうとも、どんな病になったとしても、その人は死ぬまでその人です。自分がやりたいことを自分にしかない人生を、最期の瞬間まで自由に全うしていい。

写真家・藤原新也さんの写真集『メメント・モリ』の中に、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という言葉があります。本当にそのとおり。人間は、どう生きるのかが自由であるように、どう死ぬのかも自由です」

仕事に生きてきた男が、人生の最期に願うこと

高校卒業後は病院のバイトを離れて、演劇に打ち込んだ。複雑だった家族関係から早く距離を置きたい思いもあって、20歳のときに結婚。家庭を築き、出産も経験した。

バースセラピストとして初めて本格的にターミナルケアに関わったのは、27歳のとき。知人から頼まれてのことだった。

「知人の方に、『親戚の男性が大病にかかってしまって、あなたにぜひ会いたいと言っている』と。自分がその方に何ができるのかもわからず、とにかく会いに行きました。ただおしゃべりしていただけなんですけど、そのうち、『何だかお腹が空いた』とおっしゃって。すでに何も食べられなくなっていた時期だったんですけど、食欲が湧いてきたというので、雑炊を作ってみたら美味しそうに食べてくれたんです。奥様がとても喜ばれて、『またぜひ遊びにきてください』と。

当時の私は、時間に余裕もあったから、時々、遊びに行って話を聞いていたんです。そのうち、彼自身から『死ぬときにそばにいてほしい』と。そばにいようと思いました」

その後、人づてに話が広がり、多くのターミナルケアの依頼が舞い込むようになった。

「でも、お引き受けできるのは1年に1人か2人。私は医療従事者ではありませんし。私にとってターミナルケアは、仕事ではなく、ボランティアです。あくまでもその人にとって、最期に出会えたお友達なんです」

とはいえ、季世恵さんがたくさんの出会いと経験から生み出した、独自のターミナルケアは、多くの医療関係者からも注目を浴び、リスペクトされている。

具体的にはどんなことをするのだろう?

「お話を聞くことが中心ですが、一緒に遊んだりもします。お散歩したり、外出して自然の中で大地を感じ裸足で歩いたり。家や病室から出られなくなった時には、オセロゲームしたり、トランプしたりも。子どもの頃みたいに、ただの友達同士として他愛もない遊びをします。すると、その人からポツポツとそれまでとは違った素直な言葉が出てきたりするから、それにポツリポツリと応えたりします」

自由に楽しい時間を過ごすうちに、多くの人はそれまで被っていた社会的な顔を取り外して、心が解け、“ただの自分”に戻っていく。そのとき、初めて心の奥にしまい込んだ本音が出てくる。その本音とは、病や死への恐怖や不安ももちろんあるけれど、“残された時間、人生でかなえておきたかったこと”も立ち現れる。

「ずっと心の奥に留めていた願いですね。それは、家族間の解決しておきたい問題とか、自分のミスで仲違いした人と仲直りしたいとか、一度行ってみたい場所があるとか、人によって異なりますけど。心からの願いが現れたら、それをどうしたらかなえられるのかを、対話しながら一緒に考えたりします。思うに、私がやっているのは、その人の心の扉を一緒に開けて、人生でやり残したことをやるお手伝いなのかもしれません」

それまでの人生で多数の花を咲かせた人でも、今世でやり残したことがないと言い切れる人はきっと少ない。

それは人それぞれだが、「多くの人が望むのは、人間関係の再構築」だと言う。どれだけ地位や名誉やお金があろうとも、家族や友人関係に残してきた後悔を、最後に解消させたい。少しでもわかり合いたい、愛を感じたいと切に願う人は多いのだと。

「とある仕事に生きてきた地位も名誉も財もある男性は、妻以外の女性も何人かいて、その間にできたお子さんも何人かいらっしゃいました。一生懸命、働いてお金は運んでくるものの、家族を大切にしているとは言いがたい人生だと自覚していらして。実際、奥様や子どもたちとの間には、不和やわだかまりもあって……。

そんな彼が大病を患って、人生の終わりが見えたとき、『最後は家族とちゃんと話したい、解りあいたい』とおっしゃっていました。彼のような思いを抱く人は、本当に多いんです。どんな人生を送ってきても、最期に求めるのは、“人の温もり”なんだなと」

樹木希林さんからもらったエール

樹木希林さんからターミナルケアの依頼を受けたのは、希林さんのがんが再発して間もなくのことだったという。季世恵さんは、希林さんの娘である内田也哉子さんと友人だったこともあり、かねてから顔見知りだった。

代官山の和食屋の個室で、也哉子さんと3人で顔を合わせた。しばらくすると、希林さんは切り出した。

「私が私でいるために、あなたにそばにいてほしい」。

真っ直ぐに言われて、その役目を引き受けることに決めた。

「希林さんは、自分はこう生きたいはもちろん、最初から、こんなふうに死にたいという死生観がしっかりとある方でした。

だから、私がすることなんて何もなかったはずなのです。一緒におしゃべりして、腕を組んでお散歩しながらよく食事に行きました。けれど、そのおしゃべりの中にたくさんの示唆が含まれていました。

ときどき、希林さんは私に裕也さんのお話をしてくださったけど、『本当に裕也さんのことを愛していたんだな、2人は愛し合っていたんだな』とそばで話を聞いていて感じました」

希林さんとの間に紡いだ関係は、今も続いている

世間的には理解されづらい、不思議な形の夫婦関係だったかもしれない。けれど、希林さんは、「自分が生きるためには裕也さんの存在が必要だった」と。

「娘の(内田)也哉子さんや仲良しの美代ちゃん(浅田美代子さん)も、希林さんを思うからこそ、『2人の夫婦関係は理解できない』なんてよく言ってましたけど……。だからこそ、希林さんは、他人であり、裕也さんのことをよく知らなかった私には、言いやすかったのかな」

希林さんの最期の友人として心に寄り添っていたものの、それは決して与えるだけの時間ではなかったという。


志村さんの著作(撮影:尾形文繁)

「私もいつも希林さんに支えられていました。そばにいた頃、私は『さよならの先』という書籍を執筆中だったんですが、『原稿が完成したら一番に読むよ』とおっしゃってくださって。

帯を書いていただくお願いもしていたので、お言葉に甘えてお送りしたら、すぐに読んでくださって、直接、感想を伝えてくれました。『すごくよかったよ。よく頑張ったね、頑張ったね……』と何度も言いながら、まるで子どもにそうするように、私の全身を撫でながら抱きしめてくれたんですよね。こんなに褒められたことないと思うくらい。いつもたくさんの愛をもらっていました」

希林さんとの間に紡いだ関係は、亡くなった今も続いていると感じている。

「人は死をもって旅立ってからも、その存在で、言葉や思い出で残された私たちを支えてくれている。希林さんだけではなく、今はもう会えない方々にもらった宝物は、まるでエールみたいに、私を守ってくれています」

季世恵さんの新刊『エールは消えない』には、希林さんを含め、彼女が寄り添ってきた故人の最期や思いのやり取りなどのエピソードがつづられている。ちなみに本作の帯には、希林さんがコメントを寄せている。

「希林さんが生前、プレゼントしてくださったものです。『あなたはまたきっと本を書くから、未来の本の分の帯も書いておくよ』と。これもいただいたエールの1つですよね」

死ぬことに向き合って見えてくるもの

「この本を書こうと思ったきっかけは、昨年、中学生になった勇くんという男の子の友人の存在でした。彼は幼い頃に母親を自死で亡くして。その後は、祖母が母親代わりになって愛を注いでくれましたが、中学生になり、父親と2人暮らしをすることになり祖母と離れることになりました。つまり、二度もお母さんのような大きな存在との別れを経験した男の子です。きっと大きな喪失感を味わっているであろう、彼の羅針盤になるような本を書きたいと思いました。

身近な人の死を経験して、生きることに迷っている人へ。生きることはもちろん、死ぬことについて前向きに考えられるような……」

季世恵さん自身も、本作の執筆中に母親を亡くした。

「私は人生のほとんどを母と共に暮らしてきたので、やはり、心にぽっかりと大きな穴が空いたのを感じました。生きとし生けるものとのお別れは必ずあるものだけど、それを知っていても、慣れないのが人間なんでしょうね。


母は生きることに最期まで前向きな人でした。世の中には死を受け入れて自分のものにしている人と、拒絶している人がいますが、母は後者。断固として受け入れず、最後まで生きることを願い、積極的に抗がん剤を打っていた。

でも、言い換えれば、母は死ぬまで現役だったんです。亡くなる10日ほど前に私と夫に向かい「戦力になれずにごめなさい」と言ったとき私は泣きました。そんなふうに思っていたのかと。仕事で遅くなる私に代わり家事や子育てをしてくれていた。それは私と共に戦っていると思っていたのですよね」

たとえ明日死ぬことがわかったとしても、大切なのは、どう死ぬかではなくてどう生きるかだと季世恵さんはいう。

「死は生の積み重ねの先にしかないし。死ぬまで生きているんですから。これは、私が出会って、最期を共にした方々も、同じことをおっしゃっていました。

希林さんもそうです。死生観を深めることで、より一層生きることを深めることができると。その思いは、シンプルで質素な生活や丁寧な暮らし方にも反映されていたと思います。

だから、死を身近に思うことや、喪失の経験は、生きるうえで必要なとても大切なことなんでしょうね。でも、病気になる前、元気なときに、そんなふうに生きられたらいいのにと思います」

後編へ続く)


芳麗さんによる連載9回目です

(芳麗 : 文筆家、インタビュアー)